説教原稿

2010年3月21日
「異邦人を受け入れる」
ローマの信徒への手紙15:7-13

今日私たちは、異邦人を愛して下さる神様について、知りたいと思います。
パウロは、私たちは強い者ですと語り、強くないものの弱さを担うべきだと、語りました。
キリストも、弱いものを強くするために、十字架にかかって下さいました。ご自分の満足を求めず、隣人を喜ばせることを考え、忍耐と慰めの源である神様のお取り扱いに期待し、主の御心に歩みたいと、先週、御言葉から教えを頂きました。

そして今日も、引き続き、異邦人を受け入れなさいと言うパウロのメッセージが続きますが、私たちは、「異邦人」というものを、どのように捉えたら、いいでしょうか。
パウロは、ユダヤ人クリスチャンが、ユダヤ人でないクリスチャンを受け入れるようにと諭していますし、また、ユダヤ人のクリスチャンの中においても、信仰の強いクリスチャンが、あれを食べてはいけない、これを食べてはいけないと、かつてのユダヤ教的な考え方から、キリスト教的な考え方にパッと移れない人たちをも受け入れなさいと語っているように思われます。
私たちは、日本の中にいます。ユダヤ教とも、ユダヤ人クリスチャンとも、接触が極めて薄い環境の中にいます。
このような中で、私たちは、どのような観点で、今日、この聖書の個所を、私に直接語られる聖書として受け止めることが出来るのでしょうか。

7節には、こう書いてあります。
「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」

キリストが私たちを、引き受けて下さった。この事を、今朝、感謝をもって心に刻みたいと思います。キリストが、私たちを歓迎し、認め、引き受けて下さり、受け入れて下さったのです。

京都の方に、たくさん「料亭」と呼ばれるところがありますが、よく「一見さんお断り」という言葉を聞きます。どんなに入りたいと思っても、どんなにお金持ちでも、基本的に、自分を紹介してくれる、その店のお得意さんがいないと、その人に、紹介してもらえないと、店には入れないのだそうです。

キリストは、私たちを引き受けて下さいました。私たちを拾い上げて、私たちを、天国に入る者と、して下さいました。
ユダヤ教であろうと、ギリシャ、ローマの宗教であろうと、イエス様によって赦されたものでなければ、どんなにお金持ちであろうと、どんなに立派な行いをおさめた人であっても、天国に入ることはできません。
ですから、イエス様に手を引いてもらうまでは、みんながみんな、異邦人、門外漢であったというわけです。ただ一点、イエス様によって受け入れられ、手を引いていただくということが、大切なことなのです。

「地獄に仏」という言葉がありますが、「受け入れて頂ける」ということは、何という幸せではないでしょうか。
一生懸命に勉強して、受験して、学校に「受け入れられる」。就職試験を受けて、資格試験を受けて、合格して、受け入れられる。有名なドクター、名医に治療を引き受けてもらえる。
これらの中で、私たちは、いちばんの栄誉を頂いています。
「キリストに受け入れられている」のです。
神の国に、受け入れられている。試験もなしに、会員権のために莫大なお金を払ったわけでもなく、修業したわけでもなく、良き行いを積み上げたわけでもありません。そうではないのです。少なくとも、私たちが、スタート・ラインに立ったのは、そういう行いや努力によるものではありません。

私たちは、到底自分の力で得ることのできない、計り知れない、大きな富、宝である特権を頂きました。それは、キリストによって受け入れられている、ということです。

神様は、私たちに、「合格」の印を押して下さいました。しかしそのために、神様は、御子キリストを、十字架にお付けになりました。私たちを合格とするために、神様は、ご自分の御子を犠牲になさったのです。
私たちすべてを合格とするために、神様は、代価を支払って下さったのです。この事は、忘れてはならないことです。イエス様が、鞭打たれ、さらしものとされ、十字架に苦しみ、そして死なれたことは、私たちを合格とするために、必要なことでした。私たちを受け入れるために、必要なことだったのです。
必要のないことならば、神様はわざわざそのような方法をお取りにならなかったでしょう。神のひとり子が、人となり、十字架につくこと。この事が、意味のないことであったなら、神様は、わざわざそんなことをなさったでしょうか。

私たちを受け入れるために、イエス様は、十字架にかかって下さいました。いわば、私たちのために、イエス様は、苦しまれたのです。
隣に住んでいる気の優しい、大変あたたかいおじさんが、私たち家族のために、壊れた屋根のアンテナを修理するために、一肌脱いで屋根によじ登って、直してくれたら、何と、私たちは、そのおじさんに、感謝することでしょうか。ましてや、そのせいで、おじさんが、屋根が落ちて、骨を折って入院したというのなら、どうして私たちは、すみませんでしたと言って、病院にお見舞いをしに行かないことがあるでしょうか。

それにもはるかにまさって、私たちの神様が、この天地すべてを造った神様が、私たちのために、御子を十字架にかけて屠(ほふ)り、私たちの命を救って下さったのなら、どうして人類は、それに対して、感謝もせずにいられるでしょうか。

それほどに、人類は、造り主から心が離れてしまったのです。造り主、父なる方、お父さんを忘れ果ててしまったのです。

今日、聖書は、神様が、あなたを受け入れて下さったことを、語っています。
あなたを受け入れて天の国に導くことが、神様のご栄光を表すのです。
神様は、愛して、救って、私たちを回復されることによって、ご自分の栄光を表されます。
それが、神様のご栄光の表し方です。
神様は、私たちを、代価を払って受け入れることによって、ご自身の栄光を表されるのです。

