説教原稿

2010年7月11日
「愛する子、わたしの心に適う者」
ルカによる福音書3:21-38

先週、私たちは、バプテスマのヨハネの記事を、聖書から読みました。
ヨハネは、主の通る道をまっすぐにするために、主をお迎えするために、遣わされた預言者でした。彼は、罪の悔い改めと、水による洗い清めによるバプテスマを示していました。
しかし、来るべき主は、彼がその方の靴の紐をほどくにも値しないほどのお方で、その方は、聖霊と火でバプテスマを授けると語りました。

ヨハネの説く、悔い改めの洗礼の勧めは、多くの人の心を打ち、たくさんの人が、ヨルダン川で、彼から洗礼を受けていました。
時はやってきました。
イエス様はおよそ30歳、これまでじっと、ご自分の時を待っておられました。

30歳と言いますと、民数記4章には、祭司としての働きを始めることのできる年齢は、30歳からと記してあります。また、旧約聖書の人物では、ヨセフが苦労に苦労を重ねてついにエジプトの王に仕えるようになったのがまさしく30歳の時(創世記41:46)、また、ダビデが、サウル王からの嫉妬の中で命を狙われつつ、ついにイスラエルとユダの王となったのも、まさしく30歳の時でした(サムエル記下5:4)。

今日お読みいただきました個所には、長々とした、人名録がありましたが、これは、イエス・キリストの系図です。マタイによる福音書でもこれと似た系図が記されていますが、マタイは、アブラハムからイエス様に至る系図を記しています。しかし、異邦人への救いを強調して書かれているルカによる福音書では、イスラエル人にとっての父、アブラハムを飛び越えて、人類の父、アダムにまで系図の範囲を伸ばして、記しています。これは、救いはイスラエル人のみのものではなくて、造られたすべての人のものであるというメッセージです。

このアダムは、神様ご自身が手ずから造られた人間でした。
神様は、創世記1章26節に、こう語られています。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」
人は、神様に似せられて造られ、神様の家族のように、重要な存在、離れがたい、神との一致の中で、創造されました。
アダムはまさしく、神の息子でした。
ルカが、この、アブラハム、イサク、ヤコブという、父・子の系図の中に、アダム、そして神と書いたところには、そのような、密接な親子の関係があったことを、示しています。

しかし、この親しい親子の関係は、すぐに壊れてしまいます。神と人が、親子のように密接だったこの関係は、人の不従順によって、罪によって、壊れてしまいました。

その後、だれ一人として、この密接な、神を父とする関係を結ぶことのできる人は、いませんでした。
そこに、イエス様が登場されたのです。

「あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者」
直訳すれば、「あなた、あなたこそ私の愛するたった一人の私の息子、あなたを、わたしは喜ぶ。」となります。

イエス様が洗礼をお受けになったとき、聖霊が鳩のような形としてイエス様の上に下り、そして、父なる神の声が聞こえる。まさに、父、御子、御霊がここには共におられます。

世界の始まる前から、共にいらっしゃり、分かつことのできない、三位一体の神様のお姿が、ここにあります。

はるか昔から、すでにイエス様は、父なる神の前に、「愛する子、心に適う子」であられました。はるか昔から、イエス様は、聖霊なる神と共におられました。
大体から、洗礼は、罪深い私たち人間が、罪を悔い改め、洗いきよめを受けるためのものでした。

どうしてここに、きよい方が人の肉をまとい、洗礼を受け、神の霊を受け、父なる神の御声を受けなければならなかったのでしょうか。

それは、まぎれもなく、私たち人間のためでした。
イエス様は、人間の代表として、この地上に、人として、やって来て下さったのです。

アダムが失格者となってしまった後、イエス様が、第二のアダムとして、堕落前、人間が持っていた、神様との親密な親子としての関係を取り戻すために、イエス様は、人として、神として、この地上に来て下さったのです。

イエス様は、人として、私たちを引き上げる人として、来て下さいました。
イエス様は、人の系図の中に生まれました。半人間でも、幽霊でもなく、まぎれもない人として、生まれて下さいました。
系図は、そのことの証明です。神様が、完全な人として、生まれたのです。何という謙遜でしょうか。神様は、私たちと同じになられたのです。
そして、イエス様が洗礼をお受けになられたということも、そのことを示しています。

多くの人たちが洗礼を受けるなか、イエス様も同じように、同じ人間として、洗礼をお受けになりました。イエス様は、私たちの代表となられました。そしてイエス様は、私たちの模範となられたのです。

イエス様はそのように、私たちと全く同じようになられましたが、私たちと全く異なる部分もあります。それは、父なる神に対して、従順であり、その間柄に、何の傷も、破たんもないということです。

