Warning: Undefined array key "HTTPS" in /home/tojokyokai/public_html/includes/head.html on line 16

説教原稿

2009年12月6日
「幸いな者」
ルカによる福音書1:39-56

私たちは、アドベントのこの時、聖書から、世界ではじめでのクリスマスの出来事を読んでまいりました。
2000年前の最初のクリスマスはどんな様子だったのでしょうか。
まず祭司ザカリヤにみ使いが現れました。
年老いた自分と妻に対して突然の子供を授かるという知らせに、それが良き知らせであるにもかかわらず、ザカリヤは、すっかりしり込みをしてしまいました。
信じたいという気持よりも、信じられないという気持ちがまさってしまったザカリヤでした。主の怒りを受け、彼は口がきけなくなってしまいました。

次にマリアにみ使いが現れました。
マリアもまた戸惑いました。一体どうしたらそのようになるでしょうかと、一度は尋ねました。しかしマリアは、信じようという気持ちがまさりました。
「あなたのお言葉どおり、この身になりますように。」
こう言う事が出来たマリア。
しかし、マリアのいいなずけのヨセフは、マリアから懐妊の知らせを聞いた時、大変に悩みました。マタイによる福音書に記してありますが、ヨセフは、このような状況ではマリアが不貞の罪で石打ちにでもされると思い、このことを表ざたにせず、ひそかに縁を切ろうとしました。
ヨセフは、始め、信じることが出来なかったのですね。無理もないことだと思います。律法の規定もありますし、大体そんなことは前代未聞です。処女懐胎、そのミステリーは、人類が経験したことのないものでした。

しかし、み使いは、ヨセフの夢の中に現れ、恐れずに妻マリアを迎えなさいと語ります。マリアのおなかの子は、聖霊によって宿ったと語りました。生まれてくる子供は、自分の民を罪から救うから、「イエス」(主は救い)という名前をつけなさいとお告げがありました。ヨセフは、信じました。

一人一人の信仰によって紡がれていく、クリスマスストーリー。
奇想天外なお話、高齢の女性が身ごもり、おとめが身ごもるストーリーが始まったのです。

どうしてこのような舞台設定なのでしょうか。、このクリスマスが、人によってではなく、ただ神様によってのみ始められたという事を指し示しているのです。

受胎告知の時、み使いがマリアに言った言葉、「あなたの親類、エリサベトも、年をとっているが、もう6か月。神に出来ないことは何一つない。」この言葉に励まされたマリアでした。「ああ、神様のストーリーはもう始まっているのだ。」そう感じた、マリアでした。
このような意味で、バプテスマのヨハネは、本当に主イエス様の道備えをする者でした。
あの高齢のエリサベトに、赤ちゃんが与えられた。この不思議な神様の御業によって、マリアにとっても、同じ神様が、私にもくすしき御業をなさっているのだという信頼を生んでいたのです。

マリアは、不思議な御業の導きを受ける者同士でぜひ出会って話したいと、妊娠6か月の親類エリサベトのもとに急ぎました。急いで向かった。出会いを切に願って足早に進んだと、書いてあります。
私たちが教会に集うという事、それは、礼拝の中に臨在して下さる主ご自身にお会いするということと同時に、主のくすしきお導きを頂く者同士が、信仰を共有し、励まし合うためという、大切なことをも含んでいます。

マリアとエリサベトの出会い、それはすなわち、それぞれのおなかの中にいるバプテスマのヨハネとイエス様との出会いでした。
神様の新しい御業が始まろうとしていました。
ヨハネが罪を明らかにし、悔い改めを迫り、そしてイエス様が十字架につかれ、罪を赦して下さるということ。神様の、組み合わせて下さったひと組のチームが、初対面した瞬間でした。

マリアがこんにちはとあいさつした瞬間、いや、ハレルヤ、主を賛美しますと挨拶したでしょうか、その声を聞いた瞬間、なんと、エリサベトのおなかの中の6か月の赤ちゃんが踊り出しました。

どうしてでしょうか。
イエス様がこの地上に来られたからです。
おなかの中のヨハネは、おなかの中にいながら、同じくマリアのおなかの中に宿り賜いた主キリストに喜び踊った。これは不思議な不思議な出会いでした。

高齢のエリサベトに子供を授かる。おとめマリアに子供を授かる。おなかの中の子供が主をほめたたえて踊り出す。これが初めてのクリスマスの出来事でした。
あり得ないことが起こる。可能性のないことが起こる。そしてそれこそが、即ち、神様の御業でした。すべては、人の力によってではなく、神様のご計画、緻密なお膳立ての中にある。何も心配はいらない。ほら、私のおなかの中の小さな子供までがイエス様に出会って感謝している。さあ、これはきっと神様の御業だ。神様の御業に間違いないのだ。私が今歩いている道、導かれている道は、主の道、安全、安心、大丈夫だ。感謝の道だ。
エリサベトは、聖霊に満たされました。 すべての恐れから、不安からも、解き放たれ、ただ主のご臨在を信じて、感謝に満たされ、力に満たされる。ハレルヤ主は生きていらっしゃいますと、叫ぶその時。これが聖霊に満たされているということです。
聖霊に満たされて、エリサベトは声高らかに言いました。
「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。私の主のお母様がわたしの所に来て下さるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にした時、胎内の子は喜んで踊りました。
主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう。」
主キリストを宿すことになったのは、マリアのまっすぐな信仰のゆえでした。
主がおっしゃったことは必ず実現する。そう信じる。これが幸いへの道です。
詩篇1篇の幸いの道、イエス様の山上の説教の幸いの道は、すべてここにつながっています。

