説教原稿

2010年3月28日
「私の愛にとどまりなさい」
ヨハネによる福音書15:1-17

昨日の教会のコンサートには、たくさんの方々がご参加くださいまして、本当に、ありがとうございました。
心の中に、琴の線と書いて「琴線」があるとよく聞かれますが、まさに成宮さんの奏でる音楽が、そしてあかしが、そしてもっといえば生き方そのものが、クリスチャンとして、人々の琴線に触れ、神様へ目を向けさせるものなんだなあと、昨日は感じることが出来ました。
今日も特別に、報告の時間に、特別賛美を導いて下さいますので、どうぞお楽しみになさってください。

さて、皆さんは、これから死に向かおうとしている人の、最後の声をお聞きになったことが、おありでしょうか。
家族や友人に向けた、その人のお別れの言葉、感謝の言葉、それは平たく言えば、遺言となるべき言葉のことですね、こういった言葉を聞くと言う機会はそう度々あるものではありません。
私は、自分のことに置き換えれば、そういう言葉を、確かに家族のために、友人のために、持ち合わせているだろうかと、思います。
召された私の母方の祖父は、良く、私に、車の運転に気をつけなさい、いくら若くても、元気でも、事故をすればいっぺんにそれらを失ってしまうからね、これはいつも言うけれど、私の遺言代わりだよと、言っていました。

愛する人に残す言葉というものは、言わずにはおられない、その、残された人を思う、そっていく人の、いのちのことば、それが感謝であろうと、苦言であろうと、かけがいのない、残る人へ贈るいのちの言葉だと思います。

今日、私たちは、イエス様の受難週を迎えたのですが、来週の喜ばしいイースターを迎える前に、主は十字架の苦しみを一身に背負って下さったということを、私たちは、この心に、ひしひしと受け止めねばなりません。
主は私たちを愛する愛のため、一人呪いの十字架にかかって下さった。それはひとり子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためです。
わたくしたちが、この世の命を終えてもなお、私たちを愛して下さった方の贖いによって、永遠に生き続けることが出来るように、死んでも生きて、皆が神の前に、再会することが出来るように、イエス様は、私たちの死を打ち破るために、一人十字架にかかって下さいました。

そして今日のヨハネ15章は、ぶどうの木の譬えで大変有名な個所ですが、これはイエス様の遺言であり、弟子たちへの、告別説教です。

ここに、本当に弟子たちを思いやり、感謝と、気遣いと、どうしても語っておきたい、弟子たちをおもんぱかる、最後の言葉、いのちの言葉があるのです。

わたし、私こそが本当の、真実な、ぶどうの木だよと、イエス様は、おっしゃいます。
ぶどうは、イスラエルでは欠くことのできない収穫物です。何よりワインは、水の少ない、水の悪い場所では、貴重な飲み物でした。そして心を楽しくさせ、健康を増進させる飲み物でした。
それ以上に、ぶどうは、イスラエル自身の象徴のようなものでした。イザヤやエレミヤは、イスラエルを神のぶどう畑として描写しました。「主のぶどう畑はイスラエルの家である」「私はあなたを優れたぶどうの木として植えた」とあります。しかし悲しいかな、聖書は、甘い実を実らせるぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは悪いぶどうに代わり果てたのかという、神様の嘆きがあります。呼んでも呼んでも、私を見向きもせず、自分の神々に向かっていく、これは出エジプトのすぐ後の金の子牛にも思い出されますが、ずっと神様は歴史を通して、私たち人類に呼び掛けてこられました。

神様は、私たちを、純粋な、甘い実を実らせる、神様の喜ばれるぶどうにしたいと、日夜願い続けていらっしゃいます。私たちの心の中の苦々しさや、灰汁や、有害な毒のようなものを取り除いて、甘いぶどうにしたいと、神様は、願っておられるのです。

イスラエルの歴史の中、貨幣の紋章にぶどうの木がありました。私たちは、神様の喜ばれるぶどうの木、その民族との自負がありました。
エルサレムの神殿の聖所、契約の箱が安置されていたところには、大きな黄金のぶどうの木があり、多くの地位ある人は、そこに黄金の房を寄付し、身を寄付することを栄誉としたとのことです。

このように、イスラエルは、神のぶどうの木でした。そうであったはずです。しかし、神殿は、その豪華さとは裏腹に、神の御心から離れ、殺伐としたところになっていました。

お金持ちが献金すると、ジャラジャラと大きな音が出て、周囲の注意をひけるように、ラッパ型の献金入れがあったようです。
しかしイエス様は、レプトン銅貨2枚を入れた女性に目をお留になりました。
宮でささげるべきいけにえを、高く売り、そして神殿でささげるお金をローマの貨幣から両替する人たちが、おそらく神殿の指導者たちと共に、あってはならない利益をむさぼっていました。
ですから、イエス様が、宮きよめをなさいました。

