説教原稿

2010年1月3日
「お言葉ですから」
ルカによる福音書1:1-11

新年、明けまして、おめでとうございます。
主を心から愛し、喜びいっぱいで一年間の礼拝を捧げられました教会の皆様と時を過ごすことが出来まして、私ども家族にとりまして、昨年は、本当に良い一年でした。地域で、愛を行い、また愛されていらっしゃいます、証し人の皆様と共に教会生活を送ることが出来ますことは、大きな喜びです。本年も、何卒よろしくお願い申し上げます。
地域の方々との交流も、小川先生の時のようではないにしましても、お陰様で少しずつ広がっているように思います。
妻の入院で、横浜にまいりましたが、やはり東城に帰ってまいりますと、街の雰囲気、住んでいらっしゃる方々の温かい雰囲気、すぐ身近に手が届く自然の表情を感じまして、ほっといたしました。
今年もこの町で、この教会で、愛にあふれる教会の皆様と共に、神様の素晴らしさと、神様の変わらない恵みと赦し、神様のご誠実さとご愛とを、味わわせていただきたいと思っております。
教会にも、教会の皆様にも、色々な問題や試練、悩みが襲いかかることがあるかもしれません。しかしその時こそ、私たちの神様が、身を乗り出して、助けて下さるその時です。むしろ、私たちの周囲の、神様を知らない方々が、助ける人なく、落ち込んでいらっしゃることを覚え、ぜひとも私たちの主をお伝えしたいと願います。

昨月、クリスマスを迎えましたが、クリスマスのメッセージは、「主、我らと共にいます、インマヌエル」でした。神様が、私たちのこの世界にお生まれ下さった。そして、十字架にかかって、私たちの罪の身代わりとなって下さった。これが福音、神様の喜ばしい知らせです。インマヌエルの方は、主ご自身、神ご自身である。そして、私たちを救って下さる救い主である。何と有り難いことでしょうか。
神様は、神様ご自身は、2000年経った今も、私たちと共にいて下さいます。

お読みいただきましたルカ5章でございます。
1節、「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられ」た。
イエス様はこの世界にいらっしゃる。私たちのこの世界に、立っていらっしゃるのです。
すると、「神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せてきた」とあります。
イエス様が語られる言葉は、神の言葉。その言葉を聞こうとして、群衆が押し寄せてきたとあります。
イエス様は、神ご自身。そしてその神の言葉を聞こうと集まる人たちの姿です。
イエス様が立っておられ、その方は神ご自身であり、神が人と共にあり、人は神の口から出るひとつひとつの言葉に聞き入っている。まさにこれは天の光景です。イエス様は、天にあるものを、この地上にもたらすために、来て下さいました。すばらしい光景です。
群衆が、神の言葉を聞こうとして、主の周りに集まっています。
主の言葉の価値は、2000年前も、今日も、変わることがありません。
イエス様のお言葉は、今日も、多くの人たちにとって、いや、造られたすべての人たちにとって、必要であり、押し迫って聞くに値するものです。
この光景が、今日、教会にて再現されますようにと、願ってやみません。

そんな光景からイエス様が目を移されますと、そのゲネサレト湖畔、つまりガリラヤ湖畔ですが、そこに二艘の舟が岸にプカリプカリと浮かんでは沈んでいました。
漁師たちは、舟から上がって、網を洗っていました。
舟には魚がなく、漁師たちには疲労感が漂い、夜通しの漁の疲れに、漁が空振りだった失望とが押し重なって、早く残務処理を終えて帰宅しようと、せっせと手を動かしていたことでしょう。

