説教原稿

2010年6月20日
「主の証しに生きる生涯」
使徒言行録28:1-10, 22-31

「彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。
キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。
ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。
鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。
しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、
苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。」   2コリント11:22-28

私たちの生涯には、数々の困難があります。しかし、私たちは、主の御手の中にあります。私たちは、主に担われて、守られて、歩んでいます。自分の力で立っていると思っていますが、私たちはみな、神様にあって、守られて、歩いています。

今日もパウロの人生から学ぼうとしています。
船が大嵐に翻弄されましたが、天の使いが彼のそばに立ち、恐れるな、神は一緒に航海している全ての者を、あなたに任せたと、語りました。
囚われながらも、鎖につながれながらも、自由で、自分を捕らえ運ぶすべての者は神によって自分の手に任されている。これが、神様の真実、私たちの身の真実です。

困難な状況はあるけれど、自分が縛られ、捕らえられているようであっても、実は自由であり、私たちは、すべてを支配するものであるということ。私たちには何一つ不足はないということ。これが神様の真実であり、私たちの身の真実です。

パウロら一行276人は、動かなくなった船を捨てて、全員が無事上陸しましたが、その島が、イタリア半島の南、シチリア島のさらに南の小島、マルタ島でした。
2週間の間、昼も夜も日も星も出ない、暴風雨に翻弄され、食事ものどを通らないほどでした。このような異常事態の中でも、パウロは、神に召されたものとして用いられ、囚われていてもなお、指揮官のように振る舞い、人々を励まし、食べさせ、抜け駆けをして逃げようとする乗組員をとどめ、大活躍をしました。み使いのお告げの通りです。神様は、パウロを用い、この船の中の命を守られました。
パウロは主の御手のうちにありました。彼自身の力ではありません。主が彼とともにおられ、彼を通して、ご自分の御業をなさったのです。

マルタ島の住民は、大変親切に、海の難にあえぎ、命からがら上陸した彼らをもてなしました。海を泳いでびっしょり濡れた体に、容赦なく雨風が吹き付けていました。
体を温めるため、たき火を焚いてもてなしました。300人弱もの人たちを温めるために、どんなにか島の人は、てんてこ舞いになって働いてくれたことでしょう。

そしてパウロもまた、枯れ枝を集めて、火にくべていました。木をどんどんくべなければ、すぐに火は消えてしまいます。海の上で活躍したパウロは、やはり陸の上でもかいがいしく働いていました。
細い枝では、すぐに燃え尽きてしまいますから、パウロは枝を束にして縛って火の中にくべていましたが、そうしているうちに、寒さで凍えて身動きしないマムシを一緒に束ねてしまったのでしょう、そのマムシが、火にくべられてようとしているうちに、火の前の熱気のために元気づいて、にょろにょろと動き出したではありませんか。
気つかずに束をくべようとするパウロの手に、マムシがからみつきました。
そして噛みついて、パウロの手にぶら下がっています。

島の住民は、噛みついてぶら下がっている生き物を見て、ひそひそと、「この人はきっと人殺しに違いない。海では助かったが、『正義の女神』はこの人を生かしておかないのだ」と互いに言いました。
島の人も、パウロが犯罪人であって、引かれていく途中だということが分かっていました。

しかし、パウロは、その生き物を火の中に振り落とし、平然としています。
「なんの害も受けなかった」と、聖書には書かれています。
ダニエルが炎の炉の中を守られたように、獅子の穴から守られたように、イザヤ43章の火の中、水の中でも守られるとあるように、パウロは、毒蛇の牙からも、守られました。

体がはれ上がるか、急に倒れて死ぬだろうと、島の人たちは、パウロの様子を伺っていましたが、いつまでたっても何も起こらないのを見て、考えを変え、「この人は神様だ」と言い始めました。

「正義の女神」とか、はたまたパウロを神と呼ぶとか、マルタ島の土着の信仰の根強さを感じるこの個所です。パウロはここでも、生ける神様により、土着の信仰を持ち、それまで天地創造の神様を全く知らなかったこの島の人々、異邦人たちへの証し人として用いられたのです。

「この人は神様だ」と仲間内で言い合っていたマルタ島の人たちですが、この言葉がパウロの耳に入ったら、彼は自分は神ではない、わたしを蛇の毒から守ったのは、イエス・キリストの父なる神ですと言ったに違いありません。

私たちキリスト者は、このように、神の御手によって運ばれています。不思議不思議と守られており、苦難や悲劇のさなかにあっても、その守りの御手のうちに、良きに導かれるのです。私たちの力ではありません。神様が共にいて、私たちと共にあって、私たちをたえず、守って下さるのです。そうしてそれが、証しとなるのです。

パウロや、同行者たちを、島の長官プブリウスが自分のところで3日間、もてなしました。どういうパウロが経緯でここまで来たのか、そして彼がイエス様を信じた経緯や、これまでの30年の伝道生活について、この3日間のうちに、証しがなされたに違いありません。島の長官プブリウスは、パウロらを歓迎し、3日間、手厚くもてなしました。ユダヤ人たちは、汚れることを恐れて、異邦人の家には入らないものでした。パウロもまた、そういう生活を送っていました。しかし、彼は異邦人たちが神に受け入れられる者であり、自分が、異邦人伝道に召されていると確信していましたので、3日間、共に交わりました。そしてこのことが、この島の人々への救いにつながっていくのです。私たちも、恐れずに、私たちをもてなしてくれる人には誰にでも、証しのチャンスがあると思って、積極的に、どのような人とも出会うチャンスをつかみたいと思います。

