説教原稿

2010年6月27日
「信仰による従順」
ローマの信徒への手紙15:22-3316:17-20, 25-27

先週、使徒言行録を読み終えました。パウロがエルサレムに向かい、あたたかい支援の気持ちを示しました。そして、同胞ユダヤ人に対して、自分が元いた所の人々に対して、ユダヤ人に対して、聖書は、イエス・キリストを指し示していると証しするために、エルサレムに出かけて行きました。
しかし、ユダヤ人はパウロの証しを受け入れませんでした。
パウロは殺害の危機に立たされましたが、神様は、御手の中で、数々の困難から彼を救い出し、流れ着いたマルタ島でも証しをなし、パウロはついに当時の世界の中心地であるローマに着き、自由に証しをして、2年間を過ごしました。
この後のパウロの足跡は、聖書には記されていませんが、彼は、伝承によれば、殉教するまでの間、キリストにある福音を宣べ伝えたとあります。

ユダヤ人に対しても、クリスチャンに対しても、大切なのは、キリストにある福音を信じて、キリストにあって、忠実に、従順に、生涯を歩み通すということです。

私たちが、神様から称賛を受けるためには、しっかりと、神様の御心に的を絞り、的から離れない、神様の目的に従った歩みをする必要があります。

今日は、読み残しておりました、ローマ書の最後の章が開かれておりますが、パウロが、教会への祝福を語るとともに、私たちが本当に気をつけるべきことが記されていますから、今日はそこに目を止めたいと思います。

17節、「兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。」

教会の中に、不和・分裂、つまずき・罪を犯させる、そういったものをもたらす人々がいたことが分かります。そしてそもそも、それらの人は、「学んだ教えに反して」いるということが語られています。
私たちは、救われて後も、完成を目指して成長を続ける存在ですから、時に失敗を犯します。良かれと思って語る一言が、思いもせずに人の心を傷つけてしまうこともあります。最善をなしていると思っても、予想外の結果を生むことがあります。しかし、私たちは、その都度、「学んだ教え」に立ち返ります。福音は、キリストの赦しの十字架は、私たちの砦であり、私たちという船が流されないようにする神様の錨です。教会は、様々な困難に際しても、それを乗り越えることが出来ます。

しかし、私たちが学んだ教えに意図的に反する時、私たちは、教会にしばしば大きな傷を与えることになります。私たちが福音をないがしろにし、そればかりか、福音に反する教え、異なった教えを振りかざす時、不和・分裂、つまずきを作り、罪を犯させるつまずきを作ることになります。

私たちがキリストにとどまっているということ、これほど大切なことはありません。
キリストは、罪深い人間のため、その人間の罪を自分の身に負って、十字架について下さいました。この贖罪の愛、身代わりの愛によって、隣人を、そして私を、愛して下さいました。富んでいた方が、きよい方が、わざわざ貧しいものの、汚れたものの、問題を引き受けて下さったのです。ここに愛があります。
人間は、打算的な考えを働かせ、自分が利益を得ることが出来るような場所には群がりますが、自分が損をすると見るや、パッとそこから姿を消すものです。
しかし主の愛は、福音の教えは、そうではありません。
神の国は、最も力あるものが、最も小さい者に仕える、そのことによって、栄光があらわされています。

しかし、そのような栄えに満ちた教え、学んだ教えに反して、自分の人間の知恵に頼る者は、的外れの歩みをする者です。
キリストよりも我を第一にする時、不和やつまずきを生みます。俺が俺がと言いだす群れは、分裂が起こり、罪の行いが引き起こされます。
教会がそのようなところになってしまったとしたら、神様は、どうやってご自分のご栄光を明らかにされるのでしょうか。
教会が、キリストを第一として、キリストを通して、父なる神をあがめるところでなかったとしたら、どうして教会ということが出来るでしょうか。

ですから、パウロは、そういう、教えに反する人たちがいるかどうかを警戒しなさい、じっと見つめていなさい、そしてそういう人から、そういう考え方から遠ざかりなさいと勧めています。教会をきよく保つべきことを、パウロは教えています。

この教会には、本当に謙遜で、主を愛し、キリストの恵みに感謝して、御心に従って生きている方々が集っておられます。しかし、サタンは、そういう教会のきよさを踏みにじって、どうしたら教会が本当に大切なものを見失って、人間の思いはかりごとに熱中させ、一人一人がぶつかり合って教会が問題の多いところとなるように、一生懸命にはかりごとをしています。

18節、「こういう人々は、私たちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そしてうまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。」こう書いてあります。

私たちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。これは、自分の欲望に仕えている、という意味です。

私たちがキリストに仕えるという意味は、私たちが本当に、キリストの教えの通りに生きるということです。キリストの生き方に倣って生きるということです。
それは、自分の正しさを振りかざすことなく、罪人をさえ愛し、自分をおとしめる画策をするものにさえ、愛と許しを与えることです。
言葉でいえばた易いですが、行動となれば、難しいものです。
うまい言葉、非常にスムーズな言葉、立て板に水の言葉、そして、相手をほめる言葉でさえも、正しくない動機で口から出れば、それは交わりに害をもたらすものとなります。
キリストに仕えないで、自分の欲に従って行動する時、そのような人は、自分の味方を得ようと、うまい言葉やへつらいによって語りますが、それは、本当に、その相手を愛する思いからではなく、ただ自分がその相手を自由に操りたいからにほかなりません。
純朴な人、別の訳をすれば、疑うことをしない人ということになりますが、純朴な人は、その語られる甘い言葉に隠された、悪しき意図を知らずに、欺かれてしまうのです。

