説教原稿
2010年4月18日
「福音のため祭司を務める」
ローマの信徒への手紙15:14-21
行いではなくて、信仰によって救われる。このことを一貫して語ったパウロですが、その目的は、ユダヤ人クリスチャンが、ユダヤ人ではない異邦人のクリスチャンを受け入れるためでした。
ユダヤ人のクリスチャンたちは、もともとのユダヤ教徒の時代がありました。彼らは、旧約聖書の律法を守ることによって救われると信じていましたが、キリストに出会い、キリストを信じる者になっていました。
彼らは、ユダヤ教ではなくて、キリストに出会うことが大切だということを知りながらも、ユダヤ教の律法を知らずに、クリスチャンになって来た、異邦人のクリスチャンたちを、受け入れることが出来ずにいました。
これが、「行いではなくて、信仰によって救われる」という、パウロの、ローマの信徒への手紙の、執筆目的です。
「信仰の強いものは、信仰の弱いものを受け入れるべき」とか、互いに愛し合うとか、強くない者の弱さを担うという言葉は、そういった背景から出てきた言葉でした。
有名なユダヤ教の律法学者でファリサイ派のガマリエルの弟子だったパウロ。彼ははじめ、ユダヤ教の中に生まれたキリスト教を、異端として迫害し、男女を問わず縛り上げて投獄し、殺すことさえしていました。
彼は、ガチガチのユダヤ人、ユダヤ教徒でした。
大祭司と長老会全体から、ダマスコの同志たちへの手紙を預かり、ダマスコの地にいるクリスチャンたちをエルサレムまで連行して、エルサレムで処罰しようとしていたその時、ダマスコへ近づいたとき、突然、天から強い光を受け、地面に倒れると、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」という声を聞いたのです。
主よ、あなたはどなたですかと尋ねると、「私は、あなたが迫害しているナザレのイエスである」と答えがありました。
そして、「立ち上がってダマスコに行け」と言われ、目が見えなくなったパウロは、手をひかれてダマスコに入ると、クリスチャンのアナニアという人が、パウロの側に立ち、「兄弟サウル、元通り見えるようになりなさい」と語ると、彼は見えるようになり、それ以来、クリスチャンとしての歩みをするようになりました。そして彼は、「見聞きしたことを語りなさい、行け、私はあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ」という主の声に従って異邦人伝道へと向かって行きました。
しかし、エルサレムのユダヤ人たちは、異邦人が、律法を行わないままで正しいものとされるというパウロの主張を、決して受け入れませんでした。パウロは、もと自分がいたユダヤ教からの強い迫害を受け、そして、教会のなかの、ユダヤ教的なクリスチャンたちからも、二重に理解されずにいました。そして、使徒言行録では、この異邦人の救いの問題のゆえに、エルサレムのユダヤ人から訴えられ、上訴を続けてローマに至り、ついに書面でしか話すことのできなかったローマのクリスチャンたちと、そして、ユダヤ人たちと、語り合ったと、記してあります。そこには、「ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとしなかった」とあり、パウロは最後に、ユダヤ人は聞くには聞くが理解せず、見るには見るが、決して認めない、耳で聞かず、心で理解せず、立ち返らない者、神はこのようなものを癒せないと、イザヤの言葉を語り、「この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従う」と語りました。
パウロは、教会と、自分がかつて所属していたユダヤ教徒へと、また異邦人へと、様々な人たちを相手に、しかし一つのキリストの福音を語り続けました。福音は、様々の立場の人を一つにすることが出来ると信じて、ひたすらに、キリストの福音を語りましたが、語るにつれて、彼への迫害も、強まっていきました。
彼は、理想の教会を立て上げるために、ローマ書を執筆しましたが、理想の教会とは、一人一人の確信を、喜んでキリストのために捨てる者の集まりということになります。
パウロがそうでした。彼のガチガチの理想というものは、キリストによって砕かれました。そして彼は目が開かれたのです。
