説教原稿

2010年1月10日
「恵みによって選ばれた者」
ローマの信徒への手紙10:19-11:7

よく言われることに、唯一神の宗教は、独善的だという言葉があります。民主党の小沢幹事長が、少し前に、「キリスト教は独善的」と言っていまして、びっくりもいたしましたが、唯一神と言いだすと、同じく唯一神とうたっている他の宗教を受け入れないことになるとか、不寛容だとかという声を良く耳にします。だから宗教の名のもとに戦争が行われるから独善的だと人々は口にします。
このような疑問に対して良くたとえに出されるのが夫婦関係です。一夫多妻(一婦多夫)という制度もありますが、多くの国では一夫一婦です。
寛容寛容と言って、夫が妻をたくさん連れてきたら、それは大変なことになり、戦いが始まります。
一夫一婦の結婚とは、そこにおける愛とは、独占する愛であり、他を締め出す愛です。これを独善的とか、非寛容と言う人はいません。むしろ寛容であってはならないものです。愛すれば愛するほど独占したくなる、愛すれば愛するほど非寛容になるものです。ああどうぞ、どなたでもうちの主人もしくは妻と出かけて下さい、しばらく帰ってこなくてもいいですよ、こういう風になるという事は、もう自分自身も、配偶者に対する愛を失った状態と言う事が出来るでしょう。

 この結婚観というものを、神様と人との間で考えますと、分かりやすいと思います。本当に、神ご自身が、生ける、人格ある方であるならば、どうでしょうか、無節操にこの神あの神と二股をかけられることについて、どう思うでしょうか。さあどうぞと言えるでしょうか。人でさえ、自分に何か調べ物を頼まれて、一生懸命にその人を助けると思っていろいろと準備してあげたのに、さあどうぞと言って、頼んだ人の所に行ったら、ああ、そのことですか、もうあの人に頼んで、聞きましたから、もういいですといわれたら、さぞや怒ることでしょう。
本当に人格ある、本当に私たちを愛して下さっている神様であれば、その愛が強ければ強いほど、私たちを独占したいと思い、非寛容になるというものではないでしょうか。ただ誤解していただきたくないのは、神が私たちを独占し、非寛容になるという事は、人がエゴでもって、他の人を支配し、従わせようとすることとは全然違うということです。神様は、ただ私たちの幸せを願って、私たちを正しく導くために、私たちを独占し、非寛容になられるのです。
神様は、他の偶像の神々を忌み嫌われるというのは、こういう理由からです。聖書の中に、私は熱情の神、ねたむほど愛しているというのは、こういうことです。私たちは、神様がそれほどに心を熱くして、熱情を持って、嫉妬するようにして、私たちを愛して下さっているという事を知ることが出来ます。

しばしば偶像崇拝に至ったイスラエルの姿。私たちは聖書のあちこちに選民イスラエルの、いわば神を捨てて浮気する姿を見ることが出来ます。
エジプトの軍隊に追いかけられ、命からがらという時。主は紅海のおびただしい水を二つに分けて下さったではありませんか。こんなにも力強く、確かに守って下さる方をまじまじと見、敵の手から救い出していただいたのに、そのすぐ後で、シナイ山に登って帰りが遅いモーセに業を煮やした人たちは、もう偶像を作り上げ、モーっていう間に金の子牛を作ってそれを礼拝してしまいました。何という無節操、何という恩知らずなことでしょうか。
寛容が美しいという言葉は、他の所では当てはまるかもしれませんが、こういう信頼関係の中では、決して当てはまらないものです。

愛されているから、その信頼関係のうちにあって、責任が生ずる。まさにこれが、神様と、イスラエルの関係でした。
ですからここローマ書では、選民イスラエルの救い、ユダヤ人の救いに関して、繰り返し繰り返し、語られています。