年をとっていても、若くても、まだ生まれてこないおなかの中の赤ちゃんでそえあっても、神様の手から遠く離れている存在はありません。まさに、「神に出来ないことは何一つない」のです。
私たちの悩みや問題を山のように書き表しても、主にとって不可能なことは、何一つありません。
「主がついてれば、怖くはないと、聖書の中に、書いてあります。」という讃美歌の通りです。子の平安に生かされることこそが、聖霊に満たされているということです。幸いということです。主を信じきっているという事、主には不可能なことはないという事、主のお言葉は必ずなると信じきること。これが幸いの道です。

マリアもまた、母のおなかの中の赤ちゃんが踊り、エリサベトが聖霊に満たされ語るのを聞き、聖霊によって語り出します。
マリアの賛歌です。
「私のたましいは主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。」

私のたましいは主をあがめる。どんなときにも主をあがめる。
信じる材料に乏しい時でも主を信じる。これがマリアの賛歌の第一声です。
この、主をあがめるというところの、「あがめる」という言葉は、ギリシャ語では、「拡大する」という意味です。「主を拡大する」というのがここでいう、「主をあがめる」の意味です。どうしてでしょうか。
私たちは、実に、「主を縮小」しています。縮小コピーをしているのです。大きな大きな神様、神様のその偉大さとその御業を、私たちは、いつも縮小して受け取っています。間引いています。自分なりに信じています。あり得ないところを勝手に切り捨てています。しかし神様の御業は、偉大です。私たちの知るところよりももっと大きいのです。私の理解をはるかに超えて大きな御業をなさるのです。
マリアはそれに気付いたのでした。それゆえ、自分の不信仰に気付かされ、主を大きく、より大きく、はるかに大きく、私の目の前に、あがめますと、告白しています。

たましいと霊。私たちの心のさらに深く、土台となるべき、私たちの本質の部分で、私たちの感情も、喜怒哀楽も働かない、私たちの深い深い本質の部分で、主をあがめ、救い主である神様を喜びたたえる。こう宣言しています。
私たちは、表面的なところでは、日々浮き沈みをしています。信仰生活の中においても、例外ではありません。いつも調子がいい時ばかりではありません。いつも祈りに熱心で、賛美を奏でながら生きていけるとも限らない時があります。
しかしそれでもなんでも、私のいのちにかけて、言葉に言い表せなくても、たましいで霊で、深いところで私はあなたに信頼申し上げます。これがマリアの賛歌です。
病床で、臨終の時を迎えようとも。手足を失って瀕死の中にあろうとも。それでも神様は、私たちと共にいて下さいます。

「身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、 わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、 その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」

こんなちっぽけな、名もない、名誉もない、ああ思いめぐらすは自分の失敗と悲惨のみ、立派なクリスチャンとも言い難い、偽善に満ちたこの私、しかしこの私にも、目を留めて下さった。主を宿すものとして下さった。インマヌエル。神、我らと共にまします。感謝します。これこそ幸いです。私こそ、幸いです。マリアは語ります。

これは「主を恐れる者に及ぶ」こと。

力はなくても、取り立てて良いものはなくても、主を恐れる心があるならば、幸いは与えられる。
むしろ、自分の力を頼みに、思い上がる者、権力を頼みにして主を恐れない者、富に頼って主を恐れない者を主は引き倒されます。
何はなくても、主は御業をなさる方。救いを与える方。身分が低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満たす方。
そのしもべイスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。
私たちの先祖におっしゃった通り、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。
エリサベトにも、マリアにも、様々な年齢の、様々の境遇にある人をも導かれる方。主を恐れ、謙虚に、主の言葉は必ず実現する、主に不可能はない、主は生きておられると、神を恐れ生きる者に与えられる幸い。

クリスマスは、今まで目にとめられなかった者に光が差し込むその時です。
主はずっと見ておられるのです。
インマヌエル。神様は私たちと共にいらっしゃいます。

私たちも、いつも聖霊に満たされ、どんな状況にあろうとも、ただ平安、ただ安心、主に任せ切って、委ね切って、信仰のうちに歩ませていただきたいと願うものです。

 

日本アライアンス教団 東城キリスト教会
〒729-5124広島県庄原市東城町東城384
Tel 08477-2-0288 -  メール -

© 2006-2025 Tōjō Kirisuto Kyōkai. All rights reserved.
Site hosted by Jaspella Gospel Guide.