説教原稿

2010年1月31日
「善をもって愛に生きる」
ローマの信徒への手紙12:9-21

「正義は勝つ」という言葉がありますが、良い言葉だと思います。
「正直者は馬鹿を見る」ですとか、結局は強いものが勝つですとか、長いものには巻かれろ、白黒はっきりさせないとか、悪が横行するとか、悪が善に打ち勝つとか聞きますと、気持ちが暗くなります。

善と悪とのせめぎ合い。正しいものとよこしまなものの相克と言いますか、せめぎ合いということが、しばしば起こるようです。
真実を求めてやまず、ついに真実を悟って人々が救われるということは、すがすがしいものです。
弱い立場の人が、強い立場、とりわけ悪人によっていじめられ、この世の正義と公正というものはどうなってしまったのかといぶかる時、しかし、正義の味方が現れて、ついには正義が全うされるのを見ることは、大変喜ばしいことです。

水戸黄門というドラマ、大岡越前というドラマが長い間私たちの人気を博すというのも、この世界には実際、悪と正義とのせめぎ合いがあって、皆が、正義が実現することを心から願っていることの現れなのではないでしょうか。

この世の中には、悪が存在いたします。ただ、悪が存在すると言いましても、漠然としています。悪はどこに存在するのでしょうか。悪人がいる、悪人の心に悪が存在すると考えられるでしょうか。
聖書には、人を誘惑し、堕落へといざなう悪魔の存在が語られています。
悪魔が存在すると言いましても、悪を成し遂げる人間がいなければ、悪魔はそれ自体では何もできないものです。ですから、悪魔は、自分の手足となって動く人を捜し求めるわけです。
人が悪魔とやり取りが出来なければいいのにと思います。何の接点もなく、何の交渉もなく、私たちを放っておいてくれればいいのにと思います。しかしエデンの園において、悪魔は、人間に語りうる存在でした。
神様は、私たち人間に、ご命令をお与えになりました。いのちの言葉を与えて、危険から遠ざかるようにとすでに教えていて下さいました。それが「園の中央の木から食べてはならない」との教えでした。神の口から出る言葉によって私たちは生きるのです。しかし、悪魔が語る言葉は、悪であり、人に死をもたらす言葉です。
悲しいかな、人間は、悪魔を信用し、神の言葉を軽んじました。
神様との豊かな関係にひびが入り、人間は、死ぬべき存在となりました。神の言葉に背き、死を得るというこのこと、これが罪を犯すということです。的外れの事をする、これが罪を犯すということです。

どうして神様は、そんな死の危険にさらされるような環境を築かれたのかと、疑問に思います。なぜ悪魔など創造されたのか。なぜ園の中央に、食べたら死ぬなどという、恐ろしい木を配置なさったのか。皆様も、疑問に思われるのではないでしょうか。

それは神様が人に自由な意思を与えられたということに関係いたします。神様は、私たちを、ご自分に忠実に従うロボットには作られなかったということです。神様は、どんな障害があっても、人がその自由な意思を用いて、自分の意思で、あらゆる危険を排除して、神を愛し、神に従うであろうと、私たち人間を信じていて下さいました。
そしてそれでは私が試してみましょうと、近づいてくるのが、悪魔という存在、神のしもべでありながら、傲慢ゆえ、自分が神のようになりたいと思い、道をはずした悪魔が、人を自分の側につけて神に反逆しようとしている、神の善かつ正義の国に対抗して、自分の配下を得て、悪の帝国を作り上げようと必死になっているというわけです。

今日も、いのちを得るのは、神様の口から出る言葉に従い、それをひたすら守ることです。聖書の言葉を神の言葉と信じ、これを受け入れ、これを守り生きるということです。

悪を憎み、善から離れないことです。
悪に負けることなく、善をもって悪に勝つということです。

今日の聖書のテーマは、「善と悪」ということです。また、「愛に生きる」ということです。

私たち人間は、常に、「善と悪」とのはざまに立たされているのだという事、この事を今日、もう一度確認したいと思います。
悪魔は存在いたします。そして、人を、悪へと引きずり込もうと、日々、画策しているのです。神の造られた人類を神から引きはがし、自分の勢力のうちに置くことを、悪魔はひたすら画策しているのです。
これはオカルトやSF映画の話ではありません。悪魔は存在して、人間を、滅亡へと、いざなっているのです。
人は、神様に応答する者として造られたのです。
私たちは創世記を学びましたが、堕落の連続でした。人は、ノアの箱舟建設をあざわらい、神の救いの計画を軽んじ、身に破滅をもたらしました。バベルの塔を建設し、人の力を誇示しようとしました。