さきほどお読みいただきました19節ですが、モーセは、神様からお言葉を預かる預言者でしたが、こういう風に語りました。
「私は、私の民でない者のことで、あなたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなた方を怒らせよう」
こう書いてあります。

これは、選民イスラエルが浮気をするならば、私もあなたたちではないほかの民族を愛するよ、そうしてあなた方にねたみを起こさせ、嫉妬させて、他の民のことであなたたちを怒らせるよ。こうおっしゃっているのですね。
何と人間的な情に訴えかけられる神様でしょうか。男女の愛のように、いわばそれも浮気されて、一生懸命に自分の方につなぎとめようと、モーションを掛けて、自分の方に戻ってくるようにと苦労される神様のお姿です。何とおいたわしや神様、と言ったところです。
旧約聖書のホセア書は、まさにそういう内容です。神様は、預言者ホセアを浮気者の妻ゴメルとの結婚をお命じになりました。浮気を繰り返す預言者ホセアの妻ゴメル。どうして神様はこんな結婚をさせたのでしょうか。しかしゴメルとは神の民イスラエルの姿そのものでした。夫である神をないがしろにして、様々な偶像礼拝をし、神殿は、神殿娼婦のあふれるところとなり、宗教的にも、倫理的にも、神殿から、体の芯から腐ってしまったイスラエルを妻とする夫としての神様の苦悩を、ホセアは、自分の身にひしひしと感じ、イスラエルに向かって、神の言葉を預言しました。その内容は、切々と、私こそ神、救いだせるのは、私だけだと、憐れみ深い、慰め深いものとなっています。裏切る妻を責めるというよりも、赦して立ち返るように、諭します。なぜ愛しているのに去っていくかと苦悩の気持ちを隠すことなく、訴えかけます。神様が、何と私たちと同じ視線に立って、私たちを取り戻そうと、必死になっておられるかが分かるホセア書です。
今日お読みいただきました21節に、ある通りです。
「私は、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」

何という神様でしょうか。何と忍耐強く、あきらめない方でしょうか。神様は、イスラエルの民を捨てるという事は決してありません。むしろ裏切り、離れ行く民に訴えかけ、戻ってくるようにと、一生懸命に働かれる方です。一日中、手を差し伸べ、不従順かつ反抗的な民に対して、あくまで赦しの手を差し伸べ、そればかりか助けようとして手を差し伸べて下さるのです。

1節2節、神は御自分の民を退けたりなさらないと書いてあります。
むしろ退けているのは民の方なのに、神様は、どうして異邦人なんか救うんだという、駄々っ子のようなイスラエルの民に対して、優しく語りかけるのです。
神は民を退けない。それはどういうことか、聖書に書いてありますのは、エリヤのことです。
3節にありますが、エリアは神様に訴えます。
「主よ、彼ら(イスラエルの人々)はあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、私だけが残りましたが、彼らはわたしのいのちをねらっています。」

民はその預言者を殺す。バプテスマのヨハネも、王ヘロデの誤りをいさめているうちに、目ざわりと、投獄され、首を切られて盆の上に載せられました。
イエス様でさえ、十字架にかけて殺す民。それが選民イスラエルであり、また私たち人間の、姿です。不従順で反抗する民。自分の夫である神を拒絶する民。それがイスラエルであり、私たち人間の姿です。

一人ぼっちと嘆く預言者エリヤに、神様はおっしゃいました。
「私は、バアルにひざまずかなかった7千人を自分のために残しておいた」

民は腐ってしまった、だれも味方がいないと嘆くエリヤ。しかし、神様は、救われる者、残りの民を用意していて下さるのです。
しかし神様は、ご自分の恵みのうちに、赦しのうちに、7000人もの味方を、エリヤのために用意していて下さいました。偶像にひれ伏さなかった者。みんなが渡っているからと、赤信号を渡らず、一緒になって偶像礼拝しなかった者。自分の歩みを世の中から切り離して、自分をきよく保っていた人たちです。

