説教原稿

2010年5月30日
「行け、わたしが遣わすのだ」
使徒言行録22:6-21

画竜点睛(がりょうてんせい)を欠くという言葉があります。  達人が書いた竜の絵に最後にひとみを書き入れたところ、竜が天に昇って行ったという故事から出た言葉ですが、「それがないと完成しない、大切な部分が欠けていて、完成していない」という意味ですね。聖書読みのイエス様知らずでは、本当に、それは、竜の絵に、瞳を書かざるがごとし。「画竜点睛(がりょうてんせい)を欠く」です。

同様に、この地上には、色々な教えや、宗教がありますが、それらにも、「キリストの十字架」が加わらないならば、本当に、物足りないものです。

浄土真宗は、功徳によらず、ただ信じによって救われ、極楽浄土にいけるという、大変にキリスト教によく似た教えですが、そこには、十字架の贖いがありません。
ユダヤ教の教えも、天地創造の神様を信じる教えでありながら、イエス・キリストによる贖いを退けたがために、自分の行いによって義とされるという、画竜点睛を欠く教えでした。
キリストの贖いなしに、救われるということにおいては、自力であろうと、他力であろうと、画竜点睛を欠く教えであると言わざるを得ません。

そのことがはっきりと示された出来事が、パウロのダマスコ途上の出来事だったのです。

彼は今まで自分の信じていたものが、不完全なものであったということを、天からの光と声によって、まざまざと示されたのです。自分の信じていたものが不完全なものだったというよりもむしろ、誤りであって、神ご自身を迫害していたという現実を、つきつけられたのでした。

このような出来事によって、彼の信じるものは、180度方向転換させられたのでした。
ユダヤ教徒に命をつけ狙われようと、何度となく迫害を受けようと、パウロにとって、イエス・キリストと、その十字架から目をそらすということは、出来なかったのです。
初めは、キリストも、十字架も、全く意に介さなかったパウロが、どうしてすべてを投げ打ってそこまでキリスト教を信じるものとなったのか。それは、彼が、ダマスコの途上で体験した出来事によったからです。

22章1節からは、エルサレムでユダヤ教徒たちから強い反発を受けたパウロが、自分の身に起こった出来事をそのまま証しとして話す場面です。パウロは同胞ユダヤ人が、自分自身が知らぬがゆえに過ちを犯し続けていたその同じ罪を繰り返させないようにと、自分の身の危険をも顧みずに、語り始めるのです。

今日私たちは、主の召しに従って、証し人として生きていくということをテーマに、聖書を読んでいきたいと思いますが、証し人パウロは、第一に、証しの情熱にあふれていました。それは、ユダヤ人の同胞を罪から救いたいという情熱でした。私たちも、同胞である日本人、そして世界に住む人々のため、救いの情熱のため、証し人になりたいと願います。

証し人になるということは、偉大な説教者になるというよりも、ただ自分の身に起こったことを淡々と話せばよいのだということを、今日の個所から学びたいと思います。

1節、「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いて下さい。」

パウロは、エルサレムのクリスチャンたちの勧めに従って、髪の毛を伸ばすナジル人の誓願をしていた者たちと共に、神殿に上って彼らのために費用を払うことにしてました。そして神殿で、アジア州から来たユダヤ人たちが、あらぬことをでっちあげて、民衆を扇動し、その場で殺そうとしたことが、使徒言行録21章に書かれています。
この騒動を察知したローマの兵隊によって身柄を引き取られ、危うきを逃れたパウロでしたが、この兵隊の到着が遅ければ、パウロは、法の全く届かないところでのリンチによって、殺されていたことでしょう。

そのような激しい宗教感情がありました。犯されがたい、ユダヤ人の血の純潔が、パウロの異邦人伝道によって踏みにじられていると、ユダヤ人たちは考えていたのです。そして、パウロ自身が、かつてはそうでした。ユダヤ教の純粋さを犯す、キリスト教徒たちを排除することこそが正しいことだと、彼は信じきっていました。

しかし、彼は、天からの光と声とによって、目が開かれたのです。今まで自分が信じていたものが、画竜点睛を欠くものであったということに、気づいたのです。

私たちが証しをするときに、必要なことは、私たちもまた、罪人に過ぎないということを語ることを恐れてはならないということです。クリスチャンだから、いつも正しく、真面目ですということを話すのが証しではありません。生の自分自身、欠けのある自分自身、そういった意味ですべての人と共通する私が、神様によってどう変えられたかということが証しなのです。

「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いて下さい。」
ヘブライ語で、ユダヤ人として何ら変わることのない、丁寧な謙遜な語りかけを始めるパウロに、一同はシーンと静かになって、彼の言葉に耳を傾けました。

3節から5節。「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。
わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。
このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。」

何だ、この人は自分たちと出発点は同じではないか。何ら異なる人種の人ではないではないか。これが証しの始まりです。自分の弱さと罪の告白です。自分はかつてはどういうものであったのか。包み隠さず、自分の弱さに触れるということ。人々の前で、自分の弱さや罪を白状しなければならないことは、苦痛なことかもしれません。しかし、弱い自分をさらけ出して、そして神様の恵みを明らかにするのが、証しの役割なのです。

6節7節。「旅を続けてダマスコに近づいたときのこと、真昼ごろ、突然、天から強い光がわたしの周りを照らしました。
わたしは地面に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と言う声を聞いたのです。

自分の身に起こったことをそのまま伝えることが、証しです。人の心を打つ言葉を考え出すとか、どう語ったらよいかと、悩む必要はありません。自分がかつてはどういう人であったか、そして、その自分に、神様がどのようにして触れて下さったのかを語ればよいのです。

意気揚々と、権限をもらってダマスコへ向かうサウル-後のパウロが、突然の天からの強い光に、眩しくて目が開けられず、地面に倒れてしまったのです。この光は、パウロと共にいた人たちも、確かに目撃していました。
突然に、そこだけ、自分たちのいる周りだけ、自然現象では考えられないほどの強い光が降り注いだ時、その眩しさと神々しさに、彼は、とっさに神の現れを感じたのです。
そして彼は声を聞きます。それは、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声でした。天からの声、神ご自身の声は、彼が何と言う名前か、そして、今まで彼が何をしてきたかをすべてご存知でした。

私たちが証しすること、それは神様です。神様はどんな方なのか。そして神様は自分に何をなされたのか。これが証しの中心です。

パウロは、超自然的な出来事に、神様の現れを感じはしましたが、「なぜ私を迫害するのか」との意味を理解していませんでした。そして、この「私」が、誰のことなのか、全く分かりませんでした。

この地上に、「神」と呼ばれているものは、数多くあります。きっと一人一人の人は、その「神」に呼びかけられたならば、当然自分の信じる神から呼びかけられていると思うでしょう。しかし、その呼びかけ主が、自分の思う神と違うかもしれない。ましてや、自分が迫害し、押さえつけていた存在が本当の神だったとしたら…それは考えたくない展開です。しかしパウロは、確かに、「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」という天からの声を聞くのです。

このように、しばしば私たちは、「本当の神」を見誤ります。私たちは、人間の尺度で神を推し量ります。これこそが神と信じて、八百万の神々を拝みます。しかしどうでしょうか。生きて、天から声をかけたもう神様は、こうおっしゃいます。

パウロが8節、「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねると、「私は、あなたが迫害しているナザレのイエスである」と答えがありました。

ここでパウロは、イエス・キリストが、本当の神であることを知らされたのです。
自分の思い込みは、全く外れていた、そして、キリストを異端者として迫害し、そして残りの信徒たちをも迫害していた自分の行いは、全く神の意に沿わないこと、すなわちそれが罪であるということを、彼ははっきりと、示されたのです。

証しは、罪をはっきりとさせます。何が神の御心にそぐわないのか。自分はいかに神の御心にそぐわないことをしてきたのか、その自分自身を言い表すのが、証しです。

正しい行いによって義とされると信じるのであれば、正しくない行いをし続けてきたものは、破滅を刈り取るほかはありません。
「主よ、どうしたらよいでしょうか。」

これが彼の精いっぱいの応答でした。自分が信じきっていたものが誤りであり、自分は神ご自身を迫害し、反抗するものであったと気付かされたのですから。
このように、人は、どうする事も出来ない、神に対する罪をことごとく犯しているものです。罪は、神の御心にそぐわないことを考え、また行うことを言います。そのような意味で、誰が神に義と認められることが出来るでしょうか。
「それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」士師記の終りにこう書いてありますが、人は、正しいことをしているようでも、神の前に誤りを犯すものであることが分かります。そういう人間が「どうしたらよいか」、これが聖書の指し示すことなのです。
「立ち上がってダマスコに行け。しなければならないことはすべてそこで知らされる」とパウロは言われました。

