説教原稿
2009年11月29日
「お言葉どおり、この身に成りますように」
ルカによる福音書1:5-38
いよいよ今日からアドベント、主のご降誕を待ち望む待降節に入りました。
クリスマス、それはイエス・キリストのご誕生。それは、「神我らと共にまします」インマヌエルの出来事です。
神様が私たちと共にいて下さる。そしてその「神様にとっては、出来ないことは何一つない」のだということ。これが最初のクリスマスメッセージでした。
あんな困難、こんな困難に取り囲まれて、窒息しそうな人々のあふれる現代です。寒い冬となり、昼が短くなり、年が越せるだろうかと、青息吐息の方々。
しかし、神様のメッセージは、救い主イエス・キリストを送る。贖い主を送る。「神に出来ないことは何一つない」というメッセージです。
「時が来れば実現する主の言葉を信じ」るということ。主に信頼するということ。
2000年前に突然神様から手渡しされたクリスマスの恵みは、今日も信じる者に無償で与えられるのです。
祭司ザカリアとナザレの村のマリア。この二人がみ使いの良き知らせにどう応対したのか、今日は御言葉から聞きたいと思います。そしてクリスマスの恵みを受け取るという事を考えたいと思います。
ザカリアとその妻エリサベト。そしてマリア。この二組の人たちのお話は、クリスマスの、降誕の個所ではずっと対になって進んでいきます。生まれた後も、バプテスマのヨハネとイエス・キリストは、ずっと結びつきを持って歩んでいきます。
ヨハネの父ザカリアは、祭司。妻エリサベトもまた、祭司アロンの家系に生まれるものでした。
6節には、「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころがなかった」とあります。これは落ち度なく律法を守り行っていたということです。
マリアはといえば、その夫ヨセフと共に、イスラエルの王、ダビデの家系に生まれるものでした。とはいえ、田舎のガリラヤの閑村ナザレの村に住む、まだ年端も行かないと言いますか、今でいえば高校生くらいの年だったのではないかと考えられていますマリア。この二人の対比の中でお話は進んでいきます。
ザカリアとエリサベトは高齢になっていましたが子どもがなく、祈り求めていましたが、いつしかその願いもやめてしまったと思われます。
8節、さてザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとあります。組は24ありました。そして同じ組の中にも何人も祭司がいます。この香をたくという務めは、一生に一度しか回ってこない務めであり、中には一度も回ってこない祭司もいました。
しかしまさにこの時、ゼカリアに回って来たというのは、神様のご計画というよりほかにありません。ずっとわが子が与えられず、祈りつつもあきらめて今に至っていたというのも、神様のご配剤でした。
この当時、子どもが与えられないというのは女性にとっては不名誉なことでした。ゼカリアにとってもそうだったでしょう。しかしそういった人の常識というものは、常識ではなく、子どもが生まれなかったということは、神様のご計画のために、あえて取ってあるものに過ぎなかったのでした。
聖書は、そこここに、人間の狭い考え方を打ち破る神様の大きなご計画を記しています。
神様は御自分の時に、ご自分の御心を行われる。不可能と思われていることでも、神様は、御心のうちに、すべての状況を用いてご自分のよしとされることを行われる。これが今日のメッセージです。
時は突然やってきます。
香をたいている間、主の天使が現れ、香壇の右に立ちました。
ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われました。
神と人との間に立つ祭司が、主のみ使いの登場に恐れを抱いて不安がるというのは、ちょっと頼りない姿です。
天使は言いました。「怖がることはない。ザカリア。あなたの願いは聞き入れられた。」
私たちの名前を呼んで語りかけて下さる主のお心遣いです。神様は私たち一人一人を見極め、その一人一人の必要を知り極め、そして一人一人の祈り願いをしっかりと聞いて下さっているのです。そして時至って、その願いをかなえて下さいます。
ザカリアがもう、とうの昔にあきらめてしまっていても。神様は祈りを覚えていて下さり、ご自身の最善の時に、実行に移して下さるのです。
祈っている私たちが忘れてしまっているという事もしばしばです。しかし主は、覚えていて下さって、最善のタイミングで、御業をなして下さるのです。
何という主の誠実さと、人のがさつさと言いますか、いい加減さと言いますか、その場しのぎと言いますか、そんなことを思います。人は不確かでも主は確か。これもまた、今日の聖書のメッセージです。
