説教原稿

2010年3月7日
「キリストはその兄弟のため」
ローマの信徒への手紙14:13-23

 「主イエスを身にまとう」ということが言われています。救いは、自分の良い行いによってもたらされるのではなく、また、信仰生活も、自力で維持していくものではありません。
 救われてもなお、心の中に働く、罪の法則があります。善をなそうと思う自分に、いつも悪が付きまとっているという法則について、パウロは語り、「私はなんと惨めな人間なのでしょう」と語ったパウロでした。
 しかし、私たちは、このような救われている罪人であり、この地上を生きる間は、様々な葛藤を味わうのですが、しかし、それでもなお、私たちは、罪の力をも、悪魔の力をも、恐れる必要はありません。
 私たちは、キリストによって贖われ、主は、罪の代価を払って、私たちのいのちを、買い取って下さったからです。

 私たちは、「今や、キリスト・イエスに結ばれて」いて、「罪に定められることはありません。」私たちは、救われる前と今との間に、どれだけの人間性の向上があったのか、これでもクリスチャンかと、嘆かなくても、良いのです。これが、信仰による義、信仰による救いということです。

 先週、私たちは、異教の祭壇にささげられた肉を、食べてはならないのではないかと、恐れる人たちを批判してはならないという個所を読みました。
今日も、キリスト者として、こうあらねばならないということで、守らなければならない不文律というものが存在しているかもしれません。
神様にって救われ、神様が喜ばれるように、自分を変えていくということは、すばらしいことです。
しかし、その各々の信仰の確信が異なることによって、教会の中で、様々な考えがあり、それぞれ違う考えの人を裁き、批判し合うということになってはいけませんと、パウロは主張しました。

 あの人の背後にも、神様がいて下さるのだから、神様があのしもべの主人で、あの人にふさわしく、責任を持って導いていて下さるのだからと、考えるべきことをも、私たちは学びました。神様が責任を負っていて下さるのだから、仮に倒れているようなしもべであっても、そのしもべは、神様によって立ち上がると、パウロは語りました。

 私たちは、理想の教会を形成しようとするあまり、自力に頼りがちです。頑張ろうとします。良いことですが、そのような時、私たちのよって立つべき方、私たちを根底から支えていらっしゃる方のことを忘れてしまいがちです。

 弟子たちがガリラヤの湖で突然の大あらしに遭遇して、一生懸命に、水をかき出し、死に物狂いで働いていました。ふとイエス様に目をやると、イエス様は、舟の上席で、ぐうぐうと寝ておられます。弟子たちは主を見損なって、主を軽んじました。自分たちの一生懸命の働きを、神の働きの上に置いたのです。
「私たちが死んだって構わないのですか」という、恨み節を語ります。しかし、神様が立ちあがると、主は、万物をご自身の御言葉一つで、いともたやすく収められるお方です。お言葉で天地を創造なさったお方なのです。

 マルタもまた、神様に愚痴をこぼしました。マリアを働かせて下さい。あんなにぼっとしていて、イエス様、あなたは何にも、おかしいと思われないのですかと、またもや恨み節です。しかし、イエス様は、むしろ、マルタにも、手を止めて、ご自分のお話を聞きに来てほしかったのです。しかし、イエス様は、マルタのもてなしたいという気持ちをも、じっと尊重して、待っていて下さったのです。

 私たちは、こうして、週の初めの安息の時を、主に捧げ、主にお会いしたいと、導かれて、週の初め、主と出会うため、喜んで礼拝に導かれているわけですが、これが大切なことです。毎週毎週、私たちは、容易に自分が心の王座に座り、神様を心の中心から追い出し、自分がコントロールをしだすようになることを私たちはよくよく知っております。

