説教原稿

2010年2月28日
「わたしたちは主のものです」
ローマの信徒への手紙15:1-12

 一週間の旅路を終え、また、礼拝の場に戻ってまいりました。主キリストを身にまとい、一週間を生きてまいりました。聖霊を待ち望み、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制の霊の結ぶ果実を実らせ、歩んでまいりました。
 それでも、思いもかけず、隣人を傷つけ、誤解を与えたことがあったかもしれません。私たちは、罪赦された罪人、悔い改めの祈りをもって、一切を神様に委ねましょう。私たちは、神様によって生かされ、運ばれております。もはや私たちが生きているのではなく、キリストが私たちのうちに生きていらっしゃり、恵みのうちに、私たちを導いて下さるのです。

 今日の聖書のテーマは、「神様のために生きる」ということです。私たちは、主のものです、ということです。

 私たちは、自分の知恵や努力によって救いを得たのではありません。私たちは一方的な、神様の恵みと赦しを受けました。

 パウロは、ローマの教会において、信仰観の食い違いによって、異なるグループが存在し、互いに互いを非難し合っているという状況を耳にしました。

 皆が真剣に神様を愛し、皆が神様を喜ばせたいと思っている神の民の中に、その熱心さのゆえに、意見の対立が起こり、反目の仲になってしまうということ、悲しいかな、こういうことが起こることがあります。教会が分裂してしまう、そういうことが起こることがあります。
大抵、教会堂を立てる時には、意見の食い違いが起こると言われます。教会堂を立て上げるということ、それは、教会に集う人々が互いに協力し合い、様々な問題に立ち向かい、そして、一緒に乗り越え、そして、教会の人たち自身もまた、立て上げられる時ですが、また、時によっては分裂を起こす時ともなり得ます。

 2階建の場合、1階を礼拝堂にするか、2回を礼拝堂にするかでもめます。この東城の教会のように、1階を礼拝堂、2回も吹き抜けの礼拝堂、これは最高の名案かもしれません。
あそこをどうするべきか、ここをどうするべきか・・・、様々の決断を強いられる時、しばしば意見の対立を見ます。その中でより良いものが生まれます。しかし時によっては、それがどうしようもない意見の対立となる時、問題が起こります。どうしても着陸点を得なければならない、そのような時間の制約の中で、ついに平行線の二つの意見、どうしても交わらない二つの意見のうちの一つが、多数決によって決められます。そうして、棄却された考えを述べていた人は、教会への不信を抱くようになります。
真面目に熱心に、ご奉仕くださる、建築委員になるような、中心的な人を、教会はしばしば失うことになります。牧会の難しさを味わうことになります。

 ローマにいるキリスト者たちも、真面目に真剣に、信仰の事を考えていました。肉を食べるいうこと。この事に対して、しばしば教会では議論になっていたようです。
ギリシャ、ローマなどの都市では、偶像の宮にささげた肉類を、商人たちに払い下げ、商人は、他の肉と一緒に市場で売る風習があったとのことです。ですから、肉を食べるという時、それが自然と、知らない偶像の神にささげられた肉を食べるということになり得るということであって、それはどうなのだろうかという議論がありました。

 一つの立場の人は、「食べても構わない」という人たちでした。
イエス様は、ファリサイ派の人たちに、ご自分の弟子たちが手を洗う昔からの言い伝えを守っているのかと問われた時、「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。」(マタイ15章)とおっしゃいました。

 律法主義ではない、行いによる義というものにはもうとっくに破たんしているではないか。今は恵みによる時である、ということですから、パウロは彼らを、形式にとらわれない、揺れ動かない、強い信仰信仰と評しています。

 一方は、そんなことをしたら、身に汚れを負ってしまう、そんなことをしたら神様に裁かれるかもしれないという、慎重な人たちでした。その神様の前の慎重さは、ひょっとしたら大胆な人が罪を犯すような時でも慎重さのゆえに、罪に巻き込まれないという利点があるかと思えば、そうではなく、こちらは、どちらかといえば、信仰を働かせて考え、御心を探ってこれは大丈夫だと、判断する勇気がないと言いますか、思い込みが強くて一度そう思ったらだれが何と言おうと自分の考えを変えない頑固さと言いますか、そういう意味では不自由な人のことを指しているように思います。