ここでみ使いは、生まれてくる子供がどんな働きをするか、どんなに優れた働きをする者がこれから生まれてくるのかを語るのですが、これに対してザカリアは、どのように答えるのでしょうか。
ああ、慈しみ深い主。私の長きにわたる祈りに耳を傾け、ついに今、祈りに答え給う。ハレルヤ!こう答えたでしょうか。
いいえ、彼の答えは、こうでした。
「何によって、私はそれを知ることが出来るのでしょうか。わたし、私は老人ですし、妻も年をとっています。」
何か証拠を見せてもらわなければ私は信じられません。私、私を見れば明らかですし、妻も年をとっています。
祭司がこのありさまでした。
私、わたし、私のオンパレードです。
「私」の考えにとらわれているのなら、信仰は必要ありません。自分の考えに従って歩むのなら、どこに神様を信じる余地が残っているのでしょうか。自分が納得しなければ信じないというのなら、どうしてそれが信仰と言えるでしょうか。
律法を落ち度なく行っていたとしても、ザカリアには、本当に大切なことが、分かっていませんでした。
私たちもしばしば同じ不信仰の心を働かせているのではないでしょうか。
私たちは、神様にしっかりと抱きかかえられているのに、何としばしば私たちは色々なことに対して恐れ、おびえ、心配しているのではないでしょうか。神様が「私はあなたに新しいことをする」とおっしゃっているのに、私たちは、「私はもう忙しいですから駄目です」とか、「私は、もう年ですから駄目です」とか、色々と言っていることではないかと、思うのです。神様がせっかく色々なことを、私たちを通してなそうとしていらっしゃるのに、何と度々私たちがそれをお断りしているのではないだろうかと、思うのです。
天使は答えました。「私はガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口を聞けなくなり、このことの起こる日まで話すことが出来なくなる。時が来れば実現する私の言葉を信じなかったからである。」
ザカリアがあまりに「わたし、わたし」と言ったので、み使いも、私はガブリエル、私は神の前に立つ者、私は伝えるために遣わされたと語るのです。
神の「私」と人の「私」とのぶつかり合いです。
これがクリスマスです。これが神様の救いのご介入です。
律法を落ち度なく行っていても、神様の前に「私」といって、あぐらをかき、御心に従わないものでした。自分の常識や経験則に従いながらも、神様の大きなご計画や希望ある「喜ばしい知らせ」には疑いの目を向ける、かたくなな者でした。そこに喜ばしい知らせ、福音の知らせが届いているのに、それを受け取れない人間の心。これが不信仰の心であります。どれだけ立派な行いをしてきたかではなく、神様のお言葉にどれだけ素直にはいと言えるかが、大切なことなのです。
口のきけなくなったザカリア。彼は神様に向き合い、考える時を頂きました。これもまた、彼にとっては幸い、恵み深い時でした。
さてお話はマリアに移ります。
閑村の少女マリアにも、突然のみ使いの訪問があります。
28節、天使は、彼女の所に来て言った。「おめでとう、恵まれた方、主があなたとともにおられる。」
これは、「喜びなさい、主のご好意を受けた方、主があなたとともにおられる」の意味ですが、マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何の事かと考え込みました。ずっと考え続けたという意味合いで、書いてあります。
マリアは、ザカリアがしたように、突如として現れたみ使い自身に驚き怪しむというよりもむしろ、そのみ使いの語る言葉はどういう意味なのかに考えを巡らしていました。
私たちもザカリアと同じく、突然み使いが現れるなら、びっくり仰天するでしょう。しかしマリアもまたそうだったでしょうけれど、それ以上に、み使いの語る言葉について、思いめぐらし、深く考え込んだというところが、彼女の素晴らしさを表す点です。
すぐに「そんなことあったものではありません」とか、「あなたは何者か」という前に、その状況に対して、自分が適応させていくという点、若さから来る柔軟さもあるのかもしれませんが、ここには私たちも学ぶべきと思います。
神様に対して何の証拠を持ってとすごむのではなく、あくまで自分の考えを神様の考えに沿わせていくという心です。
こういう人は、どんな状況の中にあっても、その意味を考え、神様に聞き、今学ぶべきことを時々に神様から学ぶことのできる人です。
30節、「すると、天使は言った。マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みを頂いた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」
この宣言は、ザカリアの時以上に信じがたいものでした。いいなずけのある身。その結婚を破棄して子どもを生むというのか。それともいいなずけヨセフとの間にその子を授かるