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説教原稿

2009年12月27日
「なぜ怖がるのか」
マルコによる福音書4:35-41

今朝、気持ちの良い朝の空のもと、ここ教会でまた、イエス様に出会う事が出来ますこと、本当に感謝なことでございます。
愛にあふれ、互いに愛し合っていらっしゃる教会の皆様は、イエス様と共に歩んでおられる方々です。
イエス様に愛され、イエス様を愛し、喜びに耳あふれている皆様です。

さて、今日お読みいただきました個所は、余りにも有名なところです。
私たちの人生と言いますのは、実に神学校みたいなものだと思います。
主が先生です。私たちは生活訓練を受けます。
主は付きっ切りで私たちを導いて下さるのです。

今日の個所にも、主の深い深い愛が、感じられます。
主は私たちの信仰が増し加えられるように、どんなときにもどっしりと、揺れ動くことがないように、仮に取り乱しても、すぐに平安を取り戻せるようにと、願い、教え導いて下さるのです。

そのような主の愛の眼差しは、弟子たちだけにではなく、すべての人に注がれていました。群衆にもです。イエス様は、群衆が、弱り果てて倒れている飼い主のない羊たちのようだと、深く憐れまれました。
イエス様は、愛と憐れみの方です。
何かが欠けているのなら、それを満たしたいと考えて下さる方です。ご自分のことを脇において、否、御自分の一番大切ないのちさえ投げ出して、私たちに与えてもいとわない、そういう方でいらっしゃいます。この方がこの世の中にお生まれ下さいました。もともと世の初めからおられましたが、2000年前、私たちと同じ人間として、この地上を生きて下さいました。神ご自身です。神ご自身が、私たち人間と同じ人間として、この地上を歩いて下さったのです。そして愛にあふれる御業をなして下さいました。
朝から晩まで、語り、励まし、悔い改めて、福音を信じるように、語られました。福音とは、良き訪れのことです。良き訪れとは、神の子イエス様が人として下られ、私たちの至らなさと、自己中心の、罪のために、身代わりとなって、十字架について下さったということです。このことを、私のための神様からの恵みのプレゼントとして、ありがとうございます、信じます、私の罪をお赦し下さいと祈れば、私たちは直ちに赦されて神の子となることが出来ます。

朝から晩まで、イエス様は、語り、癒して下さいました。遠くから、続々と病気の人たちが詰めかけました。遠くから、続々とおはないを聞きたい人が、詰めかけました。時に群衆に対して語られ、時に、ひとりひとりに手を置いて、夕暮れまでひとりひとりに相対して癒して下さいました。
弱り果てて、倒れて、打ちひしがれているひとりひとりを、深く憐れみ、その愛の極みまで現わして下さった、私たち人間の造り主なる神様のお姿です。

35節、この日もまた、夕刻になりました。暗くなってくるまで、イエス様は今日も、愛のかぎりにご奉仕して下さいました。
なおもイエス様はおっしゃいます。
「向こう岸に渡ろう。」
向こう岸には何が待ち構えているのでしょうか。
5章1節からは、岸の向こう岸がゲラサ人の地であること、そこに、墓場に住みついて、鎖につながれても驚異的な力で鎖を引きちぎったり、叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた、ひとりの人のことが記してあります。大勢の霊に取りつかれた、憐れな人が住んでいました。
「向こう岸に渡ろう。」
夜に、墓場に生き、ましてやそのようなたくさんの悪霊に取りつかれた、獣のような人と出会うというのは、何という恐ろしいことでしょうか。
しかしイエス様は、彼を見つめ、憐れみの気持ちで進んで行かれます。

しかし、この「向こう岸に渡ろう」という言葉は、弟子たちのためのものでもありました。
向こう岸に渡ったとき、弟子たちは、新しい信仰の訓練を得ていたのです。ゆるぎない、主への信頼に満ちあふれていたのです。
しかし、向こう岸に渡るまでに、弟子たちが経験したことといえば、それは、あわや自分のいのちを失うほどの、厳しい経験でした。そんな危険を経験すると分かっていたならば、弟子たちはガリラヤ湖を渡ろうなんて望まなかったでしょう。
弟子たちのうちの何人かは、ルカ5章の大漁の奇跡からも分かりますように、ペテロやアンデレ、ヤコブやヨハネなど、プロの漁師でありました。彼らにとってガリラヤ湖は、職場です。365日、24時間、だいたいどんなふうに湖の表情を変えるのかは、すっかり判り切ったことでした。ルカ5章に、「私たちは夜通し苦労しました」とありますように、夜の漁にも慣れていました。
しかしこの日は違いました。あの大漁の奇跡の時と同じように、彼らの経験則では推し量れない、まさに神様のご配剤があらわされたのでした。

