説教原稿

2010年1月24日
「心を新たにして」
ローマの信徒への手紙12:1-8

先週、私たちは、前の個所から、「神の慈しみにとどまる」という事を学びました。私たちが今救われてありますのは、イスラエル民族がそうでありましたように、律法の行いによるのではありません。
恵みによって、私たちは、一方的に、自分の行いによらず、神の恵みによって、救いに入れられました。
私たちは、自分の力に頼る時、それほど強い存在ではありませんが、神の慈しみにとどまり、うちに生きていらっしゃるイエス様に信頼するときに、上よりの大きな働きを頂くことが出来ます。

今日はお読みいただきました12章の前の個所ですが、このように書いてあります。
「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」
私たちは、神様の招きを頂き、救われ、賜物を与えられて、生かされています。私たちにおのおの異なった良き賜物を下さり、そして招きのうちに、神様のお召しのうちに、召命のうちに、私たちは生かされています。

私たちは、神様の恵みと慈しみとのうちにあって、賜物と、召しを頂き、この人生の間、この世界に遣わされています。私たちは、遣わして下さった方によって、この一生涯を用いていただき、きよきご用に用いていただくのです。神様は私たちに与えて下さった賜物と、その招き、召命を取り消されません、あなたをお用いになりますと、聖書には書いてあります。

人間は、神に似せて、神の形にかたどって、造られました。人は神の前にあるものとして、神と共にあるものとして、造られました。ですから、人は、神の前から離れることによって、埋めることのできない心の隙間を抱えるようになりました。
有名な神学者・哲学者・数学者パスカルは、こう言いました。
「人間の魂には神のかたちをした空洞部分がある。 神のもとに立ち返ることなくして誰もそして何をもってしてもこの空洞を埋めることはできない」

良きものをたくさん持っているのに、その才能を生かすことが出来ない。才能を悪い方向に、人を傷つける方向に使ってしまう。自分自身が分からずに苦しむ。自分の人生とは、何のためにあるのか、理解に苦しむ。
有名な神学者アウグスティヌスもまた、「人は神と会うまでは本当の平安を持つことはできない」と言いました。

主が招いて下さり、その招きに従って応答する者となった私たち。神様の前に生きるものとして回復された私たちの人生です。神の賜物をいかんなく発揮するために生きる。私たちの生かされてある意味を悟り、私たちを設計して下さった方、私たちを知り極められる方のご指示によって生きることは、何と幸いなことでしょうか。

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。」
これは、神様のあふれる恵み、同情のお気持ちから代弁して、という意味です。パウロは、神様のしもべとして、自分が語りたいと思う言葉ではなくて、神様は何を語りたいと思っていらっしゃるのかをひたすら考えていました。そして彼は、神様の慈しみ深さ、恵み深さ、同情深さというご性質を学びとったのです。
神は憐れみ深いお方です。
私たちは、憐れみのない、薄情な、自己中心な人から、何かを学びたいと思うでしょうか。学びたくないと思います。
パウロは、直接イエス様によって選びだされた異邦人への使徒でした。大伝道者でした。しかし彼は、兄弟たち、私は神の憐れみによってあなたに勧めます、直訳すれば、あなたにお頼み申し上げますと、非常に丁寧に、語っています。
主の陰に身を置き、主の憐れみ深さを味わい、主の奉仕者として、主の御心を謙遜に伝える。その主のお心が伝わるように祈りながら語る。神の憐れみ、慈しみ、私たちへの愛のお気持ち、深い憐れみの心を伝える。これがパウロの働きでした。

「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげなさい。これこそ、あなた方のなすべき礼拝です。」
神様は、深い憐れみのお心から、私たちにぜひこうしてもらいたいと願っていらっしゃるのは、私たちが、自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげることです。
これこそが神様へ捧げるべき、真に霊的な礼拝であると、パウロは語っています。
ローマ書も12章まで進み、実際的で、核心に迫った教えが語られるようになってきました。
イスラエル人がつまずいてしまったこと、そして異邦人に知ることが許されるようになった神の奥義がこれでした。