人が神の御心に生きるという事は、大変難しいことになったかのように見えますが、しかし、神様は、信仰の民を残し続けて下さいました。そして今私たちも、神の御声に聞き従う民として、大切に、とり分けられています。

私たちは、悪を憎み、善から離れずに生きようと、願っています。愛には偽りがない。偽りのない、純粋な愛に生きるために、揺れ動かない平安と祝福の生活、愛し愛される喜びの生活が、私たちには、用意されているのです。
だまし合いではありません。憎しみ合いではありません。打算や駆け引きに終始せず、人を憎まず、すべてを与え、すべてをゆるす、善を愛する生活です。神の御心に生きる生活です。悪魔にくみせず、神様のしもべとして生きる生活です。

聖書は、今日、混じりけのない愛に生きなさい、悪を憎み、善に生きなさいと、教えています。
神様、そうさせて下さいと、静かに祈りましょう。私たちは無力でも、神様は私たちの祈りに答えて、守って下さいます。

兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れたものと思いなさい。

愛こそ、悪に対抗するものです。悪を憎み、善を愛する生活とは、愛することです。
兄弟愛は、何によって表れるのでしょうか。それは、尊敬であると、聖書は語っています。人を尊敬することにおいて、他に先立ちなさい。これがこの節の直訳ですが、真っ先に、どんな人でも、尊敬できるような人、この人こそ愛の人です。
私たちの生まれつきの罪の人間性は、人を軽んずることが大変に得意です。人を見れば欠点をあげつらい、だからあの人は駄目なんだとか、自分の欠点を棚に上げて、実に鬼の首をとったように、人をあげつらう事が得意です。
敵意です。自己中心です。悪です。
しかし、兄弟愛に生きなさいと書いてあります。
子供のようなものが天の御国に入るとありますが、子供たちの群れは、明るく、すがすがしいものです。時にはけんかをしますが、たしなめられれば、素直に赦します。共に食べ、共に遊び、共に昼寝し、まさに兄弟のような間柄です。しかし何時しか、一人一人の世界をもつようになり、競争相手となり、足を引っ張ったりするようになるとしたら、憎しみ合うような存在となるとしたら、それは悲しいことです。

兄弟愛の秘訣は、互いに尊敬することです。 夫婦生活の秘訣ともいえます。職場や社会の人間関係の秘訣ともいえます。 まず自分が先んじて、相手を尊敬することです。
尊敬に値しないと仮に思っても、それでもなんでも、尊敬できるところを一つでも見つけ出して、まず先に自分が相手を尊敬することです。尊敬してくれたら自分も尊敬するというのではありません。自分の方が立場が上であっても、自分が先に、相手を尊敬すること。これが愛です。これが善なることです。

怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。

身をささげる気持ちに燃えて、怠らず励み、主に仕えなさい。
ボイルするという意味の言葉、ぐつぐつと煮えているという言葉が使われています。
いつもぐつぐつと、煮立っているように、ぐらぐらと沸騰していなさい。絶えず怠らず、主に仕えなさいと、聖書に書いてあります。冷めてはならない。火を止めてはいけない。なぜならば、その状態が、祝福の状態だからです。
悪を憎み、善から離れないという事、偽りのない愛に生きるという事は、いつもいつも火をつけていなければ、いつも意識していなければ、出来ないことです。いつも主への情熱に燃え、心が沸き立っているならば、悪を憎み、善から離れず、愛に生きることが出来ます。しかしその火を止めてしまうと、心が冷めてしまいます。
いつも冷や水がかけられます。妨害されます。悪魔は、そんな情熱の鍋を見るのが、大嫌いです。

希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。

しかしこれが希望をもった生き方です。苦難にも耐えられる道です。たゆまずに祈り続けることです。
かつては希望をすぐに見失いました。絶望にさいなまれました。しかしここには、希望があるのです。苦難に耐えきれず、助けも見出されませんでした。しかし、今私たちは、神様に抱かれているのです。一人ではないのです。たゆまず祈る。私たちは一人ではない。祈りを聞いて下さる神様がいらっしゃるのです。
ですから、悪を憎み、善から離れず、愛に生きることが出来るのです。

聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。

信仰の友の貧しさを、自分の貧しさのように共感し、痛みを共有しなさい。旅人や、困っている人をもてなしなさい。良いと思う事、助けになることを実践しなさい。持てるものを分かち合い、喜びを与え、隣人を富ませなさい。与えるものは幸いであると、聖書は教えています。種蒔く者は、豊かに刈り取ります。神様に信頼し、豊かに与える人は、大きな祝福を刈り取ります。困っている人に目を向ける人は、困ったときに人から目を向けてもらえます。

