説教原稿

2010年2月21日
「キリストを身にまといなさい」
ローマの信徒への手紙13:8-14

 西暦100年の頃、時同じくして、新約聖書の各書が書き終えられた時の頃、後漢、いまの中国に、官僚である楊震(ようしん)という人が、地方の太守に任命され、赴任する途中にありました。そこに一人の縁のある人がやってきて、久しぶりの話がはずんだ後、懐から金10両を差し出し、「賄賂ではございません、ただ昔の恩返しです」と言ったそうです。「恩返しなら世間にすればよい」という楊震に、その人は、「堅苦しく考えますな、今は夜中ですから、だれも知る者がいません」と言ったのだそうです。すると、楊震は、「天が知っている、地が知っている、お前も知っている、私も知っている、どうして知る者がないと言えるだろうか」と言ったとのことです。

 賄賂と汚職のはびこる、そんな慣例の中にあっても、身を潔く守っていた、その人のお話は、今に至るまで、受け継がれています。

 人は、その道を高潔に保つために、どうしたら良いのか、どうしたらその道を全うできるのか、それは、古今東西、ずっと語られてきたことです。

 人は、それぞれ、自分の心の中にある欲というものに支配されていて、それが行き過ぎますと、家庭や社会の中にひずみをもたらし、互いの幸福を破壊してしまいます。欲と言いましても、それは人に自然に備わっているものです。食べたいがために、一生懸命に働くとしたら、それは何の支障をもたらすものではありません。
一人ひとりが自分の利益を求めつつも、それが隣人の幸福を傷つけないということであれば、周囲の利益も求めることが出来ないにせよ、迷惑をさえ掛けなければ、世の中は平和に保たれるはずです。しかしながら世の中を見渡しますと、強いものが弱いものを欺き、暗やみで悪事が絶えず、様々な被害に遭う人があり、人の間には、いつの時代もぶつかりあいが生じ、争いが生じ、事はうまく運ばず、奪い合いとだまし合い、そして傷つけあうことになってしまうのです。しかし世の中は悪人ばかりではない、一部の悪い人が悪を行って善良な人を苦しめていると、私たちは思います。

 旧約聖書に、神がモーセに与えられた「十戒」がありますが、ここには、「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」と書いてあります。これらの戒めは、これらの罪が、人が当然犯してしまいやすいものであることを、示しています。

 あの有名なゴルフ選手、タイガーウッズのことで、世界の話題が一時が持ちきりになりました。奥さんがゴルフクラブを持ってタイガーを追いかけ、逃げて車で事故をしたというような話がその発端でしたが、それから次々とスキャンダルの話が出てきてしまいました。
とんでもない、私は姦淫などとは一生無縁です。私は良い夫です、私はよい妻ですと、多くの方々はおっしゃるでしょう。殺すな、盗むな、むさぼるな、いえいえ、わたしはそれらとは無縁ですと、多くの方々はおっしゃることでしょう。
しかしイエス様はおっしゃいました。
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。…「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」

 どれだけ「ばか」と、「愚か者」と、上から目線で人を裁いていることでしょうか。それはその人の価値を認めないこと、腹を立てて、とんでもないバカ者だ、愚か者だ、信じがたい、と人に腹を立てる時、それは殺人に等しい行為だと、語られています。
どれだけ性の商品化が行われているでしょうか。あふれる写真や映像の情報の嵐です。未婚者・既婚者をかかわらず、どれだけ、異性を欲望の道具として非人格化している文化がはびこっていることでしょうか。心の中の姦淫が氾濫しています。

 その心の思いが乱れているから、行為として殺人や姦淫がはびこります。人のものを盗まずとも、人のものを羨み、ねたみ、嫉妬し、その人の失敗を喜ぶなら、それはむさぼりでしょう。人が受けるべき称賛を巧みに自分の功績にすり替えて、例えば部下の功績を横取りして自分がほめられるなら、それは立派な盗みでしょう。

 罪は、犯罪者たち、塀の中にいる人たちだけのものではありません。姦淫、殺人、盗み、むさぼり、これらの社会的な罪の心は、すべての人の心にあります。この心が、社会に混乱と悲惨をもたらすのです。

