説教原稿

2010年5月16日
「神が異邦人の間で行われたこと」
使徒言行録21:17-26

先週、私たちは、パウロがエフェソの教会の長老達に対して語った告別説教を聖書から学びました。
すべての謙遜と涙をもって、ユダヤ人たちの陰謀の数々を耐えつつ、主にお仕えし、主の福音を伝え続けました。
悔い改めと、主イエスに対する信仰。これがパウロの福音でした。
悔い改めて、十字架にある救いを信じる。主イエスの恵みの福音。これが、パウロが一心に伝えたものでした。
律法を否定したのではありません。ただ、人の行いによっては義とされない、律法の限界というものを、彼はよく知っていました。律法をどんなに守っても、心の内にある、罪を犯そうとする体の、肉の性質が宿っていることを、彼はよく知っていました。
「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みによって無償で義とされる」行いによって救われるという、人の誇りは取り除かれ、神はユダヤ人だけの神ではなく、異邦人の神。
今や、キリストによって、律法にまさる神様の導きが、救いがあらわされている。
彼はこう語りながらも、ユダヤ人たちの根強い抵抗に遭いました。

パウロもかつては、熱心な律法主義者でした。しかし、彼は、キリストに出会いました。
聖書に熱心に従い、生きていると思っていたのに、神を迫害して生きている。彼はそれに気付かされました。

ペテロが不思議な幻を見ました。彼は祈るため、屋上に上がり、そうしていると、我を忘れた状態になりました。天が開き、大きな布のような入れ物が四隅をつるされて、地上に降りて来ました。その中には汚れた動物が入っていましたが、主はペテロに、屠って食べなさいと告げました。「神がきよめたものを、清くないなどと、あなたは言ってはならない」とのお告げがありました。そうこうしているうちに、異邦人のコルネリウスという人が、神様の御告げにより、ペテロを訪ねて来ました。
律法によれば、ユダヤ人は、外国人と交際したり、外国人を訪問することは禁じられていましたが、ペテロが見た幻と、コルネリウスが御告げによってペテロを訪ねてきたという出来事が、全くタイミングとして一つのものでしたので、ついにペテロは、こう言いました。
「神は人を分け隔てなさらないことがよく分かりました。どんな国の人でも、神を恐れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」と言いました。
ペテロがこう語っていますと、御言葉を聞いている一同に聖霊が下りました。
割礼を受けている信者で、ペテロと一緒に来た人は、皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚き、異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを聞いて、驚き、そこでコルネリウス達は洗礼を受けたと、使徒言行録の10章に記してあります。

さて、この事が使徒たち、イエス様の近くにいた12弟子たちの耳に入り、割礼を受けていない人たちと一緒に食事をするとは何事かとパウロに聞きましたが、パウロが事の次第を話すと、「それでは神は異邦人も悔い改めさせ、命を与えて下さったのだ」と言って、神を賛美したとあります。

異邦人伝道はこのように、勢いを増していきました。パウロがこの働きを受け継ぐようになり、バルナバとともに伝道していた時も、異邦人の地のユダヤ人たちの会堂で、はじめはユダヤ人たちに対して話していたのですが、異邦人たちが会堂に詰めかけ、異邦人の町の人たちのほとんどが、つまりたくさんの異邦人たちが、ユダヤ人の会堂に、パウロの福音を聞きにやってきたと、使徒言行録の13章に記してあります。

ユダヤ人の会堂に、異邦人が詰めかけるということなど、かつてはなかったことです。
この状況に、当のユダヤ人たちは、この群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対したとあります。
そこでパウロとバルナバは、神の言葉はまずあなたに語られるはずだった、しかし、私は異邦人の方へ行くと、語りました。
異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美し、信仰に入り、主の言葉がその地方に広がったとあります。

こうして、異邦人の町々で、ユダヤ人の会堂で、ユダヤ人にも、異邦人にも福音を語り、歩んできたパウロが、ついにユダヤ人の集まるエルサレムに、それも人の集まる五旬節、ペンテコステの祭りの時に、エルサレムに戻って来たのです。

神様のなさったことの次第を話し、共に主の御名をあがめた人たちがいました。しかし、事の次第を話しても、いい悪いではなくて、感情的に、妬みの気持ちにより、その新しい流れを受け入れられない人たちがいた訳です。そして、パウロを殺そうと、画策している人たちもいました。

