説教原稿

2010年4月11日
「わたしの小羊を飼いなさい」
ヨハネによる福音書21:1-19

先週、私たちは、イエス様のよみがえり、イースターをお祝いいたしました。
ヨハネによる福音書によれば、主はよみがえられて、日曜日の朝、ベタニヤのマリアにお会いになられたとあります。
はじめにマリアは、イエス様の遺体がなくなったと墓の外に立って、泣いていました。そこにイエス様が現れましたが、マリアは、その人が、園丁、園の管理人だと思っていました。イエス様は、いつものように、「マリア」と呼びかけられました。するとマリアはその声に気付き、「ラボニ」先生と、語りかけました。

イエス様は、確かに兄弟ラザロを生き返らせて下さいました。しかし、イエス様ご自身が死んでしまっては、誰がその亡骸を生き返らせることが出来るでしょうか。しかし、大きな希望を失って、悲しんでいた女性たちは、日曜日の朝、空っぽになっていたお墓を見たのです。
そして、亡骸が盗まれてしまったと泣いているマリアに、イエス様は、現れて下さいました。

この話は、弟子たちにも伝えられましたが、弟子たちには、信じられなかったようです。ルカによる福音書では、女性たちは、御使いから、主の復活を知らされ、イエス様の復活するとの言葉を思い出し、女性たちは帰って、空っぽのお墓のことを弟子たちに伝えたのに、弟子たちは墓を見にも行かずに、女性たちの話をたわ言と決めつけて、信じなかった、しかし、ペテロだけは墓に走って見に行って、空の墓を見て、驚いて家に帰ったと、聖書に書いてあります。

このように、イースターは、女性たちの喜びと、弟子たちの疑いの中に、はじまりました。

日曜日の夕方、弟子たちは、扉にしっかりと鍵をかけて、ユダヤ人たちを恐れて、ひっそりと、集まっていました。次は自分たちが殺される番だと、恐れていました。
疑いと恐れ。弟子たちは、恐怖におののいていました。
教父と疑い、不信仰の中、イエス様は、そのただ中に、来て下さいました。
「平和があるように」、「平安があるように」と、おっしゃり、息を吹きかけて、聖霊を受けなさいと、おっしゃいました。釘に貫かれた、手と、槍で刺された、わき腹をお見せになり、確かによみがえったのだと、主は、弟子たちを勇気づけて下さいました。

ですから、主のよみがえりは、勝利のしるしです。主のよみがえりは、慰めのしるしです。主が墓の中におられるだけならば、弟子たちにこうして表れて下さらなかったのならば、キリスト教は、この日曜日の日に、死んでしまっていたでしょう。しかし、キリストは、復活して下さいました。ですから、主の復活とは、私たちにとっても、大変意味のあることなのです。
しかし、たまたま、運の悪いことに、トマスという弟子が、この日曜日の夕方の弟子たちの集会に、欠席していました。
恐れの余り、弟子たちの集会に行くことすらためらわれ、家で布団をかぶっていたのでしょうか。トマスは、主をその目で見るという、大きなチャンスを逃してしまいました。
この個所から、私たちは、しばしば、毎週日曜日に休まず礼拝に出席する恵みについて、聞いてまいりました。私たちもまた、主のよみがえりの朝、日曜日の朝、よみがえりを賛美し、私たちの信仰の土台である主の復活を喜びます。この時にしか出会えない恵みがあります。それがよみがえりの主に出会うという礼拝です。教会の礼拝は、このよみがえりの主に共々出会った、この喜びを土台として続けられてきました。

