説教原稿

2010年5月23日
「主は救われる人々を仲間に加え」
使徒言行録2:1-8, 22-24, 36-42

今日、私たちは、ペンテコステの日を迎えております。
ペンテコステとは、50日目ということですが、何から50日目かと言いましたら、過越しの祭りの後の、最初の日曜から50日目のことです。過越しの祭りでは、出エジプトの出来事から、鴨居に小羊の血を塗った家は、主の怒りと呪いが過ぎ越されたという出来事が思い出されます。その50日の後には、シナイ山で律法を与えられた記念日と、ユダヤ教では、考えられていたようです。また、過越しの祭りでは、大麦の収穫の初穂が神にささげられ、ペンテコステの日には、小麦の収穫の初穂が、神にささげられたのです。

このペンテコステは、五旬祭や七週の祭りと言われました。「五旬」というのは、50日のことです。私たちも、「上旬、中旬、下旬」と、1か月を10日ずつ、分けているのが分かります。

イエス様は、よみがえられて後、40日間にわたって再び弟子たちに現れ、弟子たちに聖霊が下ること、そして弟子たちは力を受け、エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土、また地の果てに至るまで、主の証人となるから、エルサレムを離れず、父の約束されたものを待ちなさいと、弟子たちに言っておられました。
今日、ペンテコステのお祭りの時、2000年前の聖徒たちに、約束の通りに、聖霊が下ったのです。

弟子たちは、ユダヤ人たちからの迫害を恐れて、初めは家に鍵をかけておののきながら集まりを続けていましたし、トマスを見ると分かりますが、交わりに疎遠になろうとする者も出ていたようです。
しかし、イエス様が彼らの間に現れ、息を吹きかけ、またエマオの途上で起こったように、御言葉から、聖徒たちを励まし、強められたことが記されています。

40日の後、イエス様は天に帰られましたが、その後まもなくして、このペンテコステの日に、聖霊が注がれたのです。

イエス様はこの聖霊のことを、ヨハネの福音書14章の中で、こう紹介しています。
真理の霊、この霊があなた方と共におり、これからも、あなたがたのうちにいる。私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせて下さる。私は、平和(平安)をあなたがたに残し、私の平和(平安)を与える。

聖霊が私たちに与えられるということ、それは、イエス様が天に帰られたのちも、私たちがしっかりと、神様によって支えられ、神様と共におり、神様からすべての必要なお導きと知恵と、平安に満たしていただける、保証なのです。

弟子たちは、この主の、「あなたをみなしごにはしておかない」との約束に立ち、弁護者が確かに与えられることを信じて、エルサレムにとどまっていました。
地方にバラバラに逃げ去ることは、彼らにとってたやすいことであったに違いありません。彼らの師、イエス様が迫害され、殺された、エルサレムに残ることは、どんなに弟子たちにとって辛く、恐ろしいことだったでしょうか。しかし彼らは、主の約束を握りしめ、エルサレムにとどまっていました。彼らにとって、聖霊は、なくてはならないものでした。
エルサレムには、ユダヤにも、サマリヤにも、そして地の果てにまで、主の証し人となるために、彼らは、聖霊を受ける必要がありました。彼らを弁護し、知恵に満たし、主の語られたことを思い起こさせ、主の心、主のスピリットである聖霊をじかに頂くということは、彼らにとって生命線だったのです。

そして、その時は、やってきました。主が40日の間現れ、そしてバトンをタッチするように、聖霊が、弟子たちのたましいに、注がれる時が来たのです。
それが五旬祭の日でした。ユダヤの3大祭の一つのお祭りです。たくさんのユダヤ人が、世界中から集まる日です。

弟子たちは、おそらく宮の中のスペースのところで、一つになって集っていました。「一緒に」と言う言葉が、原語ギリシャ語では2回繰り返されています。彼らが、どんなにか心を一つにして、約束の聖霊が注がれる日を待ち望み、共に心を合わせて主を礼拝していたかが分かります。
この後の出来事ですが、ペテロが捕らえられた時もそうでした。弟子たちが心を合わせて祈っていると、鎖が解け、門が開き、ペテロは祈りのこの家に、奇跡的に戻されました。パウロとシラスが、迫害のゆえに、投獄されていた時も、祈りと賛美の中、主は奇跡を起こされました。

聖徒たちが集って祈る時、大きな力がそこに伴うのです。

主は、約束の時を来らされました。まさにこの時、たくさんの人が集う時。これが主の最善のタイミングでした。主は良きものを約束し、最善の時にご計画を実行に移されます。

突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

エゼキエル書の37章が思い出されます。枯れた骨が復活する、出来事です。
「主はわたしに言われた。『これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、私はお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。』…主はわたしに言われた。『霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。』わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。」