 私たちは、意識的に隣人を愛そうと思わない限り、愛することが出来ないのではないでしょうか。ですから聖書には、「隣人を愛しなさい」と書いてあります。「隣人を自分のように愛しなさい」とは、面白い言葉です。「自分を愛しなさい」とは、書く必要がないのです。自分を愛することにかけては、皆ベテランです。教えられなくても、疲れれば、自分の体を休めることを怠りません。しかし、隣人がつかれているのを見ても、なかなか自分が仕事を代わってあげようというふうにはなれません。自分がほとほと疲れている時には、どんな助けも慕わしく、猫の手も借りたいほどであるのに、自分がつかれ、忙しい人に出会っても、しばしば私たちは、無関心です。

 「自分を愛するように、隣人を愛しなさい。」とは、知恵に満ちた教えです。私たちは、自分にはこうしてもらいたい、ああしてもらいたいという欲求が非常に強いものがあります。そういう自分の感じる欲を持って、相手の欲を満たしてあげなさいということです。
おなかが減っていれば食べたいと思い、疲れていたら休みたいと思う。ほめられれば嬉しいし、何かお小言を頂戴するとしても、頭ごなしには言われたくない。みんな分かっていることです。「自分にしてもらいたくないことは、人にはしない」これはよく教育の世界で、学校で教えられることです。しかし、聖書ではもう一歩踏み込んで、積極的に、害を与えないだけではなく、祝福をもたらす教えが述べられているのです。

 自分がしてもらいたくないことをしないというだけでも立派ですが、それだけなら、ただ単に相手に一切干渉しないことによって、その目的は、達成されます。相手が心を害する悪いことも、一切干渉がなければ、いやな思いをさせることはありません。
しかし、聖書は、「隣人を自分のように愛しなさい」と語っているのです。これは、「誰を見ても自分の家族のように思いなさい」、迎えて自分の家族のようにもてなしなさいというあたたかい教えよりもまたもう一段高いものです。
自分のように愛しなさい。家族にも見せない自分の深い深い部屋があるでしょう。自分だけの楽しみがあるでしょう。これだけは自分の喜びとして取っていることがあるかもしれません。家族といえども、これだけは譲れないというものがあるかもしれません。

 家族は大事だけれど、月1回のゴルフには、何としても行かせていただきたい。家族は大切だけれど、なんとしても自分へのおこずかい何万円は、何としても削れない、なんとしても鉄道模型だけは譲れない、などなど。それが悪いと言っているのではありません。そういう自分を大切にする気持ちで、隣人を愛しなさいということが語られているのです。

 これは、どうやら自分の身をささげるということと、関連があるようです。自分の最も大切な命でさえ、それを守りたいという気持ちで、隣人を愛そうと思う時、隣人のいのちの重さもまた、自分自身の命の重さと同じに思えるはずです。これはもはや、他人と自分という境目がなくなってしまっている状態です。
隣人を自分のように愛し始める時、隣人も、自分自身と同じになっていくのです。そういうことではないでしょうか。

 自分のいのちのためになら、財産を失ったとしても、いのちを優先するのではないでしょうか。
ですから、聖書は、「隣人を自分のように愛しなさい」という教えを、社会における最高の律法、最高の教えとしています。
このような、隣人への愛があれば、いったいどうして、悪を行うことが出来るでしょうか。
困っている人を見れば、自分の体が痛む。心が痛むのです。頭をどこかにぶつければ、とっさに痛いと、頭をさすります。そうするように、今痛がっている人を、さするのです。
これがイエス様の深い憐れみの心でした。羊飼いのない羊たちのように疲れ果て、弱り果てて、倒れている様を見て、深く憐れまれ、道端にいる病の人、悪霊につかれた人、目の見えない人を深く憐れまれた、あのイエス様の心、進んで十字架について、罪もないのに罪人となり、十字架について罪を贖い、十字架の上で、父なる神に罪の赦しを叫んだあのイエス様の心が、ここにはあります。
「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ18:8)と語られたイエス様を、思います。

