説教原稿
2009年12月20日
「あなたのためにお生まれになった救い主」
ルカによる福音書2:1-21
クリスマスの朝です。
イエス様がこの地上にお生まれ下さいました。
この現実は、二千回以上そのお誕生日ごとに祝っても、まだ新鮮に、驚きと、感謝と、幸せとを持ってまた新たにお祝いしたい出来事です。
神様が、人として、この地上に生まれ、十字架にかかり、私たちの罪を贖って下さった。
このことは事実です。イエス様の不思議な誕生から、贖い、よしてよみがえりは、一つの太い、大きな神様のご計画の中に、貫かれています。
ルカは、イエス様の誕生に先立って、高齢の、不妊の女性エリサベトが子供を授かったことを記しました。奇しくも、祭司である夫でさえ信じられないような展開で、これ以上ない不思議な導きの中、ヨハネを授かりました。
そして、マリアです。高齢とは反対に、年若く、まだ男性を経験しなかった娘が。
これもまた驚きの展開です。
しかし、これは、事実であります。
神様は、新しい、恵み深い業を始められました。それは驚きの連続、考えられないことの連続です。
しかしこれこそが、人のシナリオではない、神様のシナリオであることの証しなのです。
ルカは、「すべてのことを初めから詳しく調べ、順序正しく書」くべきものとして、その福音書を記しました。ルカは歴史学者のように、綿密に、事の起こりを記録しました。
皇帝アウグストウス。そして住民登録、キリニウスがシリア州の総督であったとき。
その初めの住民登録。
これらは、歴史的事実に基づいて語られています。クリスマスの降誕の、歴史の事実を裏付けるものです。
クリスマスは、本当に事実として、私たちのこの世界に、もたらされた。これが第一のポイントです。
第二に、イエス様は、どのような方としてお生まれになったのか。これがポイントです。
肉の父ヨセフとは、どういう人だったのでしょうか。
折しも、住民登録の時でした。14年に一度行われたというお話もありますが、まさに、今住民登録であります。
住民登録とは、おのおの自分の町に戻って、登録することが定められていました。
そしてマリアの夫、ヨセフは、ベツレヘム、ダビデの町へと向かいました。
ヨセフは、ダビデ王の子孫でした。
ベツレヘム。それは、あのルツ記の舞台、失意と悲しみのナオミとルツが、義母の故郷に帰って来たところから、花開きました。ベツレヘム。ここで失意のルツは、ボアズに出会いました。
異邦人のルツ。それが、母ナオミの信仰によって変えられ、「あなたの神は、私の神」と告白し、イスラエルの神様、天地を創造された神様は、ルツを祝福して下さいました。
ボアズとルツの子は、オペド、その手はエツサイ、その手は、ダビデです。ダビデは、ここベツレヘムで、羊を飼っていました。
跡取り息子に先立たれ、残されたのは異邦人の嫁のみ。このような状況でも、神様は、神を信じるご自分の子供を、保って下さいます。このストーリーは、今日の羊飼いたちの礼拝にもつながるのではないでしょうか。
住民登録。この出来事から、私たちは、歴史の年代と、イエス様の出自というものを知ることが出来たのです。神様はすべてを用いてご自分の業をなされます。まさに歴史の主でおられます。
住民登録が終わったら、また元いたところに戻って出産するつもりだったでしょう。
しかし、ちょうど彼らにとっては運悪く、しかし神様のご計画では、ドンピシャリで、ベツレヘム、ダビデの町、王の生まれた町で、王の王、主の主はお生まれになったのです。
どうしてこんな身重の時に、住民登録なんて。14年に一度の住民登録なんかに引っかかるのか。臨月、産み月のマリアと苦しんだでしょう。ヨセフも必死になって介抱しました。しかし、それが神様のご栄光を明らかにするのです。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
神様のご計画は万全、安心、完全です。
私たちは、神様がなさるひとつひとつの新しい、恵み深いお導きに、身を委ねていれば、それで良いのです。
突如として襲いかかる色々なことがあるかもしれません。しかし、大船に乗った気持ちでいれば、それで良いのです。
神様が、最善をなしていて下さいます。
万事を益と、して下さいます。
住民登録の時。そしてベツレヘムで子供を生むということ。これは神様のご計画でした。
つらい旅路だったでしょう。不安だったでしょう。しかし、ベツレヘム、ダビデ王の町ベツレヘムでイエス様が生まれるという事が、あのマリアの受胎告知の時の「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座を下さる」という言葉の成就なのです。
さて、月が満ちて、マリアは、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉おけに寝かせたとあります。飼い葉桶?どうしてダビデ王のすえ、いと高き方の子が、飼い葉桶に?
