説教原稿

2010年7月4日
「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」
ルカによる福音書3:1-20

主のよみがえりの朝を迎えております。
私たちの1週間には7つの日が備えられておりますが、この日曜日こそ、主がよみがえられた日です。失意の日もあります。苦しみの日があります。恐れの日があります。しかし、喜びの日があります。それが主のよみがえりの日です。
忙しい日があります。働きまわる日があります。しかし今日が、天地創造の主が、創造の御業を終えて、その働きに満足し、休まれた日です。
今日が、休み、今日が、主をあがめて、力を養われる日、今日が、一週間走りとおした仲間と再会し、励まし合い、ねぎらい合い、力を養って、出発し直す日です。

私たちは、ローマ書を読んでまいりました。そして使徒言行録にも少し、入りました。
パウロの信仰の中心点は、キリストでした。
キリストに出会ってから、彼は180度変わりました。
自力で頑張っていた彼が、自分の目で見、自分の足で駆けずり回っていた彼が、
自分の目で物が見えなくなり、自分の足で走りまわれないようにされました。
そうです。神様の出番です。
そうです。それで良いのです。
彼は自分でやりたいことが出来なくなり、自分の思いが通せなくなりました。
それで良いのです。
主に出会い、主が彼の心となり、主の計画が、彼の計画となりました。
それでいいのです。
主に出会い、主に導かれる人生、それが幸いなる人生です。
それは、自分の計画に生きるものではないかもしれません。そしてそれは、自分の思い通りばかりに行かないことかもしれません。
しかし、それでいいのです。イエス様に出会い、イエス様に導かれる人生は、どんな時でも、最善の人生です。私たちがどうして?と理解できない時でさえ、それは、最善なのです。

パウロがイエス・キリストに出会って、人生の進路を180度転換したように、私たちもいつもいつもイエス様に出会い、イエス様に捕らえられて、歩みをも導いて頂きたいと思います。そのような思いから、先週の週報にはパウロの手紙をさらに読み進めようかと思っておりましたが、やはり福音書からイエス様に出会う学びをしたいと、導かれました。

ルカによる福音書が、開かれております。
クリスマス・ストーリーの後の、3章です。
イエス様がいよいよ公の生涯に入られる前、バプテスマのヨハネが登場いたします。

時は皇帝ティベリウスの治世の15年とありますから、紀元28-29年のことです。
あの、イエス様に十字架の宣告をしたピラトの名前が、あの、バプテスマのヨハネの首をはねさせた、ヘロデの名が、あの、夜中の最高議会でイエス様を亡き者にしようとした、アンナスとカイアファらの名前が、ここに既に勢ぞろいしています。

舞台は整ったのです。
この時、神の言葉がザカリアの子ヨハネに下りました。
この表現は、ヨハネが正統的な預言者であることを示しています。
旧約聖書が閉じられて、400年の間、預言者がいませんでした。

ダビデの子ソロモンによって紀元前960年に建てられた神殿は、紀元前587年、バビロニヤ人のエルサレム侵攻で、破壊されました。
旧約聖書は、北イスラエルの滅亡と、南ユダのバビロン捕囚で苦しむ民の姿と、時至って、紀元前516年、イスラエルに帰還し、神殿を再建するという、喜びに満ちた出来事を記しています。これが第二神殿です。
苦しみの時の後で、神様は必ず慰めを用意していて下さる。これが聖書のメッセージです。

第三神殿は、先ほども出てきました、ヘロデ王によって建てられました。すでにある第二神殿の上と周りに立てられます。紀元前20年ころから、50年近くかかって建設されました(ヨハネ2:20)。非常に豪華な神殿でした。
今日の聖書の個所の時代、ヨハネが登場して、イエス様が登場するこの時は、まさにこの神殿が完成した時でした。しかしそれからたった40年の後、紀元70年、神殿は、ローマ軍によって破壊されます。
「おごれる者も久しからず」という言葉がありますが、まさにイスラエルがそうでした。
壮麗な神殿を立て、栄華を誇っても、心に神を思う信仰がなければ、すべてはむなしい、バベルの塔の建設が、とん挫してしまった出来事をも、思い出します。

大国ローマのもとで、虐げられている、民はメシア、救い主を待望している、これがバプテスマのヨハネ、そしてイエス様の時代でした。

「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」(ヨハネ2:20)と、イエス様は、おっしゃいました。イエス様は、ご自分こそが神の神殿である、ご自分こそが人間を神の前に義とさせるいけにえであることを語られました。三日で立て直すとは、主の、死からのよみがえりのことです。
私たちもまた、目に見える壮麗な神殿に目を奪われるのではなく、主ご自身に目を向けるべきです。

