説教原稿
2010年4月4日
「私は復活であり、命である」
ヨハネによる福音書11:17-45
イースター、おめでとうございます。
私たちの主イエス様は、墓の中から、よみがえられました。
今日は、ラザロのよみがえりの記事が開かれました。
この中で、イエス様は、「私は復活であり、命である。私を信じるものは、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」とおっしゃいました。
イエス様は、こうおっしゃったとおりに、ご自分自身も、墓から復活なさいました。そして、「私は復活であり、命である」とおっしゃったことを、証明して下さいました。
今日開かれました、ラザロのよみがえりの記事は、後に起こる、イエス様の復活のモデルタイプといいますか、ひな形として、起こった、奇跡の記事です。
このラザロのよみがえりは、イエス様の復活のひな形ですが、同時に、イエス様の復活を信じる私たちのよみがえりのひな形でもあるのです。
ラザロは葬られて4日。仮死状態であったならば、もうすでに息を吹き返していたでしょう。しかし、ラザロは、ただ単に、眠っていたのではなく、確かに、死んでしまったのです。
イエス様も、墓に入れられて、3日。老練のローマの兵士たちが確かに死亡を確認して、3日。もう希望が全くなくなってしまっていたはずの、その所から、復活なさいました。
私たちに与えられたイースターのメッセージは、不可能が可能にされるということです。
イエス様がラザロの病気を聞きつけられてから、あえて二日間同じところに滞在されたと、今日お読みいただきました個所の前のところには、書いてあります。
マルタは、時すでに遅しと思いながらも、遅れて彼らのところにやって来られたイエス様を出迎えました。
「主よ、もしここにいて下さいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえて下さると、私は今でも承知しています。」
マリアの信仰深さと、しばしば比較されるマルタですが、彼女の信仰も、実に立派です。イエス様がいて下されば、危篤状態だったラザロは癒されたと信じるマルタ、そして、死んだ今となってもなお、今でも、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえて下さると、信じるマルタでした。 今となっても、あなたが神に願って下さるのなら、神はわたしの兄弟ラザロを導いて下さることが出来るという、マルタの信仰があらわされています。
この信仰の言葉もまた、一つのきっかけとなって、イエス様の、奇跡の記事が進んでいきます。
イエス様は、「あなたの兄弟は復活する」と語って下さいました。
しかしマルタは、この復活という言葉を、今、すぐに目に見える形でのラザロの復活ではなくて、やがて後、終わりの日にやってくる、信じるものの復活のことを指していると思いました。
「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえて下さると、私は今でも承知しています」、今からでも遅くはありません、しかし今でも、私は承知しています。あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえて下さると、マルタは、天を動かすような祈りの言葉を語りましたが、マルタは、終わりの日に、兄弟ラザロと共に復活して、再び相まみえるという希望を語っていたということが分かります。
しかし、イエス様は、マルタが願う事以上の恵みを、与えて下さるのです。
イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じるものは、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
わたし、私こそは、よみがえりであり、命である。
イエス様こそが、ラザロの復活の出来事の、本体です。イエス様がよみがえり、復活そのもの、命そのものですから、ラザロも、私たちも、復活に、命に、あずかることが出来ます。
「私を信じるものは、死んでも生きる。」
今日、私は、皆様に、イースターの日に、イースターの信仰のお勧めをさせて頂きたいと思っております。
イースターの信仰とは、イエス様を、復活、命の本体であると、信じる信仰のことです。死んでも生きるんだという信仰です。
私たちの内に、イエス様が生きていて下さるのなら、私たちが、イエス様を信じて、イエス様に、心の中に共に生きて下さいと信じて祈るならば、私たちは死んでも生きるのだということを、今日イースターの日に、心に刻みたいと思います。
それのみならず、「生きていて私を信じるものはだれも、決して死ぬことがない。このことを信じるか」とイエス様は語っておられます。
生きていて信じる者はだれも決して永遠に死なない、こうイエス様は、約束して下さいました。
信じるものは死んでも生きる、いや、信じるものは、永遠に、決して死ぬことがない。これが、イエス様の驚くべき、イースターの恵みです。
復活と命の本体であるイエス様を信じる私たちは、死んでも生きる、もっと言えば、決して永遠に、死ぬことがない、死を体験することがないのです。
復活と、命の源である、イエス様の御名を、心よりあがめます。
イエス様は、私たちの十字架にかかられ、罪を贖って下さいました。イエス様は、死を体験なさいました。しかし復活と命の主は、三日目に、よみがえられました。
今日がその記念の朝です。
私たちはどうでしょう。イエス様は私たちの罪の身代わりとなられましたので、死を味わわなければなりませんでしたが、私たちはどうでしょう。イエス様がもう罪を担って下さいましたので、私たちは、よみに下る必要がないのです。私たちは、決して死ぬことなく、永遠に死を体験することがなくなったのです。
このことを信じましょう。この恵みのために、復活と命の主が、十字架の贖いをして下さったのです。
私たちはもはや、死と一切の関わりをもたない存在にされているのです。私たちは、もうすでに、復活を味わわせていただいているのです。私たちはすでに、永遠の命を頂いているのです。
復活とているものが、再び死ぬことはありません。永遠の命をもっているものが、死に定められることはありません。
イースターの恵みに、感謝いたします。
私たちの肉体の死は、永遠の命への、新たな出発点です。