よくキンキラキンに身を固めて、自分の栄光を表す人がいます。虚勢を張って、栄光を表す人がいます。自分の銅像を建てて、自分の栄光を表す人がいます。自分の言うことに服従させて、自分の栄光を表す人がいます。
しかし神様は、キリストの代価を払って、与えて、ご自分が損をしてでも、人類を救うことによって、人を赦し受け入れることによって、尻拭いをすることによって、ご自分の栄光を現わされます。

「あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」と、神様は、語られます。
私がお手本を示したよと、神様は、おっしゃいます。
時に痛みがあるでしょう。損することもあるでしょう。与えることになるでしょう。貸しを作ることばかりで全然報われないことかもしれません。しかし、「相手を受け入れなさい」と神様は、おっしゃいます。

8節、「私は言う。」今までにない、強い調子で語り始めるパウロの1節です。
私は言う。キリストは神の真実を現わすために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。
私は言う。キリストは、しもべになられた。神の真実のために。ドンドンドンと、私たちの心に、神様の言葉が飛び込んできます。
キリストは、しもべになられた。私たちを受け入れるため、踏み台となり、尻拭いをして、しもべになって下さいました。 それは神様の真実のため、救いの約束の成就のためでした。
神様は真実なお方です。必ず私たちを助け、救って下さいます。
私たちは、神様の栄光と、神様の真実によって、神様は、私たちを受け入れ、しもべとなって、私たちを引き上げて下さるお方であることを、信じることが出来るのです。

神様は、ご自分のご真実をあらわして下さいます。私たちは、信じ歩む時、神様のご真実と、誠実さとを、体験することが出来ます。
神様は、真実なお方です。 まことなるお方ですから、その真実さに従って、私たちを導いて下さいます。

そして9節にありますように、私たちは、「神をその憐れみのためにたたえるように」なるのです。

神様は、「憐れみ」のお方です。
損をして、傷ついて、それでも私たちを「受け入れ」、「神の真実」をあらわして下さる憐れみ深いお方です。
憐れみとは、思いやりと、深い同情です。
気にかけていて下さり、深く深く私たちの気持ちを知り、そして、ご自分のことのように心配し、心を痛め、いつも共にいて、私たちの助けになって下さるということです。

異邦人のためにも、神様は、この恵みを備えていて下さいました。
ユダヤ人でない者にも。
キリストと出会うまでは、ユダヤ人も、ギリシャ人も、ローマ人も、ありません。
皆が神様の異邦人でした。

神様から遠く離れていた異邦人に、恵みを施し、受け入れて下さったのです。

しかし、やがて、異邦人の中に、讃美が広がりました。

「異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう」
「異邦人よ、主の民と共に喜べ。」
「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ。」
私たちもまた、遠くにいたのに、主のそば近くに引き寄せられた者です。どうして、日本の方々が、いくら大多数といっても、私たちと同じようにクリスチャンにならないということが出来るでしょうか。

偉大なダビデ王のひいおばあさん、ダビデの父エッサイの父オベドのお母さんは、誰だったでしょうか。ルツです。あのモアブの女、異邦人の女、しかし、信仰厚く、義母ナオミを深く愛した、あのルツでした。

どんなに救いの系譜から遠くても、信仰があれば、ダビデの母になれるのです。

「あなたの神は、私の神。」

私たちの神様は、慈しみ深く、栄光に輝き、真実なお方です。

「あなたの神は、私の神。」
この信仰の告白が、この日本から、次々とこの告白が、起こりますように。

瀬尾寿代さんが嫁がれて、ご主人の祷さん、そしてご兄弟、そしてご両親とお会いになり、そのクリスチャンの家庭の中で、「あなたの神は、私の神」と告白されたように、私たちもまた、ナオミとして、ルツの前で、日本の同胞の前で、彼らを愛し、受け入れ、赦し、与え、仕え、キリストの道を歩みつつ、「あなたの神は、私の神。」との告白を伺うことが出来るようにと、祈りつつ、歩みたいのです。

13節、「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせて下さるように。」

神様は、希望の源です。 混沌から秩序を、暗やみに光を、無から有を作り出されるお方です。その口のお言葉によってこの世界をつくられたお方です。地は、この方に従います。私たちも、この方のお言葉に、聞き従います。
信じ、歩む時、私たちが、この方に、人生をかけて歩む時、私たちは、あらゆる喜びと平和とで私たちを満たし、聖霊の力によって、希望に満ちあふれさせて下さいます。

あらゆる喜びと平和とを体験させて下さい。私たちは今週もあなたを信じます。希望の源である神様、内に生きる聖霊の力強き導きの中、希望に満ちあふれさせて下さい。愛に満ちあふれさせて下さい。喜びと平和で満ちあふれさせて下さい。憐れみで満ちあふれさせて下さい。そう、あなたがそうあられるように。神様、私たちを、あなたのようにしていて下さい、そのために、聖霊様がいつも私たちの心を満たしていて下さいますからありがとうございます。聖霊の火を消さず、いつも信じ、いつも期待し、いつも希望に満ちあふれさせて下さい。今週もご一緒に、どうぞ歩んで下さいと、祈りつつ、ここから出発いたしましょう。皆様お一人お一人に、神様のお守りと祝福が限りなくありますように、お祈りいたします。

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