説教原稿

2010年7月18日
「聖霊に満ちて」
ルカによる福音書4:1-14

先週の聖書箇所で、私たちは、イエス様が、洗礼を受けられたということを知りました。
イエス様は神様ご自身ですから、罪の悔い改めも、聖霊の満たしも必要のないことでしたが、イエス様は、私たち人間の代表者として、私たちの歩むべき道のりをひとつひとつ、身をもって指し示して下さいました。

そして今日の個所もまた、有名な、「荒野での誘惑」の個所です。

悪魔がひと気のない荒野でイエス様をいじめぬいたというようなニュアンスを受けます。イエス様と悪魔との、力比べが行われたように思います。悪魔は、イエス様と対等に戦うことが出来るほど力のある存在のように思います。しかし、悪魔には、そんな力はありません。イエス様はここでも、人として、人類の代表として、私たちの経験を知って下さり、そして、私たちの代表として、悪しき者の試みを、打ち破って下さったのです。

洗礼を受け、鳩のような姿で聖霊の降りて来られるのをご覧になったイエス様。洗礼を受ける時私たちが、同じように、たちどころに聖霊に満たされることを保証して下さいました。

そして聖霊に満ちて、イエス様は、洗礼を受けたところ、ヨルダン川から帰って来られました。

「聖霊に満ちて」とありますが、これは特別なことではありません。罪の悔い改めのバプテスマ、キリストの十字架の贖いによるバプテスマを受けた人には、神の聖霊、神ご自身が、いつも宿っていて下さるのです。

この聖霊が、イエス様を、荒野へと、導かれたのです。そして、2節にありますように、40日間の悪魔からの誘惑が、始まりました。ですから、悪魔の試練、誘惑は、決して悪魔のお膳立てや主導権によってもたらされたものではなく、聖霊なる神様のご計画と導きによったものであることが分かります。

聖書1コリント10章13節には、こう書いてあります。
「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(新改訳)

私たちが、突然にやってきた試練、試みのうちにあって、ひるんでしまうことがあります。どうして神様は、私たちをお見捨てになられるのですかと、悲嘆と疑いの黒雲に包まれることがあります。
しかし、洗礼を受けたものが、ひとり取り残されることは決してありません。いつも神の霊が共にいて、常に導き続けていて下さるのです。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」ローマ8:28

ああ試練だなあ、ああつらいなあと、しみじみと思う時も、私たちは、神の霊によって導かれているのです。

悪魔は私たちを滅ぼそうとして誘惑・試練に遭わせているに違いありません。悪魔は私たちを困らせようとしているに違いありません。そして私たちがしくじれば、そら見たことかと、神様、あなたのしもべなんぞ、あの程度ですわと、断罪するに違いありません。
しかし、神様は、そんな悪魔のはかりごとさえも、私たちのために、益として用いて下さるのです。

この「誘惑」という言葉は、誘惑という意味の他に、試みる、すなわち、「テストする」という意味があります。悪魔は合格か否か、私たち人間をテストするのです。そしてテストに失敗して罪を犯すや、検察官のように、罪を告発して、裁判官である神様に、被告である人間に対して罪人の宣告をさせ、罰を与えるようにと訴えかけます。そのために来て下さったのが、イエス・キリストです。
イエス様は、不合格となってしまった私たちを救うために立ちあがって下さいました。
裁判官である父なる神様は、愛のある方であっても、その正しさのゆえに、罪あるままで罪科なしとして受け入れることができません。そこでイエス様が、罪の身代わりとして、人の罪をことごとく身に引き受けて下さったのです。

私たちは、「テスト」という言葉を聞きますと、ついぞっとしてしまいます。成績のいい人ならば、あるいはテストが楽しみで仕方がないと思うことでしょう。しかし成績のいい人は、100点以外は点ではないと思っているとしたら、テストは苦しいものかもしれません。