押し迫るようにして神の言葉を聞いていたという先ほどの状況とは、余りにも似てもつかぬ、無関心の世界です。疲れた目をこすり、せっせと働く彼ら。周りでどんなにありがたい先生がおられようと、どんなにいい話がなされていようと、我関せず。自分の仕事の出来が第一。人間はこの腕っ節一つで世の中の荒波をくぐっていくんだという自負心がそこにはありました。
しかし今日はてんでだめ。自然が相手ですから、こんなこともままあります。腕っ節一つでと意気込みながらも、不漁が続けば、いったい全体生活はどうなるのやらと心配しきって身も細り、何かすがるものがあって、生活が守られれば良いのだけれどと思う時もあります。
これが、古今東西、人間というものであります。
自分の土俵があって、そこで腕っ節を磨き、しかし不安になりますと、そこから色々と願掛けをいたします。それでいいことがあればそれは良い神と判断します。こうして、縁起を担ぎ、願掛けをして、運の良い人生をつかもうと努力します。
だからと言って、熱心に宗教生活を送ろうというものではありません。あくまで自分の生活が主体で、それを良い方向に導いてくれる、ガイド役のような存在、これ程には求めますが、自分ががんじがらめに縛られる、一挙手一投足を指図されるような宗教はまっぴらごめんであります。あくまで、自分があって、引き立てる存在があればそれでいいのです。

イエス様は、じいっと彼らを見ていました。
群衆が押し寄せて来ましたので、イエス様は、声を広範囲に届けるために、群衆から距離をとる必要がありました。湖畔ですから、舟に乗せてもらうのがいい考えでした。
イエス様は、にっこりとほほ笑んで、疲れきって眠そうな憐れな漁師に、頼むかと思えば、いきなり舟に乗り込まれました。シモンペテロの舟とあたりをつけて、乗り込んで頼みこむ。イエス様の大胆な一面を見る思いがいたします。人間をとる漁師の姿です。

舟にどっかりと座られるイエス様を見て、にっこりとそこから頼まれるイエス様のお姿を見て、人のいいシモン、後にペテロと呼ばれる彼は、断ることが出来ませんでした。
人の持つやさしい心、寛大なる心は、神様を迎え入れます。日曜日の礼拝にはいらっしゃらなくとも、優しい優しい方々が、東城にもたくさんいらっしゃることでしょう。それらの方々の舟に乗りこみ、ご生活の一部におじゃまさせていただき、そして何か好意を頼む、こんな伝道の第一段階を学ぶことが出来ます。
いきなり聖書の教えを聞かなくとも、神様や教会の働きには理解を示し、自分にできることなら協力しましょうという考えの方は、たくさんいらっしゃるのではないでしょうか。イエス様は、まずお友達になることを教えていて下さいます。

舟の上からお話になるイエス様。漕ぎ手であるシモンも、一緒になってイエス様のお話を今は、聞いています。
第二段階は、イエス様のお言葉をお伝えするということでしょうか。

さてお話が終わりました。さて、やれやれ岸に帰ろうと思っていたシモンの考えをよそに、イエス様はこう、おっしゃいました。
「沖に漕ぎだして網を降ろし、漁をしなさい」
ズバッと核心を突く質問でした。
まさにシモンの、土俵、職業上の、彼のもっとも自身のみなぎっている、漁に関しての、その領域に、えぐり、入り込む、頼みでした。

世の中にも、様々の職業の方がいらっしゃいます。教会は、たましいの安らぐところ、そして仕事は、自分が頑張るところ。こういう線引きをしている方も、少なくないのではないでしょうか。

イエス様は、シモンの懐に、ずずずっと、入り込まれました。

案の定、シモンはこう言います。
「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」

餅は餅屋。何年も経験している私たちですら、夜通しの漁火漁、火を焚いて、光に集まる魚を一網打尽、これが漁の世界の定石です。あなた様は偉大な先生でいらっしゃいますが、ここはそれは御無理なお考えってもので…そう言いかけたシモンでしたが、イエス様のご表情は、一点の曇りなく、晴天の空のように輝き、太陽のように眩しいくらいの微笑みを浮かべている笑顔でした。
・・・この方の顔をつぶしてはいけない。こんなにも尊敬されている方だ。お付き合いだけでもしてみよう。
人のいいシモンでした。情にもろいシモンでした。イエス様はそれらをすべて、知っておられました。

