説教原稿

2010年6月6日
「光を語り告げる」
使徒言行録26:12-32

異邦人教会と、エルサレム教会。イエス・キリストを仲立ちとして、神を信じる者は、遠くにいるものも、近くにいるものも救われる。
律法が救いと考えていた今日のユダヤ教たちにとっては、律法なくして、キリストの十字架のみによって救われるという考えは、それまでの自分たちの考えを根底から覆すものでした。
根底から覆されること。これはしばしば私たちにとって、不愉快なことです。
私たちの歴史の中でコツコツと組み上げてきたものがひっくり返される。これは全く好ましいものではありません。

しかし、これこそが、パウロの体験したことでした。
彼は、自分のキャリアをコツコツと積み上げた人でした。有名な学者ガマリエルの弟子で、パウロ(元々のヘブライ語読みではサウロ)自身もまた、有名な信者でした。
権限を受けて、苛立たしい「ナザレ人の分派」、異端とされていたキリストの弟子たちを迫害し、投獄することを、彼の使命としていました。
しかし、先週の御言葉にありましたように、パウロは、ダマスコの途上で、突然の天からの光に取り囲まれ、主に出会いました。

今日の個所の13章にありますように、それは真昼に見た、太陽よりも輝く光でした。

私たちは、昼の太陽がまぶしすぎて、直視することができません。虫眼鏡を使えば、黒く塗った紙を使って、太陽の光だけで、火を起こすことが出来ることを知っています。
あの太陽よりもまばゆい光というものを、私たち人間は知りません。被造物としては、私たちが体験し得る中では、存在しません。
天からの光です。神様のご栄光の光です。神様の権威と力の光、神様の聖なる光です。
この光を受けて、パウロと、同行者たちは、目を開けていることが出来ず、立っていることもできず、皆その場に倒れこんでしまいました。

その時、パウロだけに声が聞こえました。
「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」
とげのついた棒とは、虫の毒針とか、イラクサのチクチクした毛、とげのことや、家畜をついて誘導するための先のとがった突き棒の事のようですが、確かに、チクチクしたものを自分からこのんでける人はいません。有刺鉄線のようなものをわざわざ足蹴りする人はいません。そうすれば、痛いのは、自分の足です。
イエス様は、確信を持って歩いていたパウロの人生を、そのように形容して、語られました。
主なる神に逆らって、歩んでいるということは、主への迫害につながり、とげのついた棒を蹴るように、自分の足が血だらけになるような行為をすることですが、しかし、パウロにはその自覚症状がありませんでした。自分の熱心な行動が、道に外れていて、その行動により、自分の体がどんどん傷ついているのに、なお人はそれに気付かない。罪を犯せば犯すほど、的外れな行動をつづれば続けるほど、自分の身が傷付いているのに、人はそれに気付こうとしない。私たち人間をつくられか父なる神様からすれば、それは、見るに堪えないことでしょう。さばきとか、義とか、正しさとか、私たちは、罪を考える時に思いますが、神様は、あわれみをも持って、傷つき血を流している人間を見つめていらっしゃるのです。

神様は、そんな私たち人間に、太陽よりも輝く啓示の光、うすぼんやりした世界に、強い一筋の光明を照らしていて下さるのです。それが、イエス・キリストによる救いの光です。

この光は、この世界のどんな光よりも強いのです。そして、人が自覚しようとしまいと行っていた、数々の、とげのついた棒を蹴るような、神に反抗する、そして益を得ない、足が血だらけになるような、ナンセンスなことに気付かせるのです。

パウロは根底から、今までの歩みを崩されました。彼は180度ぐるりと、その生き方を変えるに至りました。今まで迫害していたその人を、主として信じ、その人、イエス・キリストを宣べ伝える人生へと変えられたのですから。このくるりと向きを変えて、歩み直すこと、イエスキリストを通して神様をあがめて生きるために、的にしっかりと目を止めて歩くことこそが、「悔い改め」ということなのです。

パウロに対して、何十時間、何千時間、聖書を突き合わせて、キリスト教とユダヤ教を比べたところで、結論には至らなかったでしょう。しかし、神様ご自身が、天からの光、啓示の光、救いの光を照らして下さったので、彼は気がついたのです。
救いは、神様の御業です。救いは、神様の啓示です。

「主よ、あなたはどなたですか」と問うパウロに、主は言われました。
15節後半、「『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。 わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。 それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」

イスラエルの民と異邦人、つまり世界中の人々を、世界中の人々の目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、キリストの十字架を信じる信仰により、罪の赦しを得、聖なる者に加え、恵みを相続させて下さるというわけです。