あなた方を迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。

与えるよりも集めることが好きでした。敵を赦すよりも、憎み、呪う方がたやすいことでした。しかし神様は、与えることを教えて下さいました。赦すことを教えて下さいました。赦すばかりか、私たちを憎む人のために、祝福を祈ることを、教えて下さいました。これが平安をもたらす道なのです。これが善です。これが悪を憎むことです。これが愛です。
これが、イエス・キリストです。

与えるのを惜しんで、手元に置いておいても、一向に豊かになりませんでした。しかし分け与えることを知って、豊かさを知ることが出来ました。
赦してはいけないと思い、それが正しさだと思い、憎み続けていました。しかしそれは平安をもたらしませんでした。しかし赦す時、自分を憎み、わなを仕掛ける人のために祝福を祈る時、私は、自由にされました。平和を得ることが出来ました。

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

この教えは、原語では格別強調されてしたためられているそうです。
喜ぶ人がいればやっかむ、嫉妬する、喜べない自分がいました。人の成功を見たくない、人の成功を喜べない自分がいました。しかしそれは善ではありません。
喜び人とは共に喜べばいいのです。
悲しんでいる人がいれば、心慰められるという、自分の深い深い心の底には、他人の不幸を喜ぶ心が存在していました。「他人の不幸は蜜の味」という恐ろしい言葉。人間の本質を現わしています。

喜びをやっかんでも、決して幸せにはなれないのに、喜びを自分のものとして、悲しみを自分のものとする時、そういう共感できる人は、多くの友を得ます。自分が喜ぶ時に一緒に喜んでくれる本当の友を得ます。自分が泣いている時、本当に助けが欲しい時に、自分を助けてくれる本当の友を得ることが出来ます。
イエス・キリストに生きている時、与えてやまない時、深い共感に生きようと願ってやまない時、私たちは、本当に、平安なのです。

互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。

一人はみんなのために、みんなは一人のために。互いに心を重ね合わせる共同体が、教会です。自分こそが知者だと思うのなら、人を見下さず、むしろその知恵を用いて人に仕えることです。力があるならば、それを誇示するよりもむしろ、その力を用いて、弱い人を助けるべきです。謙遜に生き、助けを求める人たちと共に生活し、彼らの力になってあげなさい、そう聖書は教えているのではないでしょうか。

だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。
悪に対して応酬するのではなく、赦しと祝福の祈りをもって応酬しなさい。怒りに身を任せてはならない。すべての人の前で、どんな人を前にしても、陰ひなたなく、自分に利益をもたらす人であっても、損害を招く人であっても、一定に、変わることなく、善を行うように、心がけなさい。

できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。
あなたの側からは、すべての人たちと、平和に暮らしなさい、しかし相手の方から争いをしかけられることがあるでしょう。しかしそうであっても、あなたの側からは、仕返しせず、悪をもって悪を返さず、善を行いなさいと、聖書は教えています。憎しみの無限連鎖、憎しみの拡大再生産をしてはいけませんと、聖書は教えています。

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りにまかせなさいと、書いてあります。
復讐はわたしのすること、私が報復すると、神様が私たちの側に立って、私たちを弁護して、私たちの立場を守って下さると、約束されているのです。
神様に委ね、怒りに身を任せないようにしたいものです。

「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」

むしろ、私たちを憎み、悪を行う人たちに対して、悪で返さず、善で返すことによって、悪を犯す人たちは、自然と自分の頭上に彼らの借りを増し加えることになります。自責の念に訴えることです。悪に対して悪を返せば、相手はもっと元気になって悪をしかけて来ますが、もしも私たちが悪に対して善をもって返せば、相手は調子が狂い、仕返しの代わりに良きことが帰ってくれば、気味悪がって相手にしなくなるばかりか、冷静になって、自分の非を考えるようになるかもしれません。

悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

結局、キリストに生きるという事です。力ある者が、貧しくなられ、与え尽くし、敵の罪を赦し、甘んじて十字架にさえつかれ、その善の生涯を全うする時、彼を憎み、十字架にまでつけた者は、そこはかとない、悔い改めの思いにさいなまれるという事です。

悪は、もっともそうな顔をして、私たちに語りかけます。 罪の報い位与えて当然、さああなたが罰を下すがよいと、私たちに語りかけます。しかし自分の怒りに任せれば、私たちも善から身を引き離すことになってしまいます。
注意深く、キリストに生き、御言葉に生き、善に生き、愛に生きること。

悪を憎み、善から離れず、兄弟愛のもと、尊敬に早く、怠らず、霊に燃えて、沸騰して主に仕え、希望をもって、困難に耐え、たゆまず祈る。
喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣き、
貧しい人の必要を我が痛みとし、もてなし、
自分を憎む人に良きことをなし、
悪に負けずに、いつも善を働かせ、悪に勝利できますように、

新しい一週間が、主の勝利の力によって、守られますようにと祈ります。

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