エルサレムのクリスチャンたちと出会うことになったパウロは、どのような歩みをしていくのでしょうか。

17節、パウロは、エルサレムの兄弟たちに、喜んで、温かく迎えられました。18節、翌日、パウロは私たちを連れてヤコブを訪ねたとあります。急に「私たちを連れて」とありますが、使徒言行録の著者のルカは、パウロの力強い協力者で、同行者でした。
ヤコブとは、主イエス様の母マリアの子ヤコブです。主の弟ヤコブは、新約聖書のヤコブ書の著者ですが、エルサレム教会の責任を負っていたと考えられます。

19節、パウロはヤコブに挨拶をしてから、早速、自分の奉仕を通して神様が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明しました。ヤコブのもとには、エルサレム教会の長老達が一同に集まっていました。

コリネリウスが受け入れられ、洗礼を受けたのは、ペテロによるものでしたが、主は同様に、パウロを通して、異邦人の町々で救いの業をなして下さったことをパウロは詳しく、ひとつひとつ、語りました。ユダヤ人たちの妬みと迫害についても、語ったことでしょう。

異邦人コルネリウスが救われた時、ペテロが事の次第を詳しく話した時、それを聞いた人たちが、異邦人にも救いが広がったと、主の御名をあがめたように、パウロは、自分を通して、神様が、どのような御業をなして下さったのかを詳しく語りました。ヤコブと、長老たちは、事の次第を聞いて、共に喜んでくれると、パウロは思っていたでしょう。

20節、「これを聞いて、人々は皆神を賛美し」たとあります。
これが教会の素晴らしさだと思います。私たちは、ただ神様に期待し、信頼し、世の中の旅路を歩きます。その中で、主が働いて下さったという証しを持ち寄って、そうして、主の御名があがめられる。自分の今までの理解と異なることがあったとしても、主が働いて下さったことの次第を聞いて、また新たな神様のご性質に気付かされ、また御名を賛美するものとさせていただく、謙遜にさせて頂く、これが教会であり、これが信仰であります。

異邦人たちが会堂に詰めかけてきたあの場所では、主を信じるユダヤ人もいたでしょう。信じないユダヤ人もいたでしょう。 しかし、パウロが語る、主がこうして下さったという証しによって、新たに主の前に気付かされるユダヤ人の姿が記されるよりもむしろ、ひどいねたみに燃え、口汚くののしるユダヤ人の姿が記されているということに、ショックを覚えます。主がせっかく新たな救いの業を行っておられるのに、律法律法と、自分が守って来たものにしがみついて、新しい神様のお働きを受け入れられないとしたら、それはユダヤ人たちがイエス様を十字架につけた罪を再び繰り返すというものです。

パウロは、「神が異邦人の間で行われたこと」を詳しく、語りました。
そしてどうなったのでしょうか。一度は、神を賛美するのですが、彼らはパウロに語りました。
20節、「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。
22 いったい、どうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にします。
23 だから、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。
24 この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。

幾万人ものユダヤ人がキリストの信者となっているということは、本当に、喜ばしいことです。ユダヤ人たちが、イエス様を十字架にかけたことを後悔し、自分の過ちと傲慢を悔い改め、ただイエス様の十字架のみが、思いにおいても、行いにおいても、堕落しきってしまった自分たちを救う唯一の救いであることを信じて、信者となっていることは実に喜ばしいのです。でも・・・、信者になって、皆熱心に律法を守っていますとは、いったい、どういうことでしょうか。パウロは金輪際、律法を守らなくてもいいなどとは言いませんでしたし、イエス様もそうはおっしゃいませんでした。
しかしどうして? 熱心に従うとしたら、律法を自力で行えない、罪深い自分が、ただイエス様の十字架によって救いだされるというのが福音であるはずだったのではないか?私たちはここにおやと思わざるを得ないのです。

そして21節、「この人たちがあなたについて聞かされていることによると」と、ヤコブと、エルサレムの長老たちは、心配そうに語ります。
「あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです。
22 いったい、どうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にします。」

いったいどうしたらよいでしょうかとは、ヤコブと、教会の長老達の青息吐息の、途方に暮れた心配さを、あらわしています。
幾万にもの信者になったユダヤ人たち、彼らはクリスチャンです。そして、律法に熱心な彼らが、パウロのよろしくない噂-律法を守らないように指導しているとのうわさ-これは根も葉もないうわさですが-、それを聞いていて、さあ今パウロがエルサレムにやって来るから、確かめてやろうと大挙してくるに違いない。これがヤコブと長老達の心配事でした。