さて、自分だけよみがえりの主に出会えなかったトマスは、他の弟子たちの見たという声を信じられず、自分もこの目で見なければ、信じないと、言っていました。女性たちが見て、信じ、弟子たちが、見て信じたのに、まだ今になっても、自分の目で見なければ信じられないとは、私たちがいかに、信じるということにおいて難しい存在なのかを知ることが出来ます。
そして次の日曜日、再び主は、弟子たちの真ん中に立ち、再び平和があるように、平安があるようにと、おっしゃいました。
疑っていたトマスに、さあ、あなたの指を、私の傷跡にあててみなさいと言われ、トマスは「私の主、私の神」と、イエス様を信じました。
イエス様は、「見ないのに、信じる人は、幸いである」とおっしゃいました。
今日私たちの真ん中に、イエス様はおられ、「平安があるように」と、祝福を与えていて下さいます。私たちは、見てはいませんが、2000年前に確かに弟子たちに、そしてトマスに出会って下さったイエス様を、その復活を、この目で見ずとも、信じたいと思います。

復活の主に出会い、喜んだ弟子たちでしたが、その後はどうなったのでしょうか。

イエス様は、意気消沈し、恐れ惑う弟子たちを、何度も何度も、励まして下さいました。

今日の舞台はティベリアス湖畔。ティベリアス湖とは、ガリラヤ湖のことです。

ペテロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子たちヤコブとヨハネ、そしてもう二人の弟子、この7人が、一緒にいました。
ペテロが、「私は漁に行く」というと、他の弟子たちもまた、「わたしたちも一緒に行こう」と言いました。

元漁師であった弟子たち。そして、人をとる漁師にしてあげようと言って頂いた弟子たち。彼らの漁は、どのような結果をもたらすのでしょうか。
「しかし、その夜は何もとれなかった。」

ああ、何もとれなかった。自分たちは、漁をやってもうまくいかず、人をとる漁についても、うまくいかないのだなあ。夜通しの労働の疲れと、それが報われないむなしさを覚える一人一人でした。

あああの時も。ルカ5章、夜通し漁をやって、何もとれなかった時。イエス様が舟に乗りこんで、「沖に漕ぎだして、網を降ろしなさい」とおっしゃった時。お言葉の通りと、したがって、網を降ろしたとたん、ズシリと手応えの来た、あの時。そして礼拝する自分に、「恐れるな、今から後、あなたは人間をとる漁師になる」とおっしゃって下さったイエス様。

ああ、しかしイエス様は、今いない。そして、漁も、人間をとる漁も、全く手応えがない、ああ、主がここにいて下されば。ああ、主がご一緒にいて下さるならば、私たちは何だって、することが出来たのに。

弟子たちは、一人一人、このようなさびしさ、主の不在の寂しさを味わっていました。
そして朝が白々と明けてくるころ。

イエス様は、岸に立っておられました。
すでに、イエス様は、立っておられました。弟子たちが悲しいと思うその時、イエス様はすでに、弟子たちと共にいて下さいました。しかし、弟子たちはそれがイエス様とは分かりませんでした。
まだ薄暗い早朝、90メートルほど先の岸辺に立つ人。主は、私たちが気付いていなくても、いつも共にいて、見守り、助け出し、私たちを主のご栄光のために用いようと、待っていて下さるのです。

「子供たち、何にも魚がないようだね?」ギリシャ語の直訳ですが、子供たちとは、幼児たち、という意味をもつ言葉です。
小さな小さな子供たち、力なき子どもたち、何にも魚がないんだね。
あたたかい、主の眼差しを感じます。

主は、私たちが力なく、本当に子供で、自力で何をなしても、困難ばかりで、実りがよく報われず、クタクタになり、さびしい涙を流しているのを、すでにご存じです。主よ!と、祈ることが出来ないほど疲れていることも、主はすでに、ご存知です。ご存じで、主は、寄り添っていて下さるのです。

主はそんな子供たちに、祝福の扉をあけるための、御言葉を語りかけて下さいます。
「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」

えっ?舟の右も左も、前であろうと、後ろであろうと、一晩中試みたのです。でも全然取れなかったのです。
おかしなことを言う人だなあ。何か懐かしさを覚えながらも、弟子たちは、言われるがままに、舟の右側に、網をおろします。

「そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることが出来なかった。」

これが主の御業です。
えっ?そんなこと?そんなことに従ってどうなるのですか?心では、頭では、分からなくても、主のお言葉の通りにやってみる時に、お言葉の通りに、生きて見る時に、直ちに、私たちの網は、神様の恵みに満たされるのです。