極めて聞くに聞きやすい、そしてほめちぎるその甘い言葉に乗せられて、その、キリストに仕えずして自分の腹に仕える人にすっかり魅了されてしまう時に、その純朴な人は、徐々に、徐々に、キリストに仕えるよりも、自分の腹に仕える生き方へと、変わって行ってしまうのです。

19節、「あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。」

純朴で従順であるということ、それは何よりも素晴らしいことです。混じりけのない信仰、主に従おうとする熱心、それは素晴らしいことです。なおその上に、善にさとく、悪に疎いようにとは、どういうことでしょうか。
純朴という言葉に、疑いを知らないという意味があることを申し上げましたが、そのような意味で、自分の腹に仕える人に気付かずに、うまい言葉やへつらいの言葉に騙されて、欺かれてしまうことが書かれていました。
ですから、善にさとく、悪に疎くという言葉が、書かれています。
善にさとくとは、善に対して熟練して、経験深くという意味です。車の運転をされる方ならよくお分かりと思いますが、もう車がからだの一部分になって、段々と、車の運転が、自分の手足を動かすのと同じようになってきます。料理の上手な人でしたら、包丁を見事に遣うことが出来ます。パソコンを使う人ならば、キーボードを目にもとまらぬ速さで打つことが出来ます。
私たちは、そういう意味で、善、良いことに対して、意識しなくても出来るように、熟練していなさいということが語られています。もっといえば、キリストと一体であるあまり、どこからどこまでがキリストで、どこからどこまでが自分自身なのかが分からなくなるほど、キリストを求め、キリストと同じ考え方でいたいと願い、祈ることが大切です。
人を見れば与えたいと願い、罪人を許し受け入れ、小さいものよりも低くなり、最も低くなって、人の足台となって、人を押し上げる歩みです。

一方、悪に対しては疎く。打算、妬み、恨み、不誠実、そういった者に対しては、純真無垢な混じりけのない赤子のように淡泊で、関わり合いのないものとして歩みたいのです。
そうして、自分臭さ、自分の体臭が全くなくなって、キリストとの交わりの中に生きている時に、自分の腹に仕える人がパッと現れた時に、私たちは、そのにおいをすぐにかぎわけることが出来るのです。
私は中国という国を悪く言うつもりはないのですが、先週、インターネットの記事に、上海の人たちへのアンケートの結果が載っていて、びっくりしたことがありました。
「特売」「特売」という値札に、あ、お得だと思って商品をレジに持っていくと、買う段になって、「この商品に値引きは適用されません」と、言われることが多いとか、大型スーパーでは、包装食品によくごまかしがあり、3割以上の品物は、計量をごまかしてあった、例えば200グラムと書いてあってもちゃんと200グラム入っていなかったというデータがありました。
調査結果によれば、上海市民の44パーセントが、人々の誠実さは5年前に比べて低下したと言い、驚くべきことに、90パーセントの人が、「誠実さや誠意は『バカを見る』『損をする』ことにつながる」と答えたとのことです。市民の中には、嘘をつくこと、誠実でないことの方がよいことがあるとの認識が生まれていて、社会を不誠実なものとする悪循環となっていると記事にあったということです。

このように、「悪にさとく、善に疎い」ようなことがありますと、社会はどんどん混乱し、善がなくなり、悪がはびこってしまいます。
この世界は、常に腐敗しようとする力が働いています。先ほどの中国で起こっていることは、どこの国でも行われています。

20節、「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。」
この世界の終わる時、終末のとき、主は再び来られ、私たちは、主とともに、悪を踏み砕き、主にある王国を打ち立てることとなります。しかしそれまでは、この世界が全く正しいところとなることは難しいのです。
だからといって、私たちは、世界の流れに流されるのではなく、教会の外でも中でも、「善にさとく、悪に疎く」生きていきたいのです。

25節にありますように、福音こそが、私たちを強める力です。サタンの悪しきはかりごとは、いずれすぐに、粉々に打ち滅ぼされます。私たちは、「信仰による従順」の中に、神様の良い御心の中に、従って歩んでいきたいと、願うのです。
27節にもありますように、知恵ある方は、唯一、私たちの信じる天地創造の神様です。知恵は、この方を信じ、従う生活の中で与えられます。

様々の欲がクローズアップされ、手段を選ばず経済的繁栄を得たものが勝ち組だ、何でも買うことができ、自分の欲求をかなえることが美徳だと言われるこの世界の風潮の中、私たちは、自分の腹の欲求に仕えるのではなく、ひたすら主に仕え、ひたすらに善にさとく、悪に疎い歩みに、与えて隣人を豊かにする、キリストの歩みに生かされたいと、心から願うのです。この歩みの中にこそ、本当の平安があります。
私たちの主イエスの恵みがあなた方と共にあるように。
この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

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