しかしパウロは、これら、ひざまずかなかった人たちのことを5節に、こう言っています。
「同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています」と。
バアルの偶像にひざまずかなかったという事は、その人たちの立派な行いのことを言っていて、その立派な行いのゆえに、7000人の残りの者と、数えられたと考えるのですが、ここでパウロは、「恵みによって選ばれ、残った者」と語っています。
6節にも、恵みによるとは、行いによらず、行いによるのであれば、恵みは恵みではないと、パウロは、この恵みによる救いというものを、ここで強調しています。

国を挙げて神に反抗し、預言者を殺すといった狂気が行われている時、身をきよく守るという事、現在でいえば、様々な誘惑や便利さ、自分のことを中心に考える風潮や不景気の中、それでも礼拝を続けていこう、御言葉を第一として神の御心に従い、富み、権力、あらゆる偶像を締め出して神様に信頼して歩む、偶像にひざまずかず歩むということもまた、私たちの行いではなく、恵みによって私たちが数少ない残りの者とされているがゆえの特権として、恵みの結果として与えられている生活であるという事が出来るのではないでしょうか。
この、クリスチャンとしての生活は、きよめられる手段として、救われるための手段としての生活ではなくて、目的となるべき、平安に満ちた生活なのです。私たちは、義を得るがために礼拝生活を送り、クリスチャンとして落ち度のない生活を心がけているというのではなくて、救われ、残りの者とすでにされているがゆえに、恵みのゆえに、礼拝を守ることがゆるされており、クリスチャンとして、すでに生活させていただいているのです。
私たちはいわば免許をとるために修行しているのではなくて、もうすでに恵みのうちに、一方的に認められ、免許をいただいて、クリスチャンとして生かされているのです。

自分の力によってと思えば、どうしてあの人は救われていると言えるのかと、人を裁いたりするものですが、こんな自分でもただ恵みによって救われていると思えば、どなたでもこの恵みにあずかって、ただ救われて頂きたいと願うというものです。

かたくなになったイスラエルのために、異邦人が救われるようになった。そうしてこの遠い東のかなたの日本人の私も、救いに入れられた。これはただ恵みによって選ばれたということです。
誰でもくじに当たって景品がもらえれば、嬉しいと思います。しかし私たちは、神様に選ばれて、少ない選びの、残された者、神様のとっておきの愛するた者中に、不思議と選ばれて、今ここに導かれています。自分の業によってであれば、私たちは自分を誇ります。しかし恵みによって、主の十字架によってです。もしも私たちが自分の身分にあぐらをかいて、救われてある身分を自分の行いのゆえと思い高ぶるのならば、私たちは神の前から根こそぎにされてしまうでしょう。
私たちは、神様の恵みによってただ導かれた。だから同じ恵みによって皆さんも救われて頂きたいと願い、祈り、証しに用いていただきたいと願う、これが教会の民であるのではないかと思います。
しかし、恵みのうち、私たちが知るべきことは、反抗する民、不従順な民に1日中手を伸ばして下さる主のお姿であり、ご自分の民を退けたりなさらない主のお姿です。私たちはまず自分の不出来さにもかかわらず、赦し続け、励まし続け、立て上げ続けて下さる主を経験し、自分がどんなにか行いによっては不適格であるという事を知れば知るほど、主のご用のために整えられるという事を逆説的に知ることが出来るのです。自分ではない、自分ではない、ただ主の御恵みにより、という事を徹底的に知る人こそ、いうなれば、失敗を重ねた人でこそ、良き証し人になれる、行いではなく、恵みによって立たされていると、知れば知るほど、良い証し人になれるとは、本当に慰め深い主の御教えであるという事が出来ると思います。

私も牧師として、人間として主のしもべとして甚だ不適格であると知らされることの連続でございますが、それをゆえに卑下することなく、またそこに居直らず、主の慈しみを味わい、そこからまた今週も出発させていただき、用いられたいと願うものでございます。

 

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