 礼拝とは、私たちの身を低くして、神様を大きくし、神様をあがめるということです。その御業と恵みを思い出します。忘れやすい私たちは、主がなして下さった恵みを、皆さんご一緒に思い出し、賛美します。
主ご自身に牧して頂くのです。今、心静かに、神様の前に心を開き、神様のお導きを心に受け入れたい、イエス様に、心の王座を明け渡したいと、願いたいものです。イエス様に泊まるところを与えずに、飼い葉桶の上に寝かせている私たちです。どうぞ、私のうちに、ここに、この胸にお宿り下さいと、願いたいのです。
私たちの心の中、様々な思いの交錯する、狭い、ちっぽけなスペース、時に人を愛せず、時に怒り、時に許せない、私たちの心の中に住んで下さるとは、何というご忍耐かと、思います。家畜の汚い飼い葉桶の上に寝て頂くようなものです。
しかし、イエス様は、喜んで、私たちのうちに、住んで下さいます。そして、いつも、「あなたは赦されている。私はあなたを祝福する」と、語りかけて下さるのです。

 そんな一人一人のクリスチャン、キリストにある私たち一人一人ですから、「もうこれ以上は」「もはや」互いに裁くことはやめよう、むしろ決心しよう、つまづきや、妨げ、愛する隣人に罪を犯させるようなつまづきを与えまい、コセコセと裁き合い、滅ぼし合ったりせずに、愛し合おうではないかと、パウロは語ります。
裁かず、妨げを置かないように決心しよう。 実はこの「裁く」というギリシャ語の言葉と、妨げを置かないように「決めよう」という言葉は、同じ言葉です。私たちは、心の一新によって、いつもキリストにある生き方、キリストを身にまとう生き方に切り替えて生きるべきことを、聖書は語っています。

14節の、「それ自体で汚れたものは何一つない」という言葉も、衝撃的なものです。
私たちは、キリストと共に歩んでいるのならば、自由な者です。「それ自体で汚れたものは何一つない。」すべてはもともと神様がお作りになったものです。私たちに益をもたらすために、用意して下さったものばかりです。

私たちが、キリストと共に、隣人を愛し、愛に従って歩む時、私たちは、自由です。私たちは、自由を、自分のためだけにではなく、隣人を愛するために使います。隣人を自分自身のように愛する自由が、与えられています。ここに私たちの自由があります。
『アウグスティヌスは、キリスト者倫理の全体は、「神を愛せよ、そして汝の好むことをなせ」の言葉に要約されると、よく語ったそうです。

ユダヤ人の生活には、非常に多くの決まりごとがありました。非常に多くの不潔なものがあり、非常に多くのきよいものがありました。しかしそのユダヤ人がキリスト信仰に入ったとき、すべての些細な法則や、規定が、一気に廃棄されたように悟るのです。そこで危険なことは、キリスト教信仰を、自分の好きなことは何でもできる、そういう自由を身につけることなのだと理解することです。

しかし、キリスト者の自由は、キリスト者の慈愛と、両方相まって行かなければなりません。キリスト者の自由と兄弟愛、および相互の思いやりは、すべて共なるものであるという真理に堅く立たなければなりません。』 (ウィリアム・バークレー 『ローマ』)

キリスト教で大切とされるものは、15節にありますように、「愛に従って歩む」ということなのです。この教えを守るかぎりには、私たちをもはや、ユダヤ教的な律法に支配するものは、何もなくなります。

しかし、そのように信じるものが、自由だ自由だと言って、その確信のない人に対してつまづきを与えるのなら、それは兄弟の心を痛めることだから、してはいけないと、パウロは語ります。
キリストが命がけで、いのちを捨てて、死んで、その兄弟を守っておられるのに、あなたは、その兄弟を滅ぼしてはならないと、聖書は語っています。

私たちは、徹底的に、神と隣人に仕えるべきことが記されています。私たちの自由とは、キリストに仕え、隣人に仕えるところの自由です。私たちは、そのために、自分の自由を、いつでも廃棄できるように、心備えをしていなければなりません。

有名な話が思い出されます。面白く、またあたたかき実話です。
ご存知と思いますが、フィンガー・ボールのお話です。

現エリザベス女王、イギリスの王様ですね、ここに、欧米でない、文化の中にある国の王様が、公式訪問した時のことです。公式の会食の時、マナーが良く分からずに、あの、果物などを食べた時、手を洗うための、(私はそのようなものを使ったことき一度もありませんが)フィンガーボールの水を飲んでしまわれたのです。とんだ恥をかくところでした。このあと、他の会食に招かれた人たちが、それと知らずに、フィンガー・ボールを、本来使うようにして使ったとしたら、このお客である王様は、顔から火が出るほど恥ずかしい思いをしたことでしょう。
それを察知した他でもないエリザベス女王その人が、すかさずに、フィンガー・ボールに口を当て、その水をのまれたところ、イギリスの王族・貴族も一斉に、フィンガー・ボールを手にとって、その水をのまれたとのことです。