ヨハネは、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。

これは、旧約聖書イザヤ書40章の預言の成就でした。
「主の道を整え、その道をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」

ヨハネは、主の通られる道を用意するために、遣わされました。主の十字架の救いの前に、人は、自分の罪の赦しのため、悔い改めて、心の汚れを水で洗ってきよめる。これがヨハネの道備えの働きでした。

王の王、主の主が来られる。
バプテスマのヨハネは、イエス様が来られるよりも先に、王の通られる道を整えるために遣わされました。
谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされ、曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らに。
こうして、やがて来られる方が素晴らしく整えられた道を進んで、ご自身の民に会うことが出来るように、ヨハネは、遣わされました。

もうすぐ素晴らしい王が、救い主が来られますよ、楽しみに待っていて下さい、この喜びの声に、すべての悲しみの谷は埋め合わされます。傲慢、高ぶりは、王の前にそぎ落としなさい。不正直の曲がりくねった道、よこしまな心は、まっすぐにしなさい。そして、主の前に整えられるべきでこぼこも、平らにしなさい。

こうしてのち、準備が整ったところで、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」のです。

来るべき王と謁見するために、喜びつつ、身を整え、悔い改めをしなさい。毛むくじゃらで迫力のある、荒野で生活し、禁欲的な生活を送り、野太い声で、荒野で叫ぶ声がありました。

群衆がこの声を聞いて、洗礼を受けるためにヨハネの入るヨルダン川に出てくると、彼は、手厳しく迎えました。
「まむしの子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『われわれの父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。神は石ころからでも、アブラハムの子たちを作り出すことがおできになる。」

悔い改めて洗礼を受けよと言っておいて、招いておいて、まむしの子らよと、よく語りかけるものだと思ってしまいますが、迫力ある彼の人柄が、伝わってきます。
彼の言いたいことは、イスラエルの人たちが、アブラハムの子孫だということにあぐらをかいて、自分たちはどうあろうとも、結局ちゃんと救われる、あんなに立派な神殿を持つ民だからと、たかをくくっていたことを、鋭く突いています。

「斧はすでに木の根元におかれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」

恐ろしくなるような裁きの宣言ですが、これは私たち一人一人がよい実を実らせるために語られている言葉です。自分の子供が憎くてしつけをする人はいません。時には恐ろしい警告を語ることがあったとしたら、それは本当に、心に刻んで守ってほしいからに他なりません。

「悔い改めにふさわしい実を結べ」「良い実を結ばない実はみな、切り倒される。」とあります。
実を結ぶとは、目に見える結果を現わすということです。木の良し悪しは、実がおいしいかどうかで判断されます。大粒で、味わいの良い実をたくさん育む木があったら、それは、事の他、大事にされます。

元々がまむしの子のような、心のうちに毒をもっていて、近づく人たちを容赦なく噛み殺すような、そんな生まれつきの罪の性質の人が、悔い改めたとき、その悔い改めは、口先三寸のものであってはならず、悔い改めにふさわしい実を結ばせるものでなければなりません。
元々が、人を傷つけ、噛みつく性質の者だったのに、悔い改め、心の傲慢の山と丘はみな、ことごとく低くされ、曲がった道、でこぼこ道が真っすぐにされ、その口から優しい言葉、ねぎらう言葉、お詫びをする言葉が出てくるならば、そして、傷ついた人をいやす言葉を語るならば、その人は、悔い改めの実を結ぶことになります。

悔い改めは、実行を伴わなければなりません。そして、悔い改めは、日々繰り返されるべきものです。信仰の短い人も、長い人も、信徒も役員も牧師も、等しく悔い改めを続けるべきです。そして日々良い実を実らせるものと造りかえられる必要があります。

下着を二枚持っているものは、一枚も持たない人に分け与えるべきこと、徴税人は、徴税額をごまかして自分の懐に入れないように、また兵士は、金をゆすりとったりだまし取ったりしないように。今もらっている給料で満足するように、ヨハネは、悔い改めの実を結ぶとはどういうことかを、例を引いて、語りました。

神を恐れ、神を愛するということは、欠けや悩みに苦しむ人を助け、そして、だれが見ていなくても分からなくても、すべての不正に自分の手を染めない、他人に危害を与えることをしないということであると、分かります。

