説教原稿

2010年1月17日
「神の慈しみにとどまる」
ローマの信徒への手紙11:11-24

 先週、私たちは、神様がご自身の民イスラエルを決して見捨てないこと、そして、イスラエルをご自身に立ち返らせるために、神様は異邦人に救いを与え、選民イスラエルを疎んじることによって、民にねたみを起こさせたという事を聖書から知りました。
 また、バアルにひざをかがめなかった生き方とは、恵みによるものであり、神様が各人の信仰に従って、恵みとして正しい信仰的な生活や行いをなさせて下さるという事を学びました。

 ユダヤ人がつまずいたという事、それは、律法規定に目を奪われ、自分の行いによって自分が救われると信じきっていたことによります。自分の行いによる救いは、自分への誇りを生みだします。そのプライド、その自分の正しさが、神様との間に溝を作るのです。

 イエス様が、こうおっしゃいました。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
マタイ9:12-13

 二千年前、恵みによる赦しが宣言されました。それまで会堂から追放されていた者、軽蔑されていた者たちに光が当てられ、次々とイエス様は失われた魂の回復をして下さいました。

 その時に、面白くないと顔をしかめていたのが、祭司長、律法学者たちでした。
どうしてイエス様が汚れた人たち、罪人たちの正体を受けて食卓につかれるのか、ましてや赦しを宣言なさるのか、全く理由が分かりませんでした。
祭司、律法学者は、聖書の教え、そして言い伝えられているおびただしい律法を守り、自分をきよく保っていました。ファリサイ派と言う人がいましたが、ファリサイとは、「分離する」という意味です。この世から自分をきよく分離する彼ら。自分こそは正しいと思っていました。落ち度なくいけにえを捧げていました。
しかしイエス様は、ご自分を医者に例えられ、医者を必要とするのは病人であって丈夫な人ではない、つまり、イエス様を必要とするのは、罪人であって、自分は正しい、丈夫だと言っている人はイエス様を必要としないと語られました。
「私が求めるのは憐れみであって、いけにえではない」

 神様は、憐れみ深い方です。工場のベルト・ラインの上を、規格品と非規格品(すなわち不良品)が流れていて、不良品を次から次からふるい落としていくような方ではありません。
神様は、憐れみの方、恵みの方です。むしろ見捨てられた者、不良品を探して、憐れみによって癒し、救って下さいます。

 これがユダヤ人のつまずきでした。
神は正しいものを愛し、そのいけにえを喜ばれる。そうでしょう。しかし、人は、自力によって救済されることはありません。喜びのいけにえを捧げることは尊いことです。しかし、それによって救いを得るとは考えることはできません。むしろ神様は、憐れみを与え、私たちにも、憐れみ深くあるようにと、願っておられます。

 ユダヤ人たちに神の憐れみを知らせるために、神様は、彼らの誇りからして全く縁遠い、系図にも、律法の行いにも、今までは蚊帳の外にいた、何にも誇ることのない異邦人たちを、次々と救いに入れられました。
このことにより、ユダヤ人たちのねたみを起こさせ、自らの間違いに気づくようにと、神様はご計画をなさいました。
ユダヤ人はつまずきましたが、倒れてしまったのではなく、回復させるための手段を神様は、用意して下さいました。

 今日学ぶべき第一の点は、私たちは失敗して、考え違いをして、つまずいたとしても、それが最後的なことではなく、神様は、そこからそこから、回復の道を用意して下さるということです。

 そればかりか、その訓練が、異邦人のための救いともつながっていて、ユダヤ人のかたくなさの罪によって、異邦人に救いをもたらして下さるのです。まさに神様は、万事が益となるように共に働かせて下さる方です。憐れみ深い方、信頼に足るお方でいらっしゃいます。

こうして、異邦人に救いが起こり、そうしてユダヤ人にねたみが起こり、深い思慮が始まり、ついにはユダヤ人が皆救いにあずかれば、どんなにか素晴らしいことでしょう。
神様は、いつも最善を計画して下さっています。私たちが今の現象の意味が分からずに不可解な思いをする時にも、神様は最善を図り、すべての人を見渡す方が、私たちにとって、困難に思われるようなこのことによって他を祝福し、そして私たちに悟りを与えて最終的に私たちの益になるように考えて下さるという事があるものです。