主に出会い、救われて歩む人生は、主の御言葉に従い、しなければならないことは、日々その時々に、神様が示して下さるという信仰です。

いつ、どこで、誰に会うのですか、目の見えぬままで、いったいどうすればよいのですか。この目は、いつ見えるようになるのですか。パウロは、いろいろと深い疑問があったに違いありません。しかし彼は、「立ち上がってダマスコに行け。しなければならないことはすべてそこで知らされる」との主の言葉にすべてをかけて、出発しました。

私たちの証し、それは、主を信じ、主の御言葉にかけていく時に、先のことは何も分からなくても、行ける主がひとつひとつを開いて下さる。私たちが何をすればよいかを示して下さるという証しです。

手をひかれてダマスコに入るサウロ。そこに、人々から尊敬されているアナニヤという主の弟子がサウロのところにやってきました。彼もまた、サウロに会うようにと、神様からの示しを頂いていたのでしょう。
アナニアはサウロのそばに立ち、「兄弟サウロ、元通り見えるようになりなさい」と言いました。するとその時、サウロは見えるようになりました。

パウロはあの事、このこと、自分の身に起こったことをひとつひとつ考えて、本当にイエスキリストは主、神ご自身だと思いました。
その彼に、アナニアから、これからどうすべきか、神様のご計画が明らかにされます。

「『わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。
あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。
今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。』」

私たちもまた、神の御心を悟るために、主キリストと出会いました。そして、私たちが見聞きしたことについて、すべての人に対して、キリストの証人となるために、召されています。
救いは、キリストの御名によって、その贖いにより、洗礼を受けて罪を洗いきよめられること以外にはありません。パウロが、その証人でした。そして私たちも、その証人です。
私たちは、罪赦され、このキリストこそが救いの主であることを、すべての人に対して証しするものと、召されています。

しかし、ユダヤ人たちは、キリストを救い主として受け入れなかったため、主は急いで、すぐにエルサレムから出ていけ、そして、自分がいかにクリスチャンたちを迫害したものであるかを主に訴え、こんな者をあなたの使者として用いられるのですかとの問いかけに、主は、「行け、わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ」とおっしゃいました。
福音の証しが仮に受け入れられなくても、神様は、次なるたましいのもとへと、直ちに私たちをも派遣していて下さいます。罪深い者でも、欠けだらけの者でも、主はきよめて、尊い働きに、用いることがおできになります。

先週、私は、教団年会の場で、按手礼を受けましたが、数多くの先生方が、手を置いて祈って下さる時、とっさに、主よ、私のようなものをあなたはお召しになられるのですか、私はいと小さき罪人ですと、思われました。しかし、ルカ5章でペテロがそう告白した時に、「恐れるな、これから後、あなたは人間をとる漁師になる。」とおっしゃった言葉がまた直ちに、思い出されました。

今日のまとめですが、まず最初に、証し人は、同胞に心を開き、謙遜と尊敬の気持ちを持って、彼らと自分を全く同じところに置き、同じ言葉で語りかけるものであるということ。自分の弱さを包み隠さず、自分の弱さ、欠点を証しすることが証しのスタートであることを学びました。
次に、証しは、自分の身に起こったこと、神様が自分の人生の歩みに行かに触れて下さったかをそのまま話すことであるということ。主がお越しくださったことにより、自分はどんな過ち、思い違いを示されたのか、主の御心にそぐわない思いを抱いていたのかを証しします。
次に証しは、その罪人が、主の贖いの十字架によって救われ、主がすべての自分の歩みを握っていて下さるとの信頼によって続けられます。

私たちの日々の生活すべてが、神様に取り扱われています。私たちは、日々、見聞きしたこと、聖書から教えられていることを、すべての人に対して証しするために、召されています。
「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。」
主は、この国の民が次々と救うため、私たちを、この国に遣わしておられます。

自分の力弱さや、不完全さに目を奪われることなく、「行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。」との力強い主の言葉に身を任せて、パウロが分からぬままでも主に信頼し、ダマスコに入り、主の恵みのうちに目を開かれたように、私たちもまた、恵み深い主を証しさせていただける光栄にあずからせていただきたいと、願います。
目が開かれ、主のために生きる。これこそが、画竜点睛の歩みなのですから。

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