光によって目が開かれる。パウロにも起こったことですが、この救いを、世界中の、すべての人々は、必要としています。そうでなければ、目が開かれていなければ、真相をじっと見つめることが出来ないからです。神の御心をじっと見つめることが出来ないからです。
目が開かれなければ、世界中の人々は、サタンの支配の中にいます。そして、サタンに教えられるがまま、自己愛の中に生き、自分が助かろうとして、相手をおとしめ、神に反抗する行いさえも時には良しとしてしまうのです。
サタンは、神に反逆し、神を憎んでいますから、巧みに神に作られた人間を自分のとりこにして、サタンの王国を反映させ、神を見返してやろうと、日々画策しています。その場合、私たち人間は、ただの道具にすぎません。サタンは自分だけが可愛いのですから、私たちをも憎み、私たちが失敗し、悲しむ姿を見て、神もまた悲しむ姿を見て、大喜びするのです。
私たちが、無自覚に、とげのついた棒を、神の御心に反抗して、蹴り続けて、体が痛んでいくのを、大喜びしながら、見つめ、そうしつづるようにと、人間を焚きつけているのです。

戦い、憎しみ合い、殺し合い、だまし合い、抜け駆け、裏切り、足の引っ張り合い、憎み、嫉妬、恨み、相手の失敗を喜び、自分だけが勢いあるものとして君臨したい。自分がみんなを牛耳りたい。支配したい、ひれ伏させたい、これはみんな、サタンの喜ぶことです。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」 マタイ20:25-28

これが、神の光です。神の聖なる光の中に、秩序の中に生きるということです。
これは、私たちが生まれながらに見る光とは違います。常識とは違います。天からの救いの啓示です。

サタンの支配から神に立ち返らせ、キリストへの信仰によって罪の救いを得、とり分けられ来よう者として恵みにあずかる。

これがパウロの証しでした。
見たこと、そして、主から示されたことを語るのです。
その奉仕者、主のアシスタント、そして証し人となるのです。

私たちも、主の者とされる時には、不思議な導きが、あったのではないでしょうか。自分で教会の戸をたたいたという方も、その背後に、不思議な導きがあったはずです。そして、御言葉に心を開いた私たちに、神様が、どんなにかまばゆい、心地よい、物事を判別する理解力を与えて下さったことでしょうか。
どんなにか、私たちは、主の導きと、判断力によって、この世の中の、危うきから守られてきたことでしょうか。

ゲラサの地に、一人の人がつながれていました。(マルコ5章)鎖につながれても、つながれても、とてつもない、獣のような力で、鉄の鎖を引きちぎり、髪はぼさぼさで、そして、石で自分の体を打ちたたいていました。夜も昼も、山や墓場で叫んでいました。実に痛々しい、人生です。人生の目的を失い、人としての尊厳を奪い取られ、苦しみの中を生きていました。
その彼を、イエス様は、ガリラヤ湖の向こう岸から、見ておられたのです。
彼の苦しみと叫びを、主はご覧になりました。
そして主は、彼のもとに身を運んで下さいました。
彼のうちにがんじがらめに支配していた悪魔は、彼に叫ばせました。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」
イエス様は、聖なる、力強い声で「汚れた霊、この人から出て行け」とおっしゃいました。
彼は服を着、正気になって座りました。主にお伴させて下さいと願いました。
主は、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」と言われました。
その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めました。人々は皆驚いたと、聖書に書いてあります。

私たちも、キリストの十字架の救いにより、罪と死と悪魔の支配から解放され、自由にされました。

そして23節にありますように、パウロもまた、「私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになる」と述べ続けました。

パウロは、ユダヤ人の前でも、ローマ人の前でも、この福音の光を、語り続けました。
引かれていったローマ人の総督フェストゥス、袖の下を要求して、下心を加えようとの彼の前では「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」と言われ、「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったことを話しているのです。」とこたえ、
道ならぬ自分の妹と結婚生活を送っていたユダヤ人の王アグリッパの前では、「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」と言われ、「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」と答えました。
パウロはどんなときにも、どんな人に対してもひるむことなく、19節にありますように、「天から示されたことに背かず、ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと」伝えました。

今日のメッセージのまとめに入りたいと思います。

まず、神の光は、パウロに輝き、彼にまことの主イエス・キリストを指し示しました。パウロは、鮮やかな方向転換をして、今までの歩みをぐるりと変えて、主を証しするものになりました。
そしてその光の証しとは、パウロが見たままを話し、導かれるままを語ることでした。

この光の証しを通して、世界中の人々が、目を開かれ、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返り、キリストを信じる信仰により、罪の赦しを得て、恵みを相続するのです。

自分がこれまで侵してきた、無自覚にも自覚的にも、神の御心にそぐわない、「的外れ」の罪を悔い改めて神に立ち返り、その悔い改めにふさわしい行いをするようにと、パウロは、光の証しをし続けました。

神を愛し、心から従い、隣人を愛する歩みへと、導かれています。心から愛し、上からの権力を振りかざさずに、イエス様がして下さったように、仕えるものとなるべきです。それが光の中を歩む生活です。
この生活に入るために、メシアキリストは苦しみを受け、死者の中から復活して下さいました。
光を語り告げる証し人となったパウロ、彼は、すべての人に、今神と共にある自分のようになって欲しいと、大胆に証ししました。

主こそわが力。またわが助け。この光と共に歩ませて下さい。
この光を語り継がせて下さい。今日の御言葉から、私たちは、そのように、願っております。

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