 私たちクリスチャンが、律法主義になることがあるでしょうか。憐れみよりもいけにえ、正しい行いに重きを置くことがあるでしょうか。ありうることだと思います。礼拝出席や献金、祈祷会、婦人会、もろもろのご奉仕、それらが自分の救いを確約しているという事ではありません。多くの奉仕をすることが出来るように恵まれている人もいれば、そうでない人もいます。我先にと、奉仕をする人に脚光が集まり、そうでない人は冷ややかにされるとしたら、そこは軍隊のような安らぎのない教会となってしまいます。

 社会で名声のある人も、そうでない人も、経済的に恵まれている人も、そうでない人も、年長の方々も、年若いものも、一人一人がキリストを中心に横の交わりを頂き、体の各部分のように、どこが重要でどこが重要でないといわずに、違う各部分がそれぞれ必要でうまく組み合わされ機能し、小指の先でもけがをすれば、体中で痛みを感じ、傷ついたところをいたわるというのが私たちの体の成り立ちです。

神様はまず教会を愛していて下さいます。ユダヤ人を愛していて下さいます。しかし、神の民を導くために、しばしば異邦人を用いられます。

私たちは、ユダヤ人のかたくなさ、自分の力に頼って救いを手にした彼らの失敗を、繰り返さないようにと、心に留めたいものです。

私たちの教会が、本当に、神様の憐れみに根差したところであり、神様の恵みによる回復の場、魂が救われる場として用いられますようにと、願ってやみません。

ユダヤ人は、つまずきによって、捨てられ、こうして、異邦人に救いが及び、世界に和解をもたらしたのであれば、やがてユダヤ人たちが過ちに気付いて受け入れられることになったら、何と素晴らしい、最高のもの、死者の中からのいのち、永遠のいのちをどうして得ないことがあるでしょう。

ユダヤ人は人類という麦の初穂、まず神様にささげられた人類の中から選び出されたものです。この民族によって、地上のすべての氏族は祝福されると、神様はアブラハムに約束して下さいました。この聖なる根によって、すべての枝も、きよくされます。

イエス様は、私たちに、「あなた方は地の塩、世の光です」とおっしゃいました。光がなければ生きていけません。塩がなければ、生きていけません。私たちは、世にとって、なくてはならないものです。

私たちは、神様の標準から遠く隔たっていましたが、ただ神様の慈しみによって、信仰が与えられ、イエス・キリストによる魂の救いと永遠のいのちを得ています。
20節、「ユダヤ人は不信仰のために折り取られましたが、あなた方は信仰によって立っています。」 「思い上がってはいけません。むしろ恐れなさい。」
22節、「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対してはいつくしみがあるのです。」

 神の慈しみにとどまりましょう。
価値のな、こんな罪人のために十字架にかかって死んでくださったイエス様を唯一の我がよりどころとして、他のものに頼まず、イエス様を主として、イエス様を我が心、我自身として、心の王座にお迎えいたしましょう。
キリストに心を明け渡すならば、私たちはまた、キリストのように生きることになります。

いつも赦されていることに感謝し、いつも人を許せるように、キリストに心のうちに入っていただきましょう。

私たちの救いは、イエス・キリストです。イエス・キリスト以外に救いはありません。十字架を誇り、今心のうちに生きていて下さるイエス様を、主としてあがめましょう。人生の操縦かんを、主にお任せしましょう。
これが、神の慈しみにとどまる生き方です。

ユダヤ人のように、自分の考えを優先せず、イエス様を信じて、日々の歩みに生かされたいと、心から願います。

今、イエス様を受け入れられない、多くのユダヤ人たちが、イエス様をお迎え出来ますようにと、祈りましょう。そしてパレスチナ人が、そして世界の人たちが、そして私たちクリスチャンが、本当に主と共に、神の慈しみであるイエス様にとどまって歩んでいけるようにと、祈ってやみません。

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