わたくしたちの神殿は、私たちの宗教は、もっと言えば、私たちのキリスト教は、この教会は、私の信仰は、大丈夫でしょうか。

イエス様は、私、私こそがまことのぶどうの木だ、本当のぶどうの木だと、おっしゃいます。
イエス様の木に、しっかりと接ぎ木されているぶどうの枝は、生きています。

父なる神様は、農夫であると、イエス様は、おっしゃいます。
つながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれると、イエス様は、おっしゃいます。
驚くべきことです。

実を実らせなければ取り除く。つながっていても、身を実らせなければ、取り除く。これはどういうことでしょうか。

木の剪定にお詳しい方は、この教会に、たくさんいらっしゃることと思います。剪定とは、それ自体、大切な働きです。養分を集中させ、良い実を実らせるための仕事です。
そして、興味深いのは、この剪定するという言葉が、同時に「きれいにする」「きよくする」という意味があるということです。
枝ぶりの悪い、栄養の流れが悪い、木は、選定し、きれいにして、こざっぱりとして、良い枝に栄養を集中させます。

3節にこうあります。「わたしの話した言葉によって、あなたがたはすでにきよくなっている。」
ここでハッと分かるのです。
あなたがたはすでにきよい。 
ここでさっきの「剪定してきよめる」という動作を思い出します。わたくしたちは、イエス様のお話し下さった御言葉によって、きよくされている。形式的につながっていて、心の離れている、あの当時のイスラエルのようではないということが分かるのです。
すでにつながっているもの、神の選民ゆえの厳しさと責任というものを感じます。あの、壮麗豪華な、神のぶどうの木を標榜しているのならば、あなたがたは、その実をあらわしなさいという、神様の愛の語りかけでしょう。
厳しい言葉かもしれません。しかしここに、イエス様の、愛をくみ取るべきです。すべてのイスラエルに対する、神様からの、あなたはつながっているのだから、実を実らせることが出来るんじゃないのか、という、愛の言葉が、感じられます。

このぶどうの木の譬えは、イスラエルに対するたとえであり、今日でいえば、すでにつながっている、クリスチャンに向けたものです。他の宗教に入っている人を裁くというメッセージではありません。すでに信じている私たちへの、イエス様からの遺言なのです。

イエス様のお言葉は、私たちの心の中に働き、私たちの心の中の、好ましくないもの、私たちの成長を阻害し、実りをもたらさない原因を剪定し、きよめる働きをします。私たちを純粋、無垢な存在にするのが、神様の御言葉です。その御言葉を私たちは愛し、日ごとに、礼拝ごとに、学びます。そのことによって、私たちは、きよい、身を実らせるぶどうの枝となります。

私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。ぶどうの枝は、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことが出来ない。そのようにわたし、イエス様につながっていなければ、実を結ぶことが出来ないと、イエス様はお語りになりました。

実を結ばせる人生を歩みたいと思います。生きがいのある、幸福な、祝福された人生を歩みたいと思います。神様から、実りある人生だと言って頂きたいと、思います。

そのために知るべきことは、私たちが、まことのぶどうの木である、イエス様にしっかりとつながっているということです。

5節、「わたし、わたしこそが」という原語ギリシャ語のニュアンスがあります。私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何も出来ないからである。

これから死んで、弟子たちのもとを離れると言うのに、その遺言なのに、私から離れずに留まっていなさい、私を離れては何も出来ないとおっしゃるのは、いささかおかしな風に聞こえます。
しかし、それだからこそ、別れ際に、福音の真理を語る、イエス様の姿が、ここにはあります。

私につながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。

幹から離れ、ついているようでも養分が行かなくなっている枝は、自然といのちを失う木の枝です。乾燥し、折れやすくなり、風の勢いで折れて、枯れてしまいます。枯れ落ちた枝は、薪として燃やされます。

イエス様につながっているということ、これが私たちのいのちの原理です。いわゆる宗教につながっていなくてもいいのです。キリスト教につながるのでも、教会組織につながるのでもありません。キリストご自身につながるのです。

7節、あなたがたがわたしにつながっており、私の言葉があなたがたのうちにいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

キリストにつながっているということは、キリストの言葉が私たちのうちにいつもあるということなんだと、ここに語られています。
亡くなった創業者の言葉を大事に、頑固に変えることなく受け継いでいくお店のように、いやイエス様は、私たちのうちに生きて、聖霊なる神はキリストの御霊として生きて、私たちのうちに共にいて下さるのです。
イエス様の言葉をいつも私たちの心に生きづかせる。
主の御言葉を愛し、昼も夜もこれを口ずさむ。詩篇1篇のような生き方です。御言葉を土台した生活、御言葉を、生活の唯一の規範とした生き方です。それがまず第一に、主にとどまる生活です。
このように、御言葉に生きる人が、神の御心に生きる人であり、御心に従って生きる人には、必要がすべて与えられます。主の御心ならば、私たちは、どんなものでも、与えられるのです。みこころを求めて、大胆に祈り求めるべきことが教えられます。

祈りで大きな教会堂が与えられ、祈りで、考えもしなかった、宣教のアイディアが生まれ、祈りで、私たちの家族が、地域のたましいが、救われて行きます。
私の恩師山中先生がよくおっしゃるのですが、1億、2億ははした金とのことです。何というお金持なのかと思えば、神様の私たちにして下さったことを思えば、そして私たちに与えていて下さる永遠の命やそれに付け加えられるすべての祝福を思えば、1億2億は、はした金、とのことです。本当だと思います。教会に喜びがあふれ、私たちの家庭に喜びがあふれ、家族が救われ、地域が国が、世界がますます愛に変えられていくならば、その富は、計り知れないものです。

8節、あなたがたが豊かに実を結び、私の弟子となるなら、それによって、私の父は栄光をお受けになる。

御言葉にとどまり、豊かに実を結ぶなら、イエス様の弟子だと、語られています。

私たちは、封筒と切手のように、ぴったりとイエス様につながって、御言葉をいつも私たちのうちにめぐらせ、主の弟子でありつづけようではありませんか。実を結ぶ弟子のため、父なる神様は、ご栄光をお受けになります。

9節、父がわたしを愛されたように、私もあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。

イエス様の愛にとどまるとは、ということは、次の節に、書いてあります。

私が父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、私の掟を守るならば、私の愛にとどまっていることになる。

段々と具体的になってきました。
イエス様につながっているということは、イエス様の御言葉にとどまっているということは、私たちを愛し、与えて下さったイエス様の掟を守るということなのです。

11節、これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

イエス様は、父なる神に愛され、その掟を守られました。そして、喜びを得られたのです。ですから、イエス様は、身をもって、私たちに、その祝福の道をお示しになられるのです。

この道こそ、私たちの喜びが完全に満たされる、満タンに満たされる、道なのです。

それは、12節、「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」これが私の掟であるとイエス様はおっしゃいます。

私があなたを愛した。まず私があなたを愛した。イエス様はおっしゃいます。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」

イエス様は、私たちのために、被造物の人間のために、罪人のために、神ご自身が、私たちを友と呼び、十字架について、自分の命を差し出して下さったのです。
これよりも大きな愛はない。最大の愛をもって、これ以上ない愛もって、これ以上ない代価をもって、神様は、私たちを愛して下さったのです。

14節、私の命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

父なる神の奥義は、イエス・キリストです。そしてイエス・キリストの奥義は、「父から愛されたように、自分も愛する」ということです。

私たちも、キリストが守った掟を自分のものとするならば、キリストの友となるのです。同労者と、なるのです。

16節、あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

私たちは、自分で実を実らせるのではありません。自分で主の弟子とさせて頂いたのでもありません。
みな神様から出たことです。
神様が、私たちを選んで下さったのです。

私たちが、選んで、勉強して、キリスト教を、この神様を選んだのではありません。神様が、私たちを選んで、ここに導いて下さったのです。

私たちが神様の手を握って、ご一緒に歩いているのではありません。神様が、まずはじめに、私たちを愛し、私たちの手を握って、歩いて下さるのです。
私たちの力が弱くて、神様の手を離しそうになったとしても、神様は私たちの手を離さず、ずっと握っていて下さいます。

私たちが出かけて行って、実を結ぶことが出来るようにと、実りある最上の人生を歩むことが出来るようにと、イエス様は、私たちを招いて下さったのです。
それは、神に愛され、隣人を愛する歩みです。
互いに愛し合うということ、これがイエス様の命令です。
疲れ果てて、倒れている、羊飼いのない羊が、何と多くいることでしょう。羊飼いなくして、どうやって生きる意味と喜びを知ることが出来るでしょう。
収穫の主よ、私を遣わして下さいと、祈りましょう。

私の枝が、実りを生みだし、愛のわざを生みだし、そうして、主のもとらたましいが導かれますように。これこそが、イエス様の、私たちの任命です。

主が選び、主が愛し、主が強め、私たちを手ずからに任命して下さったのです。

主のご用にと、召していて下さるのです。そのために必要なものはすべて用意していて下さいます。
私たちは情熱だけ持っていれば、それでいいのです。

愛する主のまみえるその時まで、わたくしたちは、地上の馳せ場を勇敢に走り抜こうではありませんか。

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