また、夜中にこっそりと訪ねてきたニコデモにイエス様が語られたことを思い出します。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれたものも皆その通りである。」

このペンテコステの日、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、聖徒たちに聖霊が臨まれたのです。
そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまったとあります。

火は、しばしば主の臨在の象徴でした。モーセは、燃える柴の中に、臨在された主に出会いました。
火も風も、聖霊の臨在の力の象徴でした。この時、聖霊なる神が、祈る弟子たちの間に、臨在なさったのです。

4節、「すると一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した。」

聖霊は、空のコップに水を満たすように、聖徒たちの心を満たしました。
すると、使徒たちは、習ったことも、話したこともないような、外国の言葉をペラペラと話し始めたではありませんか。

エルサレムにはこの時、天下のあらゆる国から帰って来た信心深いユダヤ人たちが祭りのために、住んでいました。
彼らは、地中海世界からエジプト大陸に至るまで、至る所からユダヤ人や、ユダヤ教に改宗した元異邦人たちがいましたが、彼らは、いなかのガリラヤ人である弟子たちが、めいめい自分の生まれた故郷の言葉を話すのを聞いて、あっけにとられ、驚き怪しんだと記してあります。

色々なところから人々が来ているのに、「彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」しかしある者は、弟子たちが酒に酔っているのだと言い、あざける人たちもいました。

霊は、神の偉大な業を私たちに示します。霊は、イエス・キリストにあってなされた神の偉大な御業を語らせます。
この時使徒たちは、恍惚状態になって、てんでばらばらの意味のない外国語風のことを話したのではありません。彼らは、確かに外国語を話し、それは、イエス・キリストによる神の偉大な業を語っていたのです。

1ヨハネの4章に、ヨハネは、神から出た霊かどうかを確かめる方法を挙げています。
「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。
イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。
イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。」

聖霊に満たされること、それは弟子たちの慰めと共に、主イエス・キリストを力強く証しするための出来事でした。

22節からは、14節から始まるペテロの説教の部分ですが、ペテロは、大胆に、イエス・キリストを証ししています。
聖霊は、不可能を可能にします。私たちの能力に関係なく、私たちに外国語を話させるのと同じように、私たちの口に、新しい神様への賛美と、力強い神様の証しを語らせるのです。
「武力によらず、権力によらず/ただわが霊によって」とゼカリヤ書4:6に記されています通りです。新改訳聖書では、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と書いてあります。

私たちもまた、この聖霊によって、不可能が可能にされ、権力無きまま、能力無きままでも、力強い証し人になれるのです。

22節、「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。」
これぞ「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」1コリント12:3の御言葉の通りです。
私たちが、「イエス様こそ主」と言う時、それは、私たちに、聖霊が働いていて下さっているのです。聖霊によらなければ、「イエスは主」とは言えないのです。
ナザレの主イエスこそ、神から遣わされた方。

ヨハネ9章の生まれつき目が見えなかった人の話を思い出します。執拗に、お前の目を開けたのは誰だ、あのイエスは、罪人ではないか、そんなものに、こんな奇跡が行えるはずがないではないかと、詰め寄った時、彼はこう言いました。

「彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
9:26 すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」
9:27 彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」
9:28 そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。
9:29 我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」
9:30 彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。
9:31 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。
9:32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。
9:33 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」

イエス様こそ、まことの主です。イエス様こそ、神から遣わされた主、神ご自身です。

「神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。」

「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。
24 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」

先日まで、ユダヤ教徒に押しつぶされ、自分たちも一ひねりにされてしまうと、恐れおののいていた弟子たちが、主を3度否んだペテロが、こうも大胆に主を証しし、キリストを十字架にかけた罪を問うものとなりました。
これがペンテコステの出来事です。
神様からの強い、強い追い風が吹いてきて、形勢が逆転する時、それがペンテコステです。

権力によらず、能力によらず、主の霊によって。

弟子たちの能力を超えて、力強く神の霊が働き、不可能を可能にし、証し人として働かせていただける、これがペンテコステの出来事です。

ペテロはさらにユダヤ人に、悔い改めを迫ります。

36節、「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

キリスト教は、主が十字架につけられて、葬り去られた宗教ではありません。十字架から始まった宗教です。

神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」 しかし、その正しい方を十字架につけた人の罪は残ると、ペテロは鋭く問いかけました。