テストとは、本来、自分の到達度を確かめるための道具にすぎません。そうして、自分がこれこれのことが理解できていなかったのだと気づけば、そこの所を改善すればよいのです。旧約聖書の律法というものも、本来はそういうものであったに違いありません。それらを悪魔は、逆手にとって、人を攻撃するのです。本来人を育てるはずの「テスト」が、悪意によって用いられる時に、人を、立ちあがらせないまでに打ちたたくものとなってしまうのです。
悪魔は、そのような形で、イエス様を試みに遭わせました。しかし、聖霊は、神の栄光をあらわすために、悪魔の攻撃さえも逆手に用いられるのです。

悪魔は、イエス様に言いました。
「もしもあなたが神の子なら、この石にパンになるように命じなさい。」
イエス様は、40日間、何も食べずに荒れ野での試練を受けておられました。
その40日間が終わり、さあ終わったという思いとともに、空腹を覚え、ほっと気が抜けたところに、悪魔はまた新たな誘惑をもってやってくるのです。

悪魔は、私たちの弱点を見抜いています。非常に狡猾な存在です。そして残念なことに、私たちよりも力が強い存在です。
今まで多くの人たちが、いやすべての人が、悪魔のこうした策略によって、失敗と挫折に導かれてきました。
人を許すことが出来ずに報復するとか、カッとした一時の感情に流されて人を殺すというような罪を犯すこと、誰も見ていないから盗んでもいいというような心の弱さをついて罪を犯させること、心の欲望や、感情の行き違いから、国と国が戦い、領土争いや、覇権の争いをして、罪もない一般市民が巻き添えになってしまうとか、地雷を埋めるとか、全てこれらは、人の弱さに付け込んだ悪魔の暗躍というよりほかありません。

まさにこの時、極度の空腹の中にあり、40日の期間を終えたイエス様に、悪魔は手を伸ばします。
イエス様は神ご自身でありながら、罪を犯すことを除いては、あらゆることにおいて、人と同じになられました。人の代表となられました。そんなイエス様が、ほんの一瞬でも自分の空腹のために、神の力を用いて石をパンにするようなことがあれば、神様にとってはごく簡単なことであったとしても、人間の代表としてはまかりならん、人は自分のために、いくら頑張っても石をパンになんかできないのに、イエス様は、神の力を乱用して、自分を肥やす働きをした、そんな人に人間の気持ちなんかわかるはずがない、人の代表としては失格者だと、悪魔はなじることでしょう。

イエス様は、ご自分の考えを述べて悪魔と戦うことをせずに、静かに、聖書をただ引用なさいました。
「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある。」
これは申命記8章の言葉です。ここには、エジプトから救い出されたイスラエルの民が、金の子牛などを作って神様に不従順になったため、40年の間荒野を歩く民になったことが記されていますが、その神様の目的は、民を苦しめて、民を苦しめ、そして民が神様の命令を守るかどうか、民の心のうちにあるものを知るためであったということが書かれています。
食べ物のない荒れ野の中で、パンのないところで、しかし神様はその間ずっと、人の知らなかったマナという食べ物を与えて下さった。だから、人はパンのみに生きるのではなく、むしろパンを超えて働かれる神様の口から出るすべてのものによって生きると、語られました。

この言葉を受けて、イエス様は、パンのないところにも、神様は、自分のいのちのためになら、人の知らない食べ物をも造り出して自分の命を守って下さるから、私はその信頼に生きる。自分自身の力技で状況を解決しようとはしない。むしろ私は神の力を待ち望むと、そのようにおっしゃったのです。

このこともまた、私たちが心に留めるべきものです。
私たちは、とかく自分の力ですべての物事をやり終えなければならないと必死になります。自分の力でパンを作らねばと必死になります。しかしそのようにして、すべてのことを自分がすることが出来たら、どうして私たちにとって、神様が必要となるでしょうか。
人は自分の成し遂げたいことを叶えるために、神々を作り出して祈願しますが、それは全く逆なのです。
私たちのいのちは、自分のものではなくて、神様のものです。私たちのいのちは、パンだけによって養われるのではなくて、私たちを造り、私たちを統べ治めていらっしゃる神様に従い、生きることによって満たされるのです。