何か良い行いをして、立派な子羊をささげて、神に喜ばれるというよりもむしろ、自分の体を丸ごと、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげるということです。

いけにえを捧げるという時、祭壇に、傷も汚れもなき動物を、全焼のいけにえとして、ささげたものでした。それは自分の汚れ、あやまちの身代わりとして動物を主におささげするためでした。私たちの罪深い、この身は、そのままでは神様に受け入れられないからこそ、私たちが受け入れられるために、動物による犠牲が必要でした。

しかし今、イエス様が十字架につかれ、その贖いにより、すべての人がキリストの贖いを通して、キリスト以上に、何の犠牲もなく、神様の前に進み出ることが出来るようになりました。
私たち自身が、罪あるまま、不完全なまま、神に喜ばれる聖なる、生きたいけにえとして、神様に、受け入れられるべきものと変えられたのです。

私たちは、何の見返りも携えぬまま、キリストのいさおしによって、神様の前に、喜ばれる、聖なるいけにえとして受け入れられるという事、この事を覚えていただきたいと思います。
私たちは、今あるままで、神様の喜ばれる、聖なる捧げものとされているのです。神様に受け入れられる存在とされているのです。
私たちは、神様の前に生きることが出来る存在であり、神様と共に、生きることが出来る存在と、回復されています。何をささげるというよりも、自分自身が回復されて、神の前に、受け入れられる存在とされていて、したがって全身をもって神様に信頼して、すがりゆく、その信仰による礼拝が何より大切であることが教えられます。

それでは、神様の前に、いけにえとしてささげられた生活とは、具体的に、どのような生活なのでしょうか。

2節、「あなた方はこの世に倣ってはいけません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
神の前に生きる者として、この世の中に倣ってはいけない。私たちは、世の中からお手本をとって倣うものではなく、神に倣うものです。
そのためには、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことか、何が完全なことか、わきまえることが出来るように、発見することが出来るように、心を一新して、自分を変えて頂くという事がここで教えられています。
リニューアル・オープンです。今までの心の中のレイアウトも、品ぞろえも、一新して、自分を変えて頂くということです。何が神の御心であるか、無頓着でした。御心よりも、世の中に倣っていました。何が善いことか、無頓着でした。何が神に喜ばれ、完全なものか、無頓着でした。しかし、今は、心を新たにして、自分を変えて頂き、これらのことを悟ることが出来るようにと、神様によって新しい自分に変えて頂きたいと願いつつ、今私たちは、礼拝をささげています。
自分が変わることなく、世界を私たちのために変えて下さいと祈るのではなく、主よ、私が自分の心を変えますから、私から世界に変化をもたらして下さいと、祈るものでありたいと、教えられます。
私たちは、どうしても、落ち着いた、変化のない事を好みがちです。自分が変わるという事をなかなか求めようとしません。
しかし、むしろ、心を新たにして自分を変えて頂くのです。まだまだ、まだまだ、私たちの心は、より神様の御心に向かって、より神様の善に向かって、より神様に喜ばれ、完全なものとなるために、リニューアルされる、心を一新されるべき必要があると思います。
そのことを認め、神様に自分を御心にふさわしく変えて下さいと祈る、これが、私たちを、自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげるという事、これこそが、神様の喜ばれる真の、霊的な礼拝だということです。

恵みに目を開くものとして、恵みに生かされているものとして、いつも心が柔軟で、謙遜で、教えられるべき心の余裕をもって、変えることのできる、心の柔軟さをもって、主からお聞きしたいと思うのです。この教会の皆様は、そのような心の柔軟さをもっていらっしゃると思います。しかし、少しでも神様に示されて、いえ、私はそうは思いませんとか、いえ、私は自分が正しいと思います、私は自分の考えを変える必要がないと思いますと言うのなら、神様の憐れみを十分に自分に取り込むことが出来ないのではないでしょうか。