 時は、どんどんと、終末へと向かっています。人は自力でこの世界を神の国とすることができません。神様の御力により、神の国に近づけることはできます。しかし、イエス様が再び来られ、そしてご自身の国を立てて下さいます。
私たちは、使徒たちや、今まで生きたキリスト者の先輩方同様、その終わりの時に、突然に主人が帰られても、驚き慌てふためくことがないように、自分の務めに忠実であるべきです。

 今がその時、備えの時です。今が、眠りから覚めるべき時、今は、私たちが信仰に入ったときにもまさって、終末の救いに近づいている時なのです。

 光の時は今着々と近づいています。しかし、この世の暗やみもまた、いよいよ深くなっています。夜は更けゆき、真っ暗になり、その暗さが一番深くなった時、しかしそれが暁に向かう時です。
世の中は貧富の差、格差社会、不景気、先行きの不安、汚職、偽装、世知辛く、住みづらく、愛が冷え切って、知らない人を見たら泥棒か人さらいかと思えと言われるようなご時世です。だましても、盗んでも、金持ちにさえなれば勝ち組といった、最低のモラルが横行しています。

 私たちは、暗やみの子ではありません。光の子です。暗やみの行いを脱ぎ捨てて、神の光に照らされて、私たちを、敵の攻撃から守る光の武具を着るべきことが、語られています。

 着替えるという分かりやすい日常的な動作を用いて、説明されています。人が見ていないから大丈夫、暗やみにまぎれて、という行いをかつてはしていました。自分が一番大切で、ひそかにも、人を軽んじ、自分を高め、「隣人を自分のように愛する」よりも、「姦淫し、殺し、盗み、むさぼる」者でした。
しかし今は、その服を脱ぎ捨て、新たに光の武具、神の光できよめぬかれた、本当に私たちを守るにふさわしい、清潔なものを身につけることが出来るようになったのです。
かつての薄汚れた、においのする、ボロボロの着物ではありません。
日中を歩むように、すべてが白日の下にさらされても痛くもかゆくもないような、清廉潔白な生き方です。まともな、ちゃんとした、的確な生き方です。これが、主の再臨のために備えられた、私たちの生き方です。
暗やみにまぎれた、どんちゃん騒ぎ、身を持ち崩すような前後不覚の大酒飲み、淫乱と好色、自己中心さから来る争いとねたみ、あらゆる道ならぬ欲望の渦に巻き込まれることなく、むしろ主イエス・キリストを身にまといなさい。 身にまといなさいとは、先ほどと同じ、「服を来なさい」という意味ですが、イエス・キリストを着なさいとは、キリストと深い一致の関係にありなさいという意味です。

 欲望を満足させようと、それに従って歩み、肉欲に心を用いるのではなく、主イエス・キリストにある生き方を選択したいのです。古い、自己中心の生き方という衣を脱ぎ捨て、本当に私たちを守って下さる、光の武具となって下さる、イエス・キリストを身にまとって、イエス様のいのちに、生かしていただきたいのです。
どうしたら自分を喜ばせられるかという自分の肉欲にしたがった生き方ではなく、神の聖霊により、どうしたら神様をお喜ばせ出来るかということをひたすら考え、どうしたら隣人に愛を実践できるだろうか、どうしたら苦しみを癒すことが出来るだろうかと、祈り求め、実践する生き方へと、導いていただきたいものです。

聖書の教えは、私たちの力によって何か立派なことを成し遂げることを要求しているというよりも、キリストを身につけ、キリストの心を体験すること、キリストから学ぶことが中心となっています。キリストを確かに身につけているのなら、隣人を自分のように愛することも、暗やみの業に決別することも、簡単なことです。

ここから今週も出発しましょう。いつも赦し、導いて下さる主の手をしっかりと握って、今週も手を引いていただきたいと願うものです。

日本アライアンス教団 東城キリスト教会
〒729-5124広島県庄原市東城町東城384
Tel 08477-2-0288 -  メール -

© 2006-2017 Tōjō Kirisuto Kyōkai. All rights reserved.
Site hosted by Jaspella Gospel Guide.