何ということでしょうか。この間違ったうわさと、いったいどういうことかという突き上げとは、クリスチャンではない、外からのユダヤ人からなされるものではなくて、内側の、キリストの信者になった幾万の人たちからやって来るものであるというのです。
ですから、ヤコブと長老たちは、「神が異邦人の間で行われたこと」を、かみしめて、ここエルサレムの教会でも、その同じ神を神としていこうと話すのではなくて、心配ごとでそわそわしながら、早速ですが手はずを整えましょうと、後ろ向きな話を一生懸命に始めようとしているのです。

23節、「だから、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。
24 この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。」

だから、言うとおりにして下さい、これこれをして下さい、そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かりますと、ヤコブたちは、語るのです。

律法に従って歩むかどうかが大切なのですか?それならば、キリストの福音は、どこに行ってしまったのでしょうか。
律法では成し遂げることのできなかったことを、キリストの福音は成し遂げるのではなかったのでしょうか。

ユダヤ人たちの圧力の中で、迫害の中で、エルサレム教会が困窮し、煮え湯を飲まされていたことは、分かります。
しかし、だからと言って、教会の中にまで、律法に正しく生活しているということを説得しなければならないとは、何とさびしいことでしょうか。
律法はまったく必要のないものとなってしまったのではありません。しかし、律法よりも大切なこと、キリストの福音、これによって、「神が異邦人に間で行われたこと」、これこそが教会の生命線であり、最も大切なことなのです。

エルサレムの教会の指導者たちと言えば、25節、異邦人に対しては律法は要求しないけれど、最低限、これらのことは守って下さいと、言うのみでした。異邦人たちがどんなに主によって変えられ、そして教会を力強く支えている自分たちと同じ体の各部分であるなんてことには、全く関心がないように、見えるのです。

パウロは、自分が律法を守らないようにと指導していると誤解されているのならば、その誤解をまず解かねばならないと、謙虚に、エルサレム教会の指導者たちの提案を受け入れ、宮に行き、律法の行いに従って歩む姿勢を示すと、語りました。

パウロ自身がコリントの信徒への手紙1の9:20でこう語っている通りです。
「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。」

彼は、自由を与える福音をもっていました。彼は律法に挫折しながらも、その挫折により、神の救いに律法は人を導くことを知っていました。ですから、律法が即ち救いだという考えを、いまだに持つ人たちに、その書かれたパウロの手紙の大半を用いて、考え直すようにと、力説してきました。

「神が異邦人の間で行われたこと」。「神がキリストによってなされたこと」。
私たちは、まず神が何をなされたかを注意深く知り、そして自分の歩調を進める者でありたいと思います。

ちょうど私たちは、神様と、手を取り合って、ダンスを踊っているようなものです。主が導き手です。心を合わせて、主が動かされるステップに、歩調を合わせていくのです。こうして踊っていく時に、教会には喜びと、偉大なる主の御業が起こされるのです。

今日のところをまとめたいと思います。
第一に、教会は、神が私たちの間で行われたことを、神様の働きを、分かち合うところです。神様がどんなことをして下さったかということに、常に目を止めて、私たちの思いをそこに寄り添わせていく場です。

トマスに起こった出来事を思い出しましょう。トマスが教会を休んでいる間に、弟子たちは、復活のイエス様に出会いました。しかし彼はそれを見ませんでしたので、弟子たちと同じ思いを共有することが出来ず、彼は自分自身の信じられないという思いに、閉じ込められていました。しかし彼にも主は現れて下さいました。彼は主に向かって、ステップを踏み出しました。

私たちも、この教会で、主のステップにあわせて、足を進めたいものです。

第二に、私たちは、教会の中で、イエス様を信じることが最も重要であるということを常に確信し、そのほかの考え方を持つ、そのような温度差のある時に、イエス・キリストをのみ見つめる方向へと足取りを合わせるために、具体的な調整が求められるということが挙げられます。

律法を守り、自分を責め、人を裁くのではなくて、十字架の赦しの恵みにじっと目を止めていることが出来れば、すばらしい教会だと思います。私たちは、クリスチャンの間にあっても、この交わりの外にあっても、十字架の恵みとキリストについて、神が私たちの間でなされたことを証しするものでありたいと、願います。

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