 なるほど、イエス様にとって、「汚れ」とは、心の中の神を愛さず、人を愛さない、自己中心の罪の問題を指すものであるから、外から入って外へ出る食べ物の事は、外面的なこと、本当に大切なことではないという信仰的、または、いわば霊的な見方があります。しかし一方においては、いいやだめだめ、偶像に備えられた肉なんて、考えただけでもぞっとする、という意見もあります。
「信仰の強い人」は、そんな、本質的でないことを大事に考えることはないよ大丈夫だよと言い、「信仰の弱い人」は、いやいや怖いということになります。それが昂じて、あんたは憶病で信仰の弱い人だ、大丈夫だって言ってるじゃないか、何で野菜ばかり食べているのだという批判になり、軽蔑となり、片や、汚れたもの食べる汚らわしい者だ、あなたは、という裁きになります。
現在も、教会の中で、信仰の強い人、そうでない人たちの間で、このような裁きや軽蔑が起こることがあるでしょうか。

 聖書は、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはいけません」と語っています。
「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。」

 ここで大切なことは、「受け入れなさい」という言葉です。信仰の異なる人を裁いたりせずに、「受け入れなさい」ということです。自分が裁き人にはなってはいけません。なぜなら、その相手の人も、神様に「受け入れられている」からです。
神様の広さ、寛容さを思うべきです。 その寛容さのゆえに、私もまた、赦していただいています。私たちは、神様がその人を受け入れていらっしゃるがゆえに、私たちも、受け入れるべきです。
私たちもまた、熱心のあまり、あの人がどうしてクリスチャン何だろうとか、あの人をクリスチャンながらにもどうしても許すことができないと、思うことがあります。意見の違いをどうしても受け入れることができない時があります。

 しかしその人もまた、自分の事をそう思っているかもしれません。しかし、その人も、私も、共に神様に受け入れられているのです。

 思い出すならば、もともと、徳が十分だからと言って、救いに入った人はいません。皆が罪人なのです。皆が恵みによって、神様に、受け入れられているのです。自分がと、誇る者は何一つないはずです。
それが、段々と、生活していくうちに、他人を軽蔑したり、裁いたりする者になっていってしまうのです。
4節、「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし召使いは立ちます。主はその人を立たせることがおできになるからです。」

 他人の召し使いを裁くとは、どういうことでしょうか。召使いとは、キリスト者である私たちのこと、そして主人とは、私たちの主である神様のことを指します。
私たちがなかもを裁くとき、それは、他人の召し使い、神様の召し使いを裁くことであり、神様ご自身に不平を言っているようなものです。

 マルタとマリアのお話を思い出します。
マルタは一生懸命おもてなしの準備をしていますが、彼女は妹マリアが何もしないでじっとイエス様のお話を聞いているのが我慢なりません。そしてついにマルタは、マリアを責めるばかりか、イエス様まで責めることになりました。

 「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 ルカ10:40

 すると、イエス様はおっしゃいました。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 むしろイエス様は、寛容をもって、マルタを、その好きなもてなしの奉仕へと、向かわせていて下さったのです。人を裁くマルタこそが、取り扱われなければならなかったのです。

 主は、私たちの主人ですから、私たち召使いの一人一人の責任者でいらっしゃいます。あの召使いの事で腹を立てる私たちですが、その召し使いを立ち上がらせることは、主なる神様のなさることです。そして、神様は、、唯一神様が、それをなさることができるのです。「しかし、召使いは立ちます」と、聖書に書いてあります。私たちは、意見の異なる時、私も相手の人も、共に神様に受け入れられていて、共に神様がになっていて下さることを知って、相手の考え方を変えようと思わない方がよいのです。仮にその人が間違っていたとしても、それは、その人の主なる神様がその人に対して導きをなさることなのです。

 次にパウロは、日について、語ります。
コロサイ書にパウロは、このように書きました。
「だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。 これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。」

 メアリー・スレサーという有名な宣教師がいたそうですが、彼女は奥地で孤独な3年間を過ごしたそうです。カレンダーがなく、しばしば曜日を間違ってしまったそうです。日曜日と思って礼拝していたのが後になって月曜日だったということが分かったということもあったそうです。分からずに、ある時は一生懸命に安息日に働き、そして月曜日に安息をとっていたのでしょう。しかし、無心に働き、礼拝していた彼女が裁かれるものではないということは、誰にも分かることです。