私たちも、この新しい人類の代表であるイエス様によって、新しい神の民とされるのです。
そこにはもはや、罪も、傷も、破たんもなく、アダムが神に似せられ造られ、神の子供であったと同じように、私たちも、神様をアバ父、お父ちゃんと呼ぶことが出来るのです。

イエス様は、人類の代表として、十字架にかかり、人の罪をすべて自分の身に引き受けて下さいました。私たちのために、身代わりとなって下さいました。人の代表として、人の罪のために、世界の罪のために洗礼を受けて下さり、人の罪のために、世界の罪のために、十字架に死んで下さったのです。これは、神には出来ないことです。人となられたイエス様にしか、出来ないことです。
そして救われた者に、聖霊を与えること、そして、永遠の命を与えること、これは神にしかできないことです。イエス様は人として、神として、イエス様にしかできないことをするために、この地上に来て下さいました。

エゼキエルの召命の時のように天が開け(エゼキエル1:1)、イザヤ書に記してあるように、神の霊が置かれ(イザヤ42:1)、神の霊がイエス様をとらえ、宣教へと向かわせました(イザヤ61:1)。詩篇2章7節に「お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ」とあるように、「あなたは私の愛する子」と語られました。
聖書は、このイエス・キリストを指し示しています。イエス様こそ、聖書の成就なのです。

天が開けたということは、神の国が、イエス・キリストによってもたらされたということです。
聖霊に満たされる必要のない方が聖霊に満たされるのは、人が、この方によってきよめられ、聖霊に満たされるようになることをあらわしています。
そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、直訳すれば「あなた、あなたこそ私の愛するたった一人の私の息子、あなたを、わたしは喜ぶ。」という言葉もまた、このイエス・キリストによって、私たちのための言葉となっているのです。

神の系図の中に、神様が、どれだけ人間を愛し、導いてこられたかを知ることが出来ます。
皆罪人で、不完全な者たちでしたが、神様は、この不完全な人間たちの間から、救い主キリストを生まれさせなさいました。
神様は、ご自分の御心から離れていく人類を見放すことなく、その不完全な人間の系図を無意味で汚らわしいものと見下さず、その系図の中から救い主を生まれさせ、ご自分の尊いひとり子をお与えになりました。
こうして、神様は、ひとり子を人のために与え尽くされ、御子を、人の代表として、その罪の身代わりとなさいました。

イエス様は、その身代わりの死を受け入れ、死に至るまで従順に歩まれました。

洗礼を受けて祈っていると、天が開け、聖霊が下り、天から声がしたと書いてあります。
この、イエス・キリストを天が承認する、就任式のような舞台は、イエス様の、父なる神の御心を受け入れる祈りの中で、行われました。

この祈りから始まり、そして、ゲッセマネの祈りまで、あの、「御心のままに」の祈りまで、主は一貫して、神への従順に、歩まれました。
この人としての姿勢こそが、ご従順と、謙遜こそが、私たちのための模範です。

民衆が皆洗礼を受け、そしてイエス様も共に洗礼を受けられました。
罪を悔い、水の洗いをもって、新しい命へと歩み出したいと願っている私たち一人一人に、主は親しく伴っていて下さいます。

今日、私たちは、父、御子、御霊なる神様の働きを学びました。三位一体の神様が一つとなって、人類の救いのために、キリストを遣わし、人類の代表者として、模範として、示されたことを知りました。
神様は、系図の中の人々を、恵みをもって導いてこられましたが、時至って、ヨハネのバプテスマに集まる人たちをご覧になって神様は、ついにイエス・キリストの時を与えて下さいました。
それは、アダムが造られた時の目的を成就することでした。神と人とが、親密な親子のようになるために、人がもう一度、神様をお父さんと呼ぶことが出来るように、イエス様が、人となって下さいました。

イエス様は、ことごとに、祈られました。弟子を選ぶとき、また朝早く山で、群衆をパンと魚で養う時、ラザロをよみがえらせた時、そして、ゲッセマネの園で、イエス様は、祈りました。イエス様が洗礼を受けた後も、祈られました。そうして、天からの、イエス様の証人のしるしが与えられました。
私たちも、御心に適った祈りはかなえられるとの信仰をもって、大胆に祈り続けたいものです。私たち人類の代表であり、模範であり、贖い主であり、内に住んでいて下さる、キリストの御名で、祈り続けてまいりましょう。
「主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。」歴代誌下 16:9
「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」新改訳

日本アライアンス教団 東城キリスト教会
〒729-5124広島県庄原市東城町東城384
Tel 08477-2-0288 -  メール -

© 2006-2017 Tōjō Kirisuto Kyōkai. All rights reserved.
Site hosted by Jaspella Gospel Guide.