説教原稿

2010年7月25日
「権威あるイエスの言葉」
ルカによる福音書4:16-37

先週、私たちは、イエス様が荒野で誘惑をお受けになった様子を聖書から学びました。
イエス様がヨルダン川で洗礼を受け、鳩のような形の聖霊を受けられ、そして、聖霊の導きによって、荒野で誘惑をお受けになりました。霊に満ちたイエス様は、聖書の言葉により、悪魔の企てを打ち砕かれました。
洗礼を受け、霊に満たされた人は、霊の導きを受けます。決して一人に捨て置かれることはありません。どうしてこんな状況に導かれるのか、不審に、いぶかしく思えることがあるかもしれません。しかし、イエス様も、霊の導きにより、悪魔の熾烈な誘惑にお会いになりました。そしてみごとに勝利なさいました。

「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」ヨハネ14:18

イエス様は、聖霊の力に満ちて、ガリラヤに帰られました。そこはイエス様が30年の間、家族に仕え、職業によって地域の人たちに仕えてこられた場所でした。
イエス様は良き評判を得て、諸会堂で教え、皆から尊敬を受けたと聖書にあります。

イエス様は、ご自分の公の生涯のスタートを迎えられたのです。一連の出来事、洗礼と、誘惑はイエス様の就任式のようなものであり、そしてガリラヤ伝道が始まりました。今日の個所、23節には、ガリラヤ湖の北の方、カファルナウムで色々なことをしたと書かれています。またイエス様の最初の奇跡、カナの婚礼の席にて、水を最上のぶどう酒に変えたとありますが、それもガリラヤ地方での出来事でした。
今日の聖書箇所の後半部分には、悪霊に取りつかれた人が解放される出来事が載っています。また、イエス様の奇跡には、病気の癒しや、目の見えない人の開眼、そして歩けない人が歩けるようになったりと、様々なものがありますが、どれも人間のできる業ではありません。

今日の聖書の学びの第一のポイントは、イエス様は、人並み外れた神の業をなさったということです。
ガリラヤ地方で活躍なさったイエス様でしたが、公の生涯に入られてから、ご自分が育たれたナザレの地方に来られたのは、この時が初めてだったのでしょうか。
イエス様はその時を安息日の日と、選ばれました。
この時すでにガリラヤで良き評判を得ていらっしゃったイエス様のニュースは、すでにナザレの人たちの耳に入っていました。

会堂管理者は、この安息日の礼拝の時に、聖書朗読を教師たちに頼んでいました。今日私たちが教会に集っているように、イエス様の時のユダヤ人たちもまた、旧約聖書の学びと、神様の礼拝に熱心でした。
私が神学生の時に、イスラエル帰りの先生が、お昼のチャペルを担当なさったときのことです。私たちは、礼拝の中で、讃美歌や祝祷の時には起立しますが、その先生は、聖書朗読の時に学生たちを起立させました。そしておっしゃいました。私たちは神の言葉に敬意を抱き、起立するのです。

このことは、今日の聖書箇所からも伺えます。
16節には、「聖書を朗読しようとしてお立ちになった」とあります。そして20節には、聖書の巻物を返して席に座られたとあります。

私たちもまた、神の言葉のまえに、その権威の前に、額づき、恐れと従順の気持ちを持つべきです。

イエス様は、渡されたイザヤ書の御言葉の中に、この一節をお見つけになりました。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

旧約聖書レビ記25章には、「ヨベルの年」ということが書いてあります。貧しくて自分の身を奴隷として売った人でも、7を7倍、49年経てば、50年目には解放されるというものです。

主の霊によって満たされたイエス様は、ご自身の到来によって、このみ言葉がついに成就されたとの確信をもっておられました。
貧しい人に福音を告げ知らせる。これが神様の深い深い御心です。