 実体は、キリストにあります。肉を食べる人は、主のために食べ、そして感謝し、食べない人もまた、主のために食べず、そうして感謝している。火を守る人もまた、主のために、そうしています。

 私たちは、だれ一人、自分のために生きる人はなく、だれ一人、自分のために死ぬ人はありません。
私たちは、生きるとすれば、主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものですと、聖書に書いてあります。

 そうです。私たちは、主を中心として生きるのです。

 「主のために」という言葉が、6節に二回、8節に二回出て来ます。そして、2回、自分のためにではないという言葉が記されています。

 オリンピック選手が、祖国のため、力を尽くし、そして、国旗を見て、涙が止まらなくなるという姿を、私たちはしばしば見ます。祖国に対して、恩返しができた、ちっぽけな自分が、祖国の名誉を引き上げることができたと思う瞬間です。そこには、もはや自分の栄誉も栄光もなく、打算もなく、祖国に対して恩を果たせたという気持ちでいっぱいになることでしょう。

 私たちもまた、主のために生き、私たちの所属する、神の国のために、主のために、神様の栄光のために、働きたいと、思うのです。
生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。生きるにしても、死ぬにしても、主が一歩一歩の歩みを捉えていて下さるのです。私たちは、買い取られたものです。いのちの恩人によって命拾いをさせてもらったものです。この頂いた命を、主のために、使おうと、心得ているものです。

 だれ一人、「私が、私が」というものはなく、「主のために」と互いに言うものです。しかしそんなものであるはずなのに、いかにたやすく、また元の、「自分が、自分が」という者になってしまうことでしょうか。それが証拠に、自分の兄弟を裁き、また、兄弟を侮るものとなってしまうのです。

 私たちは、私は生きている、「私はあってあるものである。」「私は『存在する』というものである。」という方の前に、膝をついてかがみ、ほめたたえるべき存在であり、私たちは、この方の前に裁かれるべき存在です。私たちは、自分の事を神様の前に申し述べ、釈明しなければなりません。

 今日の聖書のテーマは、「その背後に神様の存在を認める」ということです。自分が不満に思う、その人の背後に、その人の考え方の背後に、しかしその人をも受け入れている神様の存在を見るということです。
自分が人を変えようとは思わずに、神様に、それを祈ることです。

 これは私たちの兄弟、キリスト者の交わりの中にもあり、クリスチャンでない方との間にも言えることです。その、未だキリストを知らない方のためにも、主は十字架について下さいました。
あの人の救いのため、この人の救いのため、召し使いを立たせることができる神様に、祈りをささげてまいりましょう。主を期待し、あらゆる状況において、自分を頼まずに、神様に期待するということです。

 私たちは主のものです。主のために生きるということは、主が望まれるように生きるということです。それは、自分を主張することではなく、神様が受け入れていて下さるように、自分も受け入れて上げることです。

 正しいこと、信仰的なことだと信じて、一生懸命に突っ走っていたことが、誤りだったと気付かされることもあります。パウロは、熱心なユダヤ教徒として、キリスト者たちを次から次へと、投獄していました。彼はそれが正しいと思っていました。
しかし、ダマスコの途中、彼がキリストと出会った時、彼は自分が天地を造った神様に逆らっていたのだと知り、愕然としました。そして、彼はキリストによって、神の神の弟子となりました。

 本体はキリストにあります。キリストを見上げ、キリストのために生き、キリストが赦して下さったように、私たちも隣人を許し、キリストがこんな私を受け入れて下さったゆえに、私たちも、隣人を受け入れ、キリストが多くを無償で与えて下さったゆえに、私たちも多くを無償で与え、生きるにも死ぬにもキリストのために、主のゆえに、主のために生きる生き方こそ、朽ちない、永遠に輝き続ける歩みであることを覚え、キリストにしっかりと向き直って、今週の旅路へと、遣わされていきたいと、願うものです。

日本アライアンス教団 東城キリスト教会
〒729-5124広島県庄原市東城町東城384
Tel 08477-2-0288 -  メール -

© 2006-2017 Tōjō Kirisuto Kyōkai. All rights reserved.
Site hosted by Jaspella Gospel Guide.