旧約聖書創世記に、ヨセフの物語がありますが、そこにいつも、「主が彼とともにおられたので」ヨセフは色々な人から好意を得たとありますが、パウロもまた、そういう人でした。

プブリウスの父親が熱病と下痢で床についていましたが、パウロはその家に行って祈り、手を置いていやしました。この事があって、島の他の病人たちも来て、癒してもらい、彼らは、パウロらに、深い敬意を表し、船出の時には必要なものを持ってきてくれたとあります。パウロら一行は、あの276人の一行の中にあって、最も島の人たちと打ち解け、かつ尊敬を受けたのではないでしょうか。ローマの隊長ではなく、剣をもった屈強な兵士でもなく、お金持ちの証人でもなく、キリストの御名を持ったパウロたちを島の人たちは最も尊敬したのではないでしょうか。

手を触れればたちどころに癒されるという癒しの奇跡は、今の時代においては、閉じられている奇跡のように思いますが、私たちは同じ神様を信じるものです。手を置いて、主の御名によって祈るということは、今日においても、大変意味のある、力強い祈りです。

こうしてマルタ島での3ヶ月の後、出港し、数日して、いよいよパウロはローマに入りました。
ユダヤ人たちに会い、エルサレムのユダヤ人たちに訴えられて自分が今ここまで来たことを告げるパウロですが、ローマのユダヤ人たちは、何もそのことについては聞かされていませんでした。
キリストを頭とした「分派」とユダヤ人たちは呼んでいましたが、至る所で反対がある、この分派について、どういうものなのか聞きたいと、ローマのユダヤ人たちは語りました。

日を改めて大勢でパウロの宿舎にやって来た彼らに、パウロは朝から晩まで、説明を続けました。
神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を利用して、イエスについて説得しようとしました。

神の国は、イエス・キリストによってもうすでに到来していること、心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人は幸いと語り、天の国はこれら幸いな人たちのものと語られたこと、イエス・キリストの贖いの十字架のこと、旧約聖書のイエス・キリストの預言について、パウロは語り続けました。あのエマオの途上の出来事の時のように、イエス様がご自分のことを旧約聖書から語られた時のように、彼は語り続けました。あるものはパウロの言うことを受け入れましたが、他の者は信じようとしませんでした。この後のパウロの言葉を見ると、信じない者の方が圧倒的に多かったのではないでしょうか。

意見が一致しないままに立ち去ろうとした人たちに、パウロは、イザヤ書の言葉を語りました。
聞くには聞くが決して理解しない、見るには見るが、決して認めない、この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち返らない。わたしは彼らをいやさない。
だから、この事を知って頂きたい、この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそこれに聞き従うのです。

彼の思いきったものの言い方には、びっくりさせられます。私たちは、もう少し穏やかに話した方が効果的なのではないかと思いますが、彼は聖書の言葉を引用して、ズバッとユダヤ人たちの状態を言い表しました。
かつての自分の状態をも表しています。見てはいるのにイエス様が見えていない。主と認めない。聞くには聞くが理解しない。心で理解せず、立ち返らない。そうした民を神がいやすことはできないのです。 とげのついた棒を蹴るように、自分の身に破滅を招いていることが分からず、神を否定し、迫害して生きているのです。

イエス様も、荒れ野でサタンの誘惑に会われた時も、御言葉を拠り所とされました。私たちも、それぞれある状況の中で、御言葉を思い出しながら生活できれば、すばらしいのです。
詩篇1篇の御言葉のように、「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人、その人は流れのほとりに植えられた木、時が来れば実を結び、その葉は枯れない、その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」とある通りです。

パウロは、自費で借りた家に丸二年住んで、訪問する人を歓迎し、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けたとあります。
こうして裁判の過程が進み、釈放されて、またパウロは地中海世界を伝道しながら、殉教の時を迎えたと語り継がれています。

31節には再び、「神の国」と「イエス・キリスト」を宣べ伝えたとあります。

「神の国」とは、神様の主権の及ぶところのことですが、私たち、イエス・キリストを信じるものは、神の国の中に入れられています。神の主権、御心の中に保たれ、聖別、きよく分かたれています。
私たちは、どんなときにも、神の国に生きるものとされ、主のその御言葉、聖霊の導きと守りの中に入れられています。

主の御手の中にあります。どんなときにも、自分の力で解決するのではなく、マムシの毒の力をも上回る、人の力をはるかに超えた、神の御手の中を運ばれていることを思い返しましょう。

家族の救い、地域の福音か、体の痛み、病、私たちにはどうすることのできないような、数々のマムシの毒のように私たちを苦しめるひとつひとつの事柄から、主は私たちを救って下さる、願いを聞いて下さるに違いないと、信仰をもって、今週もここから、出発したいのです。

見ながら認めず、聞きながら悟らないものとはならないで、御言葉に心を開き、御言葉に導かれながら、歩いていきたいのです。

御手の中にある歩み、御言葉を剣として歩む歩みこそが、人々から好意を得て、証しを立てる歩みなのです。今週も主に、全体重をお預けして歩んでいきたい、期待していきたいと、心から願うものです。

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