そのために、心の汚れを水で洗いきよめ、神様の前に新しく出発することが、洗礼の恵みです。
以上が、悔い改めの洗礼を宣べ伝えた、ヨハネのメッセージでした。

さて、イエス様のメッセージとは、どういうものだったのでしょうか。

16節、ヨハネは皆に向かって言った。「私はあなたたちに水で洗礼を授けるが、私よりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」

ヨハネは、イエス様の靴のひもを解く値打ちがないと言いました。靴の紐を解くというのは、奴隷の、しかも身分の低い奴隷の仕事でした。外から帰って来た人を迎えるために、砂と汗と汚れで汚くなったサンダルのようなはきもののひもをほどき、足を洗ってあげる、その奴隷の行為のことです。後にイエス様自身が弟子たちにする、あの足を洗った出来事ですが、ヨハネは、奴隷のするその行為ですら、私はできない、恐れ多いほどの方がイエス様だと、語っています。

今まで繰り返し、遣わされ、語って来た、預言者たち。その預言者たちが靴の紐をほどくことも恐れ多い方、すなわち神ご自身がいらっしゃるという前触れです。

ヨハネは、悔い改めと、水の洗いのよるきよめを語りました。しかしイエス様は、聖霊と火とをもって、洗礼をお授けになります。

「わたしは乾いている地に水を注ぎ/乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ/あなたの末にわたしの祝福を与える。」  イザヤ44:3

「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」 エレミヤ31:31-34

『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。』使徒2:17

「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」 2コリント3:3

聖霊が注がれる時、私たちの心に、霊が宿り、私たちは、本当に、神の言葉が理解できるようになります。御言葉が分かるようになります。聖書の心、神の心が聖霊として自分の心に宿り、私たちの思いが、神様の思いと一つにされます。これは、神様から隔たった私たち人間への、大きな祝福です。

火によって。聖霊の火によって、私たちの心をきよめて頂くということです。私たちはもはや自分の行いによって、努力によって自分をきよめるのではなくて、内に住んでおられる聖霊の働きによって、きよめられるのです。

3節に、ヨハネが、「悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とありますが、18節には、「民衆に福音を告げ知らせた」とあります。
悔い改めに始まって、イエス様の十字架の贖いにより、赦され、聖霊を頂く。このヨハネと、イエス様の間には、天地ほどの違いがあります。

私たちは、いつもいつも自分の罪汚れに悲嘆して、その都度備えのいけにえと懺悔をささげるところから、イエス様の身代わりの死のうちにあって、聖霊による祝福を頂き、神様に近づけられ、きよめられ、救いを確信することが出来るのです。
私たちは、福音、良き知らせの中にいるのです。

谷は埋められ、山と丘はみな低くされ、曲がった道はまっすぐに、でこぼこ道は平らに、こうして悔い改めの実を結ばせる、悔い改めの洗礼ののちに、それでもなお悔い改めても悔い改めても、汚れた行いをしてしまう、根っこから、芯から腐りきった、私たち人間のために、神のひとり子が十字架にかかって下さった。そして私たちを一方的に義として、聖霊なる神を私たちの心のうちに宿らせ、深い真理を知らせて下さり、神様のお姿を見ることが出来るようにして下さり、そうしていつも、私たちをきよめ、自分の努力だけではなくて、いつもうちに住んで、共にいて下さるキリストの御霊が、私たちを導いて、後押しして、追い風を吹かせ、順風満帆のもとに、導いていて下さるのです。

ヘロデの不倫行為に対して、ヨハネは歯に衣着せずに、その罪を断罪します。そうして、牢に閉じ込められてしまいます。

人の罪は、ヨハネによって、余すところなく示されました。
さあ罪の示されたところで、満を持してイエス様の裁きが始まるのか。いや、そうではなかったのです。
人の罪のその現場で、イエス様は、贖いを示されたのです。

人は皆、神の救いを仰ぎ見る。
それは、十字架にかかり、血を流して私たちの罪のために命を捨てる、イエス・キリストの姿です。
預言者が、靴の紐さえほどくことも恐れ多いその方が、十字架にかかり、身代わりとなって下さいました、。
聖霊を与えるために。きよめるために。
私たちは、今、聖餐式を迎えようとしております。主がここまでして私たちのために代価を支払って下さったことを胸に留め、感謝のうちに心の中に自分自身を吟味し、この恵みの力によって、私たちが生き生きとした信仰の実りを結ぶことが出来るようにと、祈りたいと思います。
主のみからだと、赦しの血潮は、あなたと共にあります。あなたはもう、赦されています。ですから、私たちは、赦されて、神の御心のために、歩ませていただきたいと、願うのです。

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