「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」
人の住むところにはことごとく受け入れられず、冷たく寒く、臭い馬小屋で、温かい布団の上でなく、ごつごつとして、冷たい、清潔でない飼い葉桶の上に、イエス様は、お生まれになりました。
何ということでしょうか。
誤りです。 手配ミスです。 手違いです。
どうして、天地の造り主が、王の王、主の主、神の子、いや神ご自身イエス・キリストがお生まれになったのに、人はこのようなお迎えをするのでしょうか。
いえいえ、間違いではありませんでした。
これが人の本心なのです。
人は、自分のすることで手いっぱいで、神のひとり子を心の中にお迎えする準備など、出来てはいなかったのです。
馬小屋で生まれ、町の外のゴルゴタの丘、どくろの丘で十字架刑にされたイエス様のお姿を見上げます。
あなたはどうしてこんなにお苦しみになられたのですか。
どうしてあなたはこんな屈辱に耐えて下さるのですか。
どうしてあなたはこんな苦痛に耐えることが出来るのですか。
答えは、私はあなたを愛している、私はあなたが滅びることなく、永遠のいのちを持つために、そうしたのだという声が返ってくるのです。
住民登録でごった返していたのは、分かります。予約がなかったのは、分かります。
仕事で忙しくて、手いっぱいなのは、分かります。でもどうして、どうして、一軒でさえ、身重の母親だけでも、受け入れてくれる宿がなかったのでしょうか。
これは、人の冷たさをあらわしているのではないでしょうか。
人が他者を、本質的に、受け入れることが出来ず、自己中心で思いやりの心のないことを示しているのではないでしょうか。
馬小屋のイエス様。ああお痛わしや。
イエス様の誕生には、何も歓迎がないのでしょうか。
いえいえ。そうではありません。イエス様のお誕生には、それにふさわしい、最もふさわしいお客様が、用意されていたのです。
羊飼いたちです。彼らは、24時間、羊の番をしていましたから、時に安息日も守れず、手を良く洗って食事をとるという、律法の規定も守れず、汚れた人として、軽蔑されていました。
人は外見で判断しますが、神様は、心のうちをご覧になります。
神様は御存じでした。彼らが神様を愛し、純粋で素直で、人を愛し、真面目に働き、良く自分の羊の世話をしているのを。
夜通しの羊の番。寒いでしょう。眠さとの闘い。迫ってくる敵との戦い。群れを守る番人です。彼らのお陰で、羊たちは、ぐっすりと休みます。
夜、昼の光のように明るい光がパッと羊飼いたちの辺りを照らしました。彼らは何事かと恐れ、非常に恐れました。
背中を丸めて、目を覆い隠し、ブルブルと震えていたかもしれません。
神様のご栄光とは、私たちの想像を超えた輝きです。
神様が突然私たちの目の前にお現われになったとしたら、その正しさ、その威厳、その雰囲気、その大きさ、その圧倒的なご存在のゆえに、私たちは、立ちおおせることが出来ないでしょう。真夜中に太陽が出る、それ以上の鮮烈な強い光が私たちに降り注ぐことでしょう。私たちは、その主の栄光の前に、立つことができません。
初めは神の園で、神と共に平和に住んでいたのに。どうしてでしょうか。
神との間の隔たりのゆえ、です。
人は、神様のお言いつけを守らずに、蛇の言う事を信じて、神に背いてしまいました。
神の御心に生きない、神のように目が開け、自分が神のように善悪を判断する、これが罪の性質です。
悲しいかな、今、世界では多くの人が聖書の神様の御心に生きるということよりも、自分の判断で生きています。
しかし、私たちは、神の栄光の前に、すべての自分のはかりごとを清算させられる、その時を迎えるのです。
神様の絶対的な光を前にして、人は、自分なりに正しいと思っていたこと、真っ白に正しいと思っていたことが実はしみだらけであったことに気付くのです。黒いしみの数々に気付かされ、全くしみも汚れもない純白の神の前に出られず、人は、非常に恐れるのです。
この恐れは、人の、神の前に立てない、本質的な恐れを指しています。
しかししかしです。
その本質的な恐れに対して、み使いは、「恐れるな」と言うのです。
恐れが取り除かれる。それは罪を取り除く、キリスト・救い主が生まれたからです。
民全体に与えられる大きな喜び。
信じる者すべてに与えられる、民全体に与えられる大きな喜びです。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
王ダビデの町ベツレヘムで、あなた方のために、救い主が、お生まれになった。
羊飼いたちに語られた御言葉です。
軽蔑されていた、律法の規定も良く守れていなかった、薄汚い、相手にされない、みすぼらしい、自分たちに、救いが与えられた。あなたに与えられた。このわたしに、与えられた。
どうしてこのわたしにみ使いが現れて下さったのか。