私たちは自由をもっています。しかしその自由を、慈愛と、隣人に仕えることにおいて、用いるべきです。この自由のゆえに、時に、私たちは、自分の自由を、隣人のために、使います。それが愛に従って歩むということです。そして、聖書は、私たちを自由にします。
神の国は、飲み食いではなく、「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」です。
何を飲んだから、何を食べたからという、外面的なことではなく、何が正しいとか間違っているということではなく、聖霊による義、平和と喜びです。

人は法のために生きているのではなく、法が人の幸せのために存在します。
私たちは、聖霊を頂いて、神様の御心に生きることが自然の歩みになるようにと、驚くべき恵みの中におかれているのです。
「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」Ⅱコリント3:6
「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」Ⅱコリント3:3

キリストを身につける生き方とは、聖霊によって生きる生き方です。そこには愛があり、そこには配慮があり、あたたかさがあります。自分の心のうちから生ける水の川が流れ出て、潤す生き方です。自力ではありません。神様が、常に聖霊によって愛を注いで下さるのです。
このキリストの愛を土台にして歩む時、私たちは、自然に神の義、神様が私たちに臨んでおられることを行うことができます。神様との平和と平安に生きることができます。喜びが沸き上がってきます。

心痛む兄弟のために労し、愛に歩むことを願う時、キリストが死んでくださったその兄弟のために労し、愛し仕える時、こうしたいと思う私たちはすでに、聖霊によって歩んでいます。

家族のために祈り、地域の方々のために祈り、教会がささげ、労していくとき、平安を祈る時、私たちは、聖霊と共に歩んでいます。
聖霊によって与えられる義と平和と喜び、この、愛に根差した生き方、聖霊に頼った生き方、隣人を自分のように愛しなさいという生き方、ここに神の国があります。
このようにしてキリストに仕える人は、隣人に仕えることによってキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。
神の喜ばれ受け入れられ、隣人からも承認され、真実とされ、尊敬され、価値あるものと、みなされます。

愛によって歩むこと、キリストの心を心として、聖霊様に委ねること、自分の価値判断を振り回すのではなくて、聖霊による、上から来る、神様のもとから来るところの、義と平和と喜びを求めること、こうして主に仕え、平和や互いの向上に役立つことを追い求めていくこと。

そのあなたの正しさが、人を裁いたり、切り捨てたりしてはいませんか。むしろ大切なのは、兄弟姉妹を愛し、その痛みを共有し、愛に従って歩み、神の心を自分の心とすることです。

イエス様は、罪人、弱い者のために死んでくださいました。キリストは、その弱い、罪人たちを、立ち上がらせたいと、願っておられます。
私たちがその神様の愛の眼差しを、聖霊様によって感じさせていただけますようにと、真剣に祈るものです。
愛に従って歩み、聖霊によって義と平和と喜びの心をいつも与えて頂き、平和と互いの向上に努め、そうして隣人に仕え、キリストに仕え、神に喜ばれ、人々に信頼される歩みを、今週も、続けたいものです。

隣人をつまづかせる心配が少しでもあれば、自らの自由を喜んで放棄し、そうであれば肉もぶどう酒も飲まぬ、その人のたましいのために配慮して、フィンガーボールでも十字架でも、その隣人のいのちのためにと、熱き愛の心持で、今週も、イエス様と共にがっちりと一つになって、進んでいきたいと思うのです。
私たちは、神様と、隣人のために自由を放棄すればするほど、より自由の何たるかを、悟ることになるのです。

「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」ヨハネ8:31-32

日本アライアンス教団 東城キリスト教会
〒729-5124広島県庄原市東城町東城384
Tel 08477-2-0288 -  メール -

© 2006-2017 Tōjō Kirisuto Kyōkai. All rights reserved.
Site hosted by Jaspella Gospel Guide.