この貧しい人というのは、物質的に貧しいこと、霊的に神様から離れ貧しいこと、立場が劣っていること、惨めな状態であることなど、色々な意味を含んでいます。
この時イスラエルは、ローマの属国として、立場が劣っていました。税を納めるため、経済的にも苦しかったことでしょう。そして、イスラエルは、神の選民でしたが、相次いで送られる預言者を虐げる、かたくなな民でした。後に神のひとり子イエス様を十字架にかける行いを見ても、神様のお心から離れていたことがはっきりと分かります。
こうしたことから、霊的にも、イスラエルの民は、やせ衰えていました。
そういった、様々な貧しい状況の中にいる人たちに、福音がもたらされるのです。

良き性格に乏しいもの、意志薄弱、更生の見込みなし、頑固で、人の意見に耳を傾けない。人間性を評価されたならば、「きわめて貧しい」と判断される、その人間性においても、信仰においても「貧しい人」に福音が告げ知らされるのです。そのために、父なる神は、御子を遣わし、聖霊によって、任命の油注ぎをなさったのです。

「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

主なる神様は、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人のため、救い主を送って下さいました。

神の霊は、貧しい人を満たす霊です。捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人と共にあります。
極言しましたら、神様は、喜んでいる人よりも、悲しんでいる人により関心を持っておられるということです。
貧しい人! 欠乏している状態。 必要が叫ばれている状態。 悩み、悲しみ、困難。どうしようもなく、立ち行かない状況。
神様はこういった、貧しい人に、良き知らせをもたらして下さるのです。

私たちも、子どもたちが悲しんでいるならば、どうにかしてあげようと、全力で考えます。大笑いしている子供はさておき、涙を流している子供に近づいて、それが自分の子供であろうとなかろうと、言ってどうしたのと聞かずにはおれません。神様もその親心でいて下さるのです。そして神様のお力は、私たちをはるかに超えて力強いのです。

主はイエス様を救い主として就任なさいました。ですからイエス様は、あなたを救って下さいます。
神様は捕らわれている人を解放して下さいます。 罪に捕らわれていた私たちを赦免し、獄から解放して下さったのです。 罪と死のなわめから、解き放って下さったのです。
目の見えない人に光を。圧迫されている人の重荷を代わりに担って下さいます。
人には出来ない贖いと赦しと癒しを与えることが出来る唯一の方です。
ヨベルの恵みの年は、イエス様によってもたらされたのです。

21節、イエス様は、おっしゃいました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現した。」
何という、威厳に満ちた言葉でしょうか。神ご自身がここにいらっしゃるのですから。救い主、贖い主、この方がいのちを注ぎだして、私たちを贖って下さるのですから。決意に満ちた言葉です。私が遣わされ、救いの福音が花開く。イエス様でした語りえないこの言葉です。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現した。」
そうです。救いは、イエス様の到来によって既に私たちに、もたらされたのです。
聞いていた人たちは皆、イエス様をほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いていました。

しかしふと、ナザレの人たちは、イエス様の足元を見てしまいました。
「この人はヨセフの子ではないか。」
「それならばあなたが救い主だというしるしを見せて御覧なさい。」
こういう疑い、迷いがむくむくとそこにいる人たちの心を覆っていきました。

イエス様はおっしゃいました。
エリヤの時代、大飢饉が起こった時、イスラエルの多くのやもめのところに彼は遣わされずに異邦人の女性に遣わされた事。このやもめは、信仰をもって最後の一口しかないパンをエリヤに与えたからです。また、エリシャの時代には、イスラエルにはたくさんの重い皮膚病を患っていましたが、異邦人ナアマンは清くされたということ。ナァマンは、エリシャの言葉を信じてヨルダン川で七たび身を洗ったからです。

今日の聖書の第二のポイントは、「主は信じるものに救いの奇跡を現わされる」ということです。イスラエルだからと言って救われるのではなく、イスラエル人でも異邦人でも、神様を恐れかしこみ、信じるならば奇跡を見ることが出来るのです。