3節「あなた方一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えて下さった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」

神様が喜ばれるのは、悔いた、砕かれし心、というみことばがありますが、神様が喜ばれるのは、そのような心ですね。子供のようなものでなければ御国に入ることはできないとイエス様はおっしゃいましたが、子供のような心とは、間違いを素直に認める柔らかい心の事ではないでしょうか。傲慢、自信過剰と言うのも、子供の心からは程遠い性質をもっています。
神様の恵みの海に、ドボーンと、飛び込むことです。自分なりの考えがあるとか、事と次第によっては従えないとか、難しい事を考えずに、ドボーンと、体を丸ごと、神様にお委ねするという事、自分があれこれと判断して、考えを決めてしまわずに、神様はどうお考えかな?とか、何が本当に良いことだろうかとか、何を神様は喜んで下さるだろうかとか、何が完全なことだろうとか、じいーっと、神様の温泉の中に入って、考え、祈るという事ですね。安易に怒ったり、失望したりせずに、人をもう許せないと、裁き捨ててしまわずに、自分の損とか得とかですぐに判断してしまわないで、すぐに自分が正しいとか、あいつが間違ってるとか決めてしまわずに、神様、私の心をあなたが望まれるように作り変えて下さい。私の心のレイアウトを、あなたが一新して、リニューアルオープンさせて下さいと、祈ることが大切です。何か新しい神様の真理に気付かせて下さいと、祈ることが大切です。

私こそが知者であると、自分を過大に評価することなく、歩みましょう。教会の一つの体は、多くの部分からなっており、すべての部分が異なる働きをしていて、そうしてキリストにあって結ばれて、互いはそれぞれ異なれど、それでそれぞれが尊ばれて違うからこそ美しい、結びあわされて、一つの調和した体が出来上がっているのです。
自分をあの人この人と比較して、一喜一憂をすることがないように、各自は互いに部分、結び合わされてこそ互いに意味ある存在なのだ、それぞれがばらばらに存在していたのでは、みんなそれぞれ不完全だけれど、組み合わされて尊いものとされていると知ることが出来ます。
群れにとって不必要なものは何一つなく、何か一つでも部分が抜ければ、全体がそれを必要とします。体のどの部分も、この部分こそが一番重要だとは主張せずに、強いところが弱いところを支え、足の裏は一日中体を支え、目に見えない小さな器官も喜んで全体のために働きます。

キリストの群れというものも、このようなものです。
世の中の組織は、とかく弱肉強食です。勝ち組、負け組といい、強いものが弱いものを従え、搾取する世の中です。上のものが力をふるい、下のものは言われるがままです。しかし、教会とは、そのような組織ではありません。神の国とは、そのような組織ではありません。
体の各器官のように、いたわり合い、助け合い、譲り合い、共に命を共有する共同体です。

与えられた恵みにより、それぞれ異なった賜物を持ち、それぞれの部分に応じて働きをしています。
預言の賜物であれば、御言葉のメッセージを語り、他に貢献し、助け働く奉仕をする人、教える人、励まし慰める人、豊富に、真心から与える人、指導者になる人は真面目に誠実に努力し、明るく快活に、慈しみの心から他者を助ける人、これらの方々のいるところが、私たちの教会です。
神の御言葉に立ち、それを味わい、互いに教え合い、そして豊かに助けや慰めを与え、生活の必要を提供する群れ。満たされて、恵みのおすそ分けをし、地域から尊敬される与える群れと。今年も用いられたいと、切に願うものです。

私たちはそのために、まず自分をささげる、神様の懐に体重を預けて、礼拝をし、周りを変えるよりもむしろ、自分を新たに変えて頂くという柔軟性を持って、神様の御心を発見させていただきたいと、切に願うものです。
神様の素晴らしさが、私たち教会の歩みを通して、私たちの業と祈りを通して、豊かにあらわされますようにと、私たちは神様に期待しつつ、今週も歩みたいと、願うのです。

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