どうしてこのわたしがイエス様を礼拝する者とされたのか。
あなたのために救い主がお生まれになった。こう、み使いに示していただいたのです。
私たちも、神様によって、イエス様を知るものとして頂いて、今礼拝の場に導かれています。何という幸いでしょうか。
この羊飼いたちを続けて見てみましょう。
「あなた方は、布にくるまって飼い葉おけの中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方のしるしである。」
先ほど、マリアがどうして身重の時に住民登録にあたってしまったのか、どうして不運だったのかと申しました。いえ、神様のお導きです。ダビデの町、ベツレヘムで王の王イエス・キリストを産むためですと申しました。
どうしてイエス様が飼い葉桶の上で、馬小屋の中でお生まれになったのかとも、申しました。それは、羊飼いたちのためのしるしでした。
たくさんの人たちのことですから、ちょうどこの時生まれた赤ちゃんも、あるいはいたことかもしれません。しかし、羊飼いたちがイエス様を見つけることが出来るように、しるしとなるように、イエス様は、馬小屋に、飼い葉桶の上に、生まれて下さったのです。
人のためのしるしとして、神でありながら、自ら馬小屋に横たわって下さる神のひとり子キリストのお姿です。
人のために、十字架について、血を流し、いのちを捨てて贖って下さるキリストのお姿です。
この謙遜のしるし、受難のしるし、神が人に仕えるしるし、神が人に見つけ出されるしるしのゆえに、神の救いのしるLがはっきりと今、地上に目に見える、赤子の姿としてあらわされたことに、天の軍勢が賛美の声を上げました。とどめることが出来ない、大水のような轟きです。
「いと高き所には栄光、神にあれ、
地には平和、御心にかなう人にあれ。」
神の栄光があがめられますように。ひとり子をこのような姿で、しるしとして世にお与えになられたいと高き神様に栄光がありますように、
地には、平和がありますように、神の御心にかなう人に。
この平和と言う言葉は、神様との和解からもたらされる平和です。人が神様の前に御心にかなうものとして造り変えられ、神との平和を頂くときに、本当に心の平安はもたらされます。そして世界に平和がもたらされます。
これを成し遂げる、罪を取り除く、和解のいけにえが今、この世に与えられたのです。
馬小屋に、まぶねの上に生まれることも、羊飼いたち、ご自分の礼拝者に見つけられるために喜んで受け入れて下さるイエス様。
イエス様は、どこまでも身を低くして、礼拝者に見つけられようと、しるしとなっていて下さるのです。
羊飼いたちは、素晴らしい讃美の歌に力づけられて、暗い夜、光に向かって歩み出します。
主のお言葉に従って歩み出す、人たちの何と幸いなことでしょう。
ああ疲れているんだ。羊たちもいるし、どこにいるかも分からない、赤ん坊を探すなんて、ばかげている。こう思って、その場でじっとしてはいませんでした。
羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせて下さったその出来事を見ようではないか」と話し合ったのです。
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」ルカ1:45
最初の礼拝者たちは、無事、イエス様を探し当てました。神様が教えて下さったとおりでした。み使いが語ったその光景の通りだと喜びあう羊飼いたち。神をあがめ、本当に神様は生きていらっしゃると肩をたたき合う羊飼いたち。 私たちのための救い主、ばんざい!救い主ばんざい!小さな小さな赤子を前に、子供のように小躍りする羊飼いたち。マリアは、不思議なこの出来事を心に納めて、思いめぐらしていました。
神様がおっしゃる良いご計画は、必ず実現する。すべて守られる。すべて良きことにされる。
そしてその影響は日ごとに広範囲に、世の隅々まで及ぶ。
イエス「主は救い」という名前を付けられた我が子は、これから救い主としての歩みに進んでいきます。
私たちの今の状況に、困難があるでしょうか。神様は、不思議な、大きな喜びを、救いの業を、私たちに与えて下さいます。
救いのわざは、もう2千年前から、いえ、この地上が形作られた前から、始められているのです。神様に信頼いたしましょう。
さあ、救い主、イエス様に会いに行こうと小躍りした羊飼いたちのように、神を賛美し、その賛美の声を上げて次の人に主のご降誕をお知らせしたいと、天の軍勢と共に、私たちも歌いたいと思うのです。
「いと高き所には栄光、神にあれ、
地には平和、御心にかなう人にあれ。」
クリスマス、おめでとうございます!
イエス様、お生まれ下さって、本当に、ありがとうございます!
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