37節、人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。

神の前に、向き直った真剣なたましいです。
人は皆神から離れ、好き勝手なことを行い、正しい者は一人もいないと聖書に書いてありますが、それに気付くものは幸いです。
神の子救い主イエス・キリストに対して手をかけて、十字架につけてしまった人の罪は、救い主を手にかけてしまった人の罪は、何によって赦されるのでしょうか。

しかし、この罪は、ユダヤ人だけのものではありません。神を受け入れず、神の御心よりも自分の願いを優先させることこそ、神に敵対することであり、キリストを十字架につけることなのです。

「私はどうしたらよいのでしょうか。」

神の前に、罪が示された人の言葉です。
パウロも、ダマスコの途上で主に出会った時、主を迫害していたと気付いた時、目が閉ざされて見えなくなった時、どんなにか絶望したことでしょうか。神に敵対して、自分はいったいどうしたらよいかと思ったことでしょう。

これに対するペテロの答えは、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」というものでした。
「悔い改める」とは、向きを変えて再出発するということです。心の方向を向け直して、新たに出発するということです。
十字架で贖いをして下さったイエス様の名によって洗礼を受け、そうすれば、賜物として聖霊を受ける。
使徒言行録に、使徒たちの力強い働きを見て、お金を積んでその能力を売ってほしいと
頼んだ人の話がありますが(使徒8章)、聖霊は、悔い改め、イエス・キリストの名によって洗礼を受けたすべての人に与えられる、神の賜物、プレゼントなのです。

あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも。ユダヤ人にも、異邦人にも、という意味が伺えます。 神が招いて下さるものだれにでも。救いと聖霊は、与えられます。

ペテロは、力強く証しし続けました。そして、「邪悪なこの時代から救われなさい」と語りました。
不正な、よこしまな、曲がった時代。
神を信じ、主としてあがめ、神の御心に従うという、明確な意識のないところには、人の生まれながらの罪に従った世界が繰り広げられます。
人が見ていなければ、気づかなければ、何をしても構わないというまがった風潮がはびこる中、この時代から救われなさいと、ペテロは語りました。

ペテロの言葉を受け入れ、3000人が仲間に加わったとあります。これは主が3年間の間に導いた数を超えるものだったのではないでしょうか。
聖霊により、弟子たちは、主の約束の通り強められ、地の果てまでも証し出来る者となりました。主がなしたよりも大きな御業に携わらせていただくものとなりました。

弟子たちは、教え、交わり、聖餐と祈りに熱心でした。神を恐れ歩むその彼らから、イエス様がなさったように、22節に書いてありますように、「多くの不思議な業としるし」が行われました。

弟子たちは、以前から一つになって集まっていたより以上に一つとして歩むようになり、すべての持ち物を共有し、毎日、ひたすら心を一つにして礼拝し、聖餐をして、この上のない喜びと謙遜とをもって共に食事をしました。そうして神を賛美し、すべての人たちに親切にしましたので、民衆全体から好意を寄せられました。

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」ヨハネ13:34-35

こうして、主は救われる人々を毎日仲間に加え、一つとして下さいました。

ペンテコステは、しばしば教会の誕生日と言われます。今日、神様が聖霊により、始めて下さったことをまとめてみたいと思います。

聖霊が与えられることは、主の約束の中にあり、弟子たちがどうしても与えられなければならないものでした。弟子たちは強められなければ、みなしごのように力のない存在でした。イエス様が天に上られたのちにも、弟子たちが、神様と共にあって守られるためには、聖霊の内住が不可欠でした。

つぎに、証しをするために、聖霊は不可欠でした。
聖霊により、弟子たちは、大胆にイエス様を証ししました。
聖霊は、イエス・キリストを示し、告白させ、証しさせる原動力となりました。
そして罪を示し、悔い改めを迫る、救いの原動力となりました。
邪悪なこの時代を見極め、救いを指し示す、迫力が与えられました。

最後に聖霊は、教えと交わり、聖餐と祈りに熱心にさせ、キリストがなさった業を弟子たちになさせました。
愛の交わりを生み、良きわざを生み、人々からの好意を得させ、悔い改めに導きました。

このように、聖霊は、教会の海の母であり、育ての母です。

使徒言行録は、使徒行伝は、しばしば聖霊行伝と呼ばれます。

私たちも、内に生きる聖霊の力により頼み、期待し、聖書の教えと交わり、聖餐と祈りに進む時、聖霊行伝の中に入れられることでしょう。
期待しつつ、今週の歩みを進む手間要りましょう。

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