「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」 ローマ1:16

しかし、ナザレの人は信じることができませんでした。彼らは自分の目に見えるものばかり、自分の理解する事ばかりを優先させ、神様の開いて下さったものを受け入れることができませんでした。そればかりか、イエス様を冒涜者として殺そうとして、崖まで追いつめたとあります。この姿はまさに、選民イスラエルの心の傲慢を示しています。霊的な貧困いや、霊的な死の状態を示しています。
イエス様は、崖に追い詰められながらも、不思議と人々の間を通り抜けて、難を逃れました。まさに、イエス様は、高い所から落ちて足が石に当たらないように天の使いたちによって守られているという、あの荒れ野の誘惑の時の御言葉が成就しました。

信じないものには主は奇跡をあらわすことがおできになりません。イエス様は同じくガリラヤの町カファルナウムに下り、安息日に人々を教えておられました。
32節には、「人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。」と書いてあります。
芥川龍之介ですとか、太宰治ですとか、文豪が様々の著作を作りました。また、哲学者たちも著作を世に出しました。そして後になって、研究者が現れて、著者の世界観はこうやって時間を追って形成されて行ったとか、そういう観点からこの時期の著作はこのように理解されるとか、評論を世に出します。
聖書理解する時も、昔から今に至るまで、多くの学者たちが、聖書を本当に理解するために、実に様々な著作を出しています。
書かれた本について疑問があるならば、書いた著者に質問をぶつけるのが一番の早道でしょう。そうすれば、あなたは読み込みすぎですよとか、あなたのその理解は実に正しいものですとか、反応が返ってくることでしょう。
そしてここに、聖書の著者、神のひとり子がおられるのです。そしてご自身が著された聖書を解説して下さるのです。これにまさる解説があるわけがありません。この方が語られる時、権威が感じられないわけがありません。

イエス様は、そのようなお方です。世界の形のない時からイエス様はそこにおられ、ひとつひとつを形作られたお方です。そして私たち一人一人のことを、全てご存知です。
この方が、この世界に人として来て下さり、私たちのために死に、私たちのためによみがえって下さったのです。この方により頼む人は、決して失望することがありません。

イエス様がカファルナウムの会堂におられた時、汚れた悪霊につかれた人がいて、大声で叫びました。
「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」

ナザレの人はイエス様のいわば正体を見抜くことができませんでしたが、悪霊はよく分かっています。悪霊はよく分かって、身ぶるいしているのです。断末魔の叫び声をあげているのです。

私たちはいかに無知で、感覚的に鈍く、知識にも疎く、見抜く力もないことが分かります。それに比べて悪霊は、知識にも、理解力にも、判断力においても、私たちよりはるかにまさっているように思います。しかし、私たちには太刀打ちが出来ないほど狡猾で力強い悪霊も、イエス様の前では無力です。

イエス様はただ一言、悪霊に「黙れ。この人から出ていけ」とお叱りになりました。すると、悪霊はその人に何も傷つけることもなく、出て行きました。

この力あるお言葉、権威あるお言葉の前に人々は驚き、互いに話し合いました。こうして、イエス様のうわさは、ますます辺り一帯に広まって行きました。

今日のポイントをまとめたいと思います。
神の霊は、貧しいものに良き知らせを授けようと、イエス様を任命し、お遣わしになったということです。このイエス様は、ただ一人、罪のなわめから私たちを解放することが出来る方です。目の見えない人に光を与え、抑圧されている人に自由を与え、人には出来ない素晴らしいことをすることができる救い主です。

第二には、私たちの側に必要なことについてです。このすばらしい福音のために召された方の力を受けるために私たちに必要なのは、信じるということです。自分の理解や見えるものにしがみつかないで、それらを脇において神様にしがみつくのです。

権威と力あるイエス様の懐に、恵みを授けるために来て下さったイエス様の懐に、今日も飛び込み進みゆき、恵みの只中を今週も生かしていただきたいと願います。

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