彼から見ましたら、ユダヤ人たちは、未だに目覚めていない人たちでした。大事でもないものをしっかりと小脇に抱え、真理を見る目が曇っていたのです。
パウロは、キリストに出会い、目が見えなくなったことによって、自分が今まで見ていると思いながらも見えていないものであったということを示されました。そして、キリストのために、命をかけて働くものとされました。
パウロは、ローマの教会にあてた手紙の中で、今日の個所で、このように語っています。
「兄弟たち、あなた方自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことが出来ると、このわたしは確信しています。」
もともとユダヤ教徒は、行ける創造者なる神様を信じる、アブラハム、イサク、ヤコブの末裔の集まりでした。私たちクリスチャンの母体です。しかし彼らの宗教は、腐敗してしまいました。神様は、何度となく、預言者たちを遣わしましたが、神の民は、かたくなでした。そこで時至って、神様は、ひとり子を遣わし、十字架におつけになり、ご自身の救いを明らかになさいました。
人による宗教は、腐敗します。キリスト教だって、キリストから離れれば、簡単に腐敗するでしょう。ですから、私たちもまた、自分の信仰を点検しなければなりません。互いに戒め合い、教え合い、キリストに従い続ける者でありたいと思います。
その際に必要なことが二つ、書かれています。 善意に満ちていること、そして、あらゆる知識で満ちているということです。
キリストにある兄弟が、悪意に満ちて兄弟姉妹を取り扱うということはないと思いますが、しかし、キリスト者もまた人間です。私たちは、善意に満ちて、互いに戒め合うことが出来るようにと、心がけたいものです。
牧師同士の中にあって、成功しているものを妬み、足を引っ張りたいと願うようになるということがしばしば起こり、私たちはそれを耳にします。
善意に満ちていにければ、互いに戒め、教え合うことはできません。悪意があれば、それは矛盾と偽善、腐敗の原因になります。
あらゆる知識に満たされ、互いに戒めることが出来ること。パウロは別の個所で、正しい知識と認識に基づかない熱心を戒めています。善意や熱意であっても、それが独りよがりなものであってはならず、聖書の知識に基づくものでなければなりません。
善意においても、感情においても、知識においても、十分に満たされているものが、互いに戒め、教え合うことが出来るということ、これは、私たちの心の動機を調べさせ、そして、感情を中心にして兄弟を戒めるか、もしくは、聖書の知識に基づいて戒めるかを、私たちに教えます。
私たちは、常に善意に満ち、良き意思を持って、しかし感情に左右されず、十分な聖書の知識にのっとって兄弟姉妹の間の交わりを保つべきであることを、この聖句から、教えられます。
記憶を新たにするように、パウロはこのローマ書で、所々かなり思い切って書きましたが、それは何のためかといえば、異邦人のためでした。
彼はユダヤ人たちのかたくなさに対して怒りと無念の気持ちを持ちつつも、いつも善意から、そして、自分の感情に任せずに、いつもあらゆる神様から知らされた知識とを持って、祈り、語って歩いてきました。
彼は、「神から恵みを頂き、異邦人のためにキリストに仕える者」とされたからです。彼のような存在がなかったならば、いつまでも、異邦人たちには救いがもたらされなかったでしょう。そしてクリスチャンたちにとっても、いつまでもユダヤ教のなかの、異端者のままだったでしょう。
律法を守るものだけが正義であったならば、それを信じるものが大多数ならば、キリスト教は、今のユダヤ教に押しつぶされていたことでしょう。
しかし彼は、神から恵みを頂き、迫害者であったにもかかわらず、キリスト・イエスを冒涜するものであったにもかかわらず、恵みのうちに、誤った道から方向転換をさせて頂き、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者とされました。
彼は、「キリスト・イエスのしもべ」と自己紹介するのが大好きでした。彼は、ついに、自分の従うべき主を見つけたのです。そして、本当の使命を見つけたのです。
それが、神の福音のために、異邦人のために、祭司の役を務めるということでした。