「しかし、お言葉ですから、私は網を降ろしてみましょう。」
私たちはとは言わなかったシモン。みんな疲れているし、俺だけお形でもやればいいやと、考えたのでしょうか。しかし、仲間も、もう一艘の舟も、彼に同行しました。

「漁師たちがその通りにすると」つまり、神の子イエス・キリストのおっしゃる通りにすると、「おびただしい魚が入り、網が破れそうになった」とあります。

昼日中に、ズシリと、網に手ごたえが。何か木にでも引っかかったかといぶかるほどです。しかし、たぐれば手繰るうちに、ピチピチと跳ねる姿、眩しいくらいに光を反射して、ピチピチジャバジャバと魚が動き回るその網を見て漁師たちは、わっとお祭りのように胸が高まり、舟の上は忙しく、活気づきました。
おい、おーい、無理して引っ張るなよ、網が千切れそうだぞ。
だめだ、おーい、そっちの舟、来てくれー、一緒に挟んで水揚げしようぜ!
合図を送り、もう一艘の舟が駆けつけました。もう一艘の舟もまた、自分たちの漁場におり、イエス様のいる場所にはいなかったところを見ると、彼らの思いのうちが分かるような気がします。

舟二艘で挟み込んで、魚をすっかり上げたころには、二艘の船は魚でいっぱいになり、ぐんぐん沈んで、水位が上がり、波が来たら水が入り込むような気配でした。

これを見たシモン・ペテロは、ハッと気がつきました。
こんなことはあり得ないことなのだ、と。
そして、目の前に、輝く笑顔でいらっしゃるこの方が、すべてを起こされたのだという事に気がつきました。

彼は即座に、イエス様の膝のあたりにひれ伏して、言いました。
「主よ、私から離れて下さい。私は罪深いのです。」
彼は、自分の前にいる方が、自然をも支配する方だと直感的に分かったのです。自分とは比べようもない、聖なる、力に満ちたお方であることを理解したのです。
それに比べれば、自分はちっぽけなもの、この足元の魚にも追いつかないほど、彼は、自分が上に立って、折角のお言葉ですからと、主にお付き合いするなんて、とんでもない、この方こそ、私がつき従うにふさわしい方と、気がついたのです。
彼は神様のきよさに打たれていました。この屈託のない表情、愛の眼差し。しかし私はこの方を疑っていた。偽善者ではないか、いいこと言って、だまそうと思っているのではないかとさえ疑っていた。しかしそれらの一切は、自分のうちから出で来るきたなさであって、この方には一切そういうものがない。 愛、恵み、慈しみ、私心なく、恵もうとしていらっしゃる方、救おうとしていらっしゃる方。

「私のようなものから離れて下さい。罪深いのです。」
この告白から、彼は自分というものに徹底的に破たんし、神様の前に、空っぽの状態になっていることが分かります。

この状態こそ、人が一番強い状態です。人の知恵、経験則、一切合財を神様の前に放棄し、降参し、神様の前に謙虚にひれ伏す。ここではじめて、シモン・ペテロと名前が紹介されています。ペテロすなわち岩。神の砕かれ、粉々にされ、しかし砕かれることのない岩にされた瞬間でした。

イエス様は、「恐れることはない、今から後、あなたは人間をとる漁師になる」とおっしゃいました。
罪におののく人を受け入れ、罪人を忌み嫌い、さげすみ捨て離れる神ではなくて、そのようなものをこそ喜び、受け入れ、十字架の贖いによって救いだすお方です。

人間をとる漁師に。

彼らは、何もかも捨てて、イエス様に従いました。

大漁の舟と共に岸に帰った彼ら。群衆は、目を丸くしたことでしょう。
神を信じ、御言葉の通りに生きる私たち。そして祝福を目の当たりにして、それが証しとなっていきます。
人をとる漁師、イエス様に見習い、私たちも育てていただき、たましいに近づき、たましいを主の弟子とし、喜ばしい務めへと、いざなう務めを今年も、させていただきましょう。

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