「常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば 主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」箴言3:6

悪魔は次に、瞬間移動して、イエス様を高い高いところに連れて行きました。
ああ、悪魔は本当に存在するんだな、そして、私たち人間の能力をはるかに超えて、パッと現れたり、パッと瞬間的に移動したりできるんだな、ということが分かります。
そして、食欲の次に、世界を支配する支配欲と、全ての繁栄を手にする所有欲をくすぐります。
「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることが出来るからだ。」
皆さん、この地上はすべて神様のものだと思いますが、悪魔は自分に任されていると言います。そうです。この地上には、神の国と、悪魔の世界する所が共に存在しています。神の国では、一切の権力と繁栄の神のものと言います。しかし、神ならぬところで広がっている闇の王国では、悪魔が任せるものにその権力と繁栄が任されています。人に麻薬を売り、賭博を司って資金を増やし、王国を建設している人がいます。ある会社が不正を働いて、裏金を作っています。「もし私を拝むなら、みんなあなたのものとなる。」悪魔を拝むとは、悪魔のやり方の前にひざまずいて、それに従うということです。
悪魔の手下になって相続する闇の権力。人の血の犠牲の上に立てられる権勢。それを私たちは、望むでしょうか。

イエス様は今回も、静かに聖書を引用なさいます。私たちも、聖書への信仰とともに神様を信じます。
「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」

私たちが主に従い、仕える時、私たちは神様の王国を受け継ぐのです。神の子イエス・キリスト犠牲の血によって、私たちは今、贖われているのです。

次にサタンは、イエス様の疑いを引き出そうとします。
きよい神殿のいちばん高いところにイエス様を連れていきました。こんなきよいところにも、悪魔は立ち入れると思いますと、ぞっといたします。やはり、この地上のどこにおいても、悪魔は、行き巡って、人をおとしめようと、暗躍しているのです。

「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。」1ペトロ5:8-9

「もしもあなたが神の子なら(神の子だから当然)、ここから飛び降りたらどうだ。こう書いてあるからだ。『あなたの足が石に打ち当ることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」 どうだ、飛び降りてみなさい。天使が支えるのだから。そうでしょう、あなたは聖書を信じているのならば飛び降りれるでしょう?それともあなたは怖いのですか。聖書を信じていないのですか。

驚くべきことに、悪魔は、聖書の言葉を引用して、誘惑を仕掛けます。

イエス様は、深い信仰に立っておられました。みじんも、疑う心はありませんでした。それゆえ、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とおっしゃいました。
神様は、自分で試したのち、信じられるのならば信じてやろうという存在ではない。
世界の初めからおられ、被造物を造られた神に対して試してやろうと疑う心は、誤りであると、イエス様は、おっしゃいました。

イエス様は、聖霊に導かれ、悪魔のテストをお受けになりました。そして聖書の言葉から、悪魔に打ち勝ちました。このことは、私たちに大きな勇気を与えます。
「「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」 ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」ヤコブ4:6-8 新改訳

イエス様は、目の前の石をパンに変えるよりも、目の前の石をパンに変えることのできる神を信じました。
イエス様は、悪魔の権力と繁栄を手に入れるよりも、自分のすべてを与え、命さえ与えることによって、神様のみ栄のために歩まれました。
イエス様は、自分が飛び降りたら本当に天使が自分を守ってくれるだろうかと疑わず、また自分がそれほどに重要な人物であることを誇らずに、ただ神様の前に自分を低くし、神様の御力を疑いませんでした。

この神様への信頼をもたらし、私たちを、目に見えるいろいろな欲から解き放ち、神様の心にしっかりと結びつけて下さるのが、聖霊なる神様のお働きです。

御言葉に親しみ、聖霊様のお守りのうち、霊に満たされ、私たちに襲いかかる様々の試練に勝利させていただけることを信じて、新しい一週間の旅路につきたいと願います。

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