ヨハネはペテロに「主です、あの人は」と言いました。
ペテロははっとして、裸の身に上着をまとい、ドボーンと飛び込んで、一直線に、主にお会いするために、泳いで行きました。

他の弟子たちも、上げきれないほどの魚を上げると、急いで岸に戻りました。

陸では、主が起こして下さった炭火が赤々と燃えていました。その上には、魚がのせてあり、パンもありました。

「今とった魚を何匹か持って来なさい」 ペテロが網を陸に引き揚げると、153匹もの大きな魚でいっぱいでした。
主が共にましませば、生活の必要も、そして、人間をとる漁、証しし、魂の救いのために励むもう一つの漁も、豊かに豊かに祝されます。
主が導いた魂よりも、はるかに多くの魂を、導くことになる弟子たちでした。

主の魚と、弟子たちの魚を囲んで、朝の食事が始まりました。
弟子たち皆が、イエス様のよみがえりと臨在を、知っていました。目の前にイエス様が確かにいて下さることを、皆が知っていました。
イエス様が祝福して、パンと魚を手渡しして下さいました。

私たちは、イエス様の手から、日々の糧を頂きます。イエス様の祝福と共に、私たちの命を養う糧を頂きます。人間とは、そういう存在です。あふれる自然の恵みは、皆神様が、私たちのために、用意して下さるものです。
私たちは、イエス様の手から渡される糧の恵みと、イエス様の御手から流れる血潮による赦しの恵みとによって、生かされるのです。

食事が終わると、イエス様はシモン・ペテロにお聞きになりました。
「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」

これは、ペテロ自身が言ったことの繰り返しです。誰が主を見捨てたとしても、自分は命をかけて、主に従うと言って、しかし守れなかった彼自身の言葉です。

主は、そういったのに、守らなかったではないかと、ペテロをお責めになることもできたでしょう。しかし、主は、もう一度、チャンスを与えて下さるのです。
「はい、愛しています。」ペテロが答えると、「私の小羊を飼いなさい」とイエス様は、おっしゃいました。

二度目にイエス様は、おっしゃいました。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか」
愛していると言っても、またついてくることが出来ない時があるかもしれない。しかしそれでもなお私はあなたを赦そう。そしてまた語りかけよう、あなたは私を愛するかと。
イエス様は、何度も赦し、何度も主を否むペテロをも、そしてこの私をも、赦していて下さいます。
そして、あなたは私を愛するのだよねと、もう一度、尋ねて下さるのです。

そして、愛しますと答える私たちに、主は召命を与えて下さる、召しを与えて下さるのです。
「私の羊を飼いなさい」 教会の群れの魂の世話をしなさい。敵から守りなさい、命をかけて、守りなさい。

三度目にも、ペテロに語りかける、イエス様でした。

零点の答案を書いてしまう私たちに、何度でも再テストをして下さるように。決して主は、私たちに不合格とはおっしゃいません。3度でも、7を70倍するまでも、主は、私たちの背きの罪に従って私たちを責めることをせずに、主は十字架の赦しをもって、私たちが罪を犯し、私たちが主を否んだ回数まで、もう一度、私たちに、やり直しの機会を与えて下さるのです。

三度否んだペテロに、三度「主を愛します」と語らせて下さった主の愛。イエス様は、否んだペテロの心の傷を、癒して下さったのです。
「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

もう迷わない。もう疑わない。すべてを満たし、すべてを赦して下さるこの主に、従います、ついていきます。ペテロは、主の憐れみの中、作りかえられて行きました。

「私に従いなさい」このイエス様の言葉は、私についてきなさい、私と共にいなさい、という意味です。
迫害されるときにも、先を歩いて下さったイエス様が、ペテロと、私たちと共にいて下さいます。
私たちは、私たちを愛して下さる方と共に、歩ませていただくのです。ここに、私たちの喜びがあるのです。
神の栄光が、私たちを通してあらわされますようにと、祈りたいと思います。

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