「向こう岸に渡ろう。」
いよいよその時が来ようとしていました。
私たちも、そのような時があるかもしれません。
主が、愛に深き主が、私たちのために、そして、誰かのために、私たちに、「向こう岸に行こう」とおっしゃることがあるかもしれません。
それが考えられないようなこと、想像も出来ず、対処も出来ず、にっちもさっちもいかず、万事休すということにもなってしまうかもしれません。
それでも、主には、すべてが御存じです。
主は、私たちに益になることしかご計画なさいません。ローマ書の8章28節に書いてあります。

経験したくないこと、辛いこと、出来れば避けたいこと。そんなことが、私たちの平穏な人生という小舟の上に、嵐が起こることがあります。
しかしそれは主のご配剤、私たちに大きな益をもたらすための、主のご計画なのです。

弟子たちは、群衆に別れを告げ、出かけます。
イエス様は、おびただしい群衆のゆえ、度々したことですが、湖に舟を漕ぎだして、海風を後ろから受けて、さながらコロセウムのように、競技場の下から観客席に声を届けるように、下から上へと、お声を届けていらっしゃいました。
その船に乗ったまま、漕ぎだした弟子でした。
沖へ出でよ、岸を離れ、主の恵みのただ中へ、いざ漕ぎ出でよ、という聖歌の歌詞がありますが、あるいは皆様は御存じの歌かもしれません。
何艘かの舟が、イエス様を載せて、弟子たちと共に出て行きました。
しかし昔、湖といいますところは、特に暗い夜の水を想像しても分かりますように、その深みに何か悪しき魔物が隠れ住んでいる、何か混沌とした力が潜んでいると考えられていました。足の届かない深みを泳ぐとき、私たちも、言い知れぬ怖さを思うのではないでしょうか。
去年今年と、福山教会の教会学校キャンプに合流させていただき、大変楽しく、また良き学びをさせていただきました。
今年は山、去年は海でしたが、去年、私は素知らぬ顔で何も申しませんでしたが、不覚にも、海でおぼれかけました。長男を肩車して、海の深いところにどんどんどんどん、さあ怖いだろ、さあ水が冷たくなってきただろと、怖がらせて、からかおうと思っていましたが、まさか私が逆の身になるとは思いませんでした。私は自分の目の下の所まで水が来るところまで歩いて、時々がばっとしゃがんで、子どもをキャーキャー言わせていましたが、ひょっと後ろにもう一歩足が進むと急に深くなり、私はすっぽりと水に沈んでしまいました。肩には子供が乗っており、頭が水面から上に上がりません。子どもを振り落としてもいいのですが、子どもも深いところでびっくりするでしょう。私はあわてて力の限り、子どもを担いだまま、水を飲みながら、必死に足の届かない海を泳ぎました。あの平和なビーチがどこか別世界のように思え、自分が彼岸に行ってしまったのように思いました。そして、足が地に着いた時、何と嬉しかったことか。ほっといたしました。
陸に上がり、皆さんが気付いていらっしゃらないのを見てほっといたしました。妻は、溺れているかと思ったが、何も出来ないし、大丈夫だろうと思って見ていたと言っていましたが、それを聞いて、吹き出してしまいました。

弟子たちを乗せた小舟。風が吹いてきたと思いきや、どんどんどんどん。強くなり続け、しまいに舟は木の葉のようにくるくると翻弄されました。
ビュー、ビュー、ものすごい風です。弟子たちは息をするのもつらい風の中、サバーン、ザバーン、今度は、大波が容赦なく、舟の中に入り込んできます。水をかき出しかき出し、船が沈没しないように、沈まないように、深い深い嵐の湖のただ中で、慣れ親しんだガリラヤ湖の真ん中で、弟子たちは、命がけで戦っていました。
すさまじい強風と波。 波風の中、もがく弟子たち。元漁師のプロである弟子たちでもあります。それでも容赦のない波風。もはやこれまでか。ああ、もう万事休すか。クタクタで力がなくなり、体は冷え切り、しかし何の努力のかいもなく、しかし大自然の波風は、圧倒的な体力で襲いかかり続け、弟子たちを苦しませます。
もう駄目だ…。