祭司とは、ささげられたいけにえを、祭壇にささげ、神のもとにささげるための仲介者の役割を担い、神と人との間の仲介者の役割を担う存在です。
神の福音のために祭司の役を務めるとは、イエス・キリストの福音によって祭司の働きをするということです。
旧約聖書では、人は落ち度なく、ささげものをささげることを守らなければなりませんでした。そのうえで、祭司は、受け入れられる捧げものか否かをチェックする役割がありました。人の律法の行いを正しく見守るつとめがありました。
しかし、イエス・キリストの福音においては、もうすでに、神様が、正しい一人のささげものを用意して下さいました。祭司は、このイエス・キリストの捧げものは正しいと宣言し、誰もが律法の行いではなくて、ただその贖いの贈物を喜んで受け取り、正しいとされればよいということを伝えるのです。
したがって、ユダヤ人と異邦人の区別はなく、選民も、外国人の区別も、ないのです。
すべての人に、救いは開かれているのです。私たちもまた、この福音による救いの、祭司の役を担っています。もうすでにいけにえはささげられました。神様に至る道は、開かれました。さあどうぞ、ここから進んで下さいと、私たちもまた、語るべき祭司の役割を担っています。
さああなたは検査合格、あなたは主の血潮によってきよめられています。さあどうぞ主の前にお進み下さい。
クリスチャンになるために必要なこと、しなければならないことは、何一つないのです。ただ信仰により、救いを受け入れて、進み出るだけのことです。
私たちが何の功績もないまま進み出るとき、私たちは、キリストによって、聖なるものとされます。聖霊によって聖なるもの、神のためにとり分けられた聖なるもの、受け入れられる聖なるもの、神に喜ばれる供え物となるのです。
パウロは祭司として、異邦人自身が贖われて聖なるものとされ、彼ら自身がきよい、神に喜ばれる供え物となったと語っていますが、これこそが、神の前に私たちがあるべき姿です。
パウロはローマ12章で次のように、語っています。
「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」
私たちは、きよめられた者、とり分けられた者として、主にこの身この存在を明け渡し、喜ばれる捧げものとしてささげる、ここに、礼拝があり、信仰生活があると、聖書は語っています。
こういう祭司の務めをするパウロは、その働きをこそ、キリスト・イエスにあって誇りとし、キリスト・イエスの福音を伝えることこそを誇りとしました。彼は地中海世界の端から端まで、数々の危険も顧みずに、キリストの福音をあまねく宣べ伝えることを喜びとしました。
律法しか語られていないところにキリストの福音を、そして、土着の神々の根付いている場所で、彼はキリストの福音を宣べ伝えました。
彼のこの、異邦人のために祭司の役割を果たすというこのことこそ、今日日本人クリスチャンとしてある私たちが継承するべき働きです。
常に善意に満ち、あらゆる知識に満たされ、教え戒め、そして異邦人のためにキリスト・イエスに仕えるしもべとなり、神の福音のために祭司の役を務める。
キリストにあって、あなたは受け入れられています。何のいけにえを用意しなくとも、良い行いに身を包まなくても、罪あるままで、欠陥のあるままで、あなたは合格、神に受け入れられていますと、語る祭司の役を務めるのです。
パウロがただ恵みによって、ダマスコ途上のあの罪をぬぐわれ、新しい務めに召されたように、誰もが、キリストの弟子となることが出来ます。
誰もが、神に喜ばれる、とり分けられたきよい存在、神に受け入れられる存在となれるのです。
私たちはここに、パウロの異邦人伝道の働きが語られる頂点を見ました。
神様が彼を通して、異邦人を、外国人を、求めておられるのです。
私たちもまた、パウロと共に、祭司となるのです。収穫の働き手として、色づいた、神様の前に求め祈っておられるたましいのために、出かけていくのです。
「あなたの生涯をささげて神に従いなさい。神様はあなたを、神に喜ばれる聖なる供え物と、呼んで下さいます。」こう語り続ける、神の祭司として、私たちが今週も、用いられますようにと、祈ります。
日本アライアンス教団 東城キリスト教会
〒729-5124広島県庄原市東城町東城384
Tel 08477-2-0288 - メール -