私たちのこの肉体の破れる時、それは、終わりではなくて、卵の殻を破って新しい命に生まれるひな鳥のようなものです。私たちは、天上の生活へと、パラダイスでの生活へと、移し入れられるのです。
このことを信じるか、そのイエス様の問いに、マルタは言いました。
「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じております。」
イエス様こそが神の子、イエス様こそが救い主メシアです。
復活の主、命の主がこの地上に来て下さったのです。私たちが死んでも生きるように、いや、私たちが死を経験することがないようにと、イエス様は、この地上に来て下さったのです。この方を信じる人は、幸いです。
しかし、この地上には、死の力がはびこっていました。
復活と命の主がここにおられるのに、人々は、罪と死の力とによって支配され、ピクリとも身動きが出来ないようになっていました。
マルタの姉妹マリアも、イエス様を見るなり足元にひれ伏し、もしここにいて下されば、私の兄弟は死ななかったでしょうにと、泣き崩れ、そしてマリアと一緒に来たユダヤ人たちも、共に泣き崩れました。
死の力の支配するこの世界。一度死んでしまったら、二度と、取り戻すことのできない彼方に愛するものを奪ってしまう死の暴力。そして、傷つき、泣き、なすすべのない無力な人間たち。
復活と命の主イエス様は、この地上の現実に触れ、深く心動かされ、主の心は沸き返り、共に涙されました。イエス様は、私たちの心の痛みに同情して下さいます。
主は深く深く、私たちに対する死の力と、戦って下さり、私たちを、死の力から、救い出して下さるのです。
しかし、人は、死の力を信じても、主の力をなかなか信じようとはしませんでした。
「目の見えない人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」、もう治せないほどの重病だと分かっていたから、死ぬまでやって来なかったのだろうという声が聞こえて来ました。
イエス様は、人の不信仰を嘆かれました。神の力を信ぜずして、死の力に呑み込まれるがままの、人間のあわれな姿に、再び、心の深い動揺をお感じになりました。
「その石を取りのけなさい」
人々の耳を疑う言葉でした。
しーんと、重苦しい空気が漂いました。誰も、直ちに石に手をつけようとはしませんでした。
イエス様の時もまた、そうでした。重い重い、墓石は、取りのけられました。
それなのに人は、死の力を打ち破る力に対して、全くの無知でした。
マルタは、耐えきれずに言いました。自分の兄弟の、腐ったからだがさらされることが、耐えられなかったのです。
「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます。」
腐っているでしょうから、ご無体はおやめ下さい。このまま悲しみの内に葬儀を終えさせて下さいとの悲痛な叫びでした。
しかしイエス様は、この世の常識や私たちの理解を超えた方です。復活と、命の主です。
私たちが仮に信じきることが出来なかったとしても、主は、父なる神様のご栄光のため、ご自分の御業をなさるお方です。
「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。」
そんな信仰のないことを言うのか、それでは私は御業を行うまい。こうはおっしゃらず、信じなさい、そうすれば神の栄光が見られるのだと、イエス様は忍耐強く、語りかけて下さいます。
私たちがイースターの恵みにあずかるために大切なのは、あくまでこのイエス様を信じきることです。復活と命の主を信じきることです。
「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。」
この決然とした、イエス様の言葉に一同ははっと我に帰り、イエス様の言われるままに、ラザロの墓の石を動かしました。
カナの婚礼の、水がぶどう酒に変えられる奇跡の時も、そうでした。水と知っていても、イエス様のお言葉どおりに給仕役のところにもっていく。信じて、イエス様のお言葉に従うのが、イエス様の奇跡を引き出す信仰です。
発作を起こした息子を「もしおできになるのなら」と連れてきた父親の時もそうでした。
信じて、「私の不信仰をお赦し下さい」とくずおれるものを、主は助けて下さいます。
石が転がされました。イエス様のお言葉の通りに。
そしてイエス様は、父なる神様に、祈りをおささげになりました。
「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
イエス様こそ、父なる神様の御許から遣わされた神のひとり子、神ご自身です。
そして既に聞かれたと信じるこの祈りこそ、私たち、主の御心に生きるものがささげることのできる、何でも願うことを祈りなさい、そうすればかなえられるという。あの祈りです。
「ラザロよ、出て来なさい」
大声で、イエス様が、おっしゃいました。
天地を創造された時、主は御言葉をもって、この世界をつくられました。あの創造の時の神の声と同じく、威厳ある声が語られました。
「ラザロよ、出て来なさい。」
神の声に、死人もまた、聞き従います。
神の言葉とは、それほどに力あるものです。
光あれ、そうすると、光があった、この言葉が、ラザロに語りかけられました。
すると、死んでいた人が、手と足を布でくるまれたまま、出てきた。顔は覆いで包まれていた。
死に装束は、もはや過去のものとなりました。
生きている人に、死体をくるむ包帯は必要なくなりました。
「ほどいてやって、行かせなさい」
マリヤのところに来て、マリヤと共に泣いていたあの人たちは、イエス様のなさったことを目撃しました。
復活のいのちの主の御業を、目撃しました。そして彼らは、信じる者となりました。
今日も二千年前と変わらず、死の力、地上の力、現象の力、常識の力、そして悲観論の力に閉ざされて、復活の力を体験したことのない方々が、地上にはあふれています。
しかし私たちは、この復活と命の主を、二千年前に出会った人たちと共に、神の言葉、聖書から今日新たに体験いたしました。
イエス様も確かに、墓石が転がされ、この朝、復活なさいました。
私たちもまた、イエス様の復活の証人です。
そして私たちもまた、復活の体験者です。
私たちもまた、死の力の渦巻くこの世界にあって、絶望と信仰が持てなくなってしまった神なきこの世界にあって、この復活のいのちの主を証ししていきたいと、願うものでございます。
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