38節「しかし」です。しかし。大きな言葉です。しかし、主イエス様はといえば。艫(とも)の方、舟の上席で枕をしてぐうぐうと寝ていらっしゃるのです。何か滑稽な、コミカルな、ちぐはぐなお姿ですね。朝から晩まで、疲労困憊でいらっしゃったのはよく分かります。でもこんな嵐の中でも良く起きずに寝続けることが出来るものだと思います。

弟子たちは、どうして、どうして、なぜ?と、イエス様を一生懸命に揺さぶって、揺さぶり続けて、叫び続けています。
「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」
「あなたの弟子の、私たちがおぼれて死のうとしているのに、なんとも思われないのですか。」
そうとしか思えない出来事でした。
尊敬して、ついてきました。仕事を捨て、今までの生活を捨て、主だけにおすがりして、生きて来ました。それなのになぜ。この時、このいのち極まるかという大事のときに、どうして主は沈黙なさるのか。助け賜わないのか。どうして私をお見捨てになられるのか。
なぜ、なぜ、なぜ。

この方は、本当に信頼できる人だったのだろうか。
この人に従ってきて、正解だったのだろうか。

大嵐の中、いのちの危険の中、彼らの信仰もまた、波風によって消え入りそうになっていました。

イエス様は、困難の中、いのちの危険の中、波風の中、本当に、助けて下さる方なのでしょうか。私を苦しめる悪しき霊にもまさって、力強く、私を守って下さることが出来るのでしょうか。
日々ひたひたと襲いかかる、色々な恐れと不安。将来の不安、健康の不安、人間関係の不安。仕事の不安、経済の不安、家族の不安、不安から来る恐れ。これらを数え上げたら、きりがありません。

39節、「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。」

イエス様はついに起き上がられました。
そして神の口で、お言葉を発せられました。
風を叱り、湖に黙れ、静まれと命令されました。

あれだけごうごうと静まるところのなかった吹き荒れていた波風が、なくなり、見る見るうちに、すっかり凪に、直訳すれば、大変な凪になったと書いてあります。静かな湖を比べても、静かな中でも大変静かな凪になったというのです。激しい波風が、非常な凪へ。これは超自然的な現象でした。

唖然として立ちつくす弟子たち。

イエス様は、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」とおっしゃいました。
なぜ怖がるのか。この言葉は、非常にレベルの高い質問のように思われます。誰だって怖い時はあります。恐れます。なぜかと聞かれれば、自然に怖気づいてしまいますと、答えざるを得ません。まだ信じないのか。これに関しては、分かります。
弟子たちは、主イエス様が、どんな時でも、どんな状況でも、全世界を支配しておられる方であるという事が、分かりませんでした。
「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

もしも私たちが、イエス様を信じるなら、全世界の支配者と信じるなら、恐れは消えさります。このみ言葉は、そのことを私たちに示しています。

41節、「弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえ従うではないか」と互いに言った。

なぜ怖がるのかといわれているのに、「弟子たちが非常に恐れて」という言葉があることが面白いのですが、3番目の「非常に」という言葉です。非常に強い風に驚き、非常な凪に驚き、最後には、イエス様が風や湖まで従わせるとは一体、この方はどなたなのかと、非常に恐れたというのが3番目です。
これは神様への畏敬という恐れでしょう。神様という方は、私たちが思っていたよりももっともっと恐れ多い、力強いお方だったのだという、気付きです。
味わい深い、3つの「非常な」という言葉でした。まず最初に「非常な」嵐に驚き、そして、「非常な」凪に驚き、そして、「非常な」恐れ、畏敬と信仰に導かれる。まさに私たちの一喜一憂する人生そのものであります。突如襲う嵐も、主が驚くべき凪に変えて下さいます。そして、私たちの心の、信仰の嵐も静められ、いったいこの方はどういうお方かと、新たな恐れと信仰を呼び起こすのです。

イエス様は、初めから終わりまで、弟子たちと共にい続けて下さいました。同じ舟の中に、い続けて下さいました。
力強い主は、私たちの人生の舟の中に、ずっとともに、い続けて下さいます。
「怖がるな、信じなさい」こう言いながら、共にいて下さいます。

悔い改めるべきは、わが不信仰です。
波や風は、湖は、主のお言葉に聞き従うのに、
私は、何と主の御言葉に対して、主の御力に対して、不従順なことでしょうか。

「怖がるな、まだ信じないのか。」

信じます。そして御声に従います。
今週も、主が私たちの舟に同船していて下さいます。
思わぬことが起こっても、主が御存じないことはありません。
主を世界の支配者、慈しみ深い神と信じて、今週も、主のしもべとして、主の深い憐れみの担い手として、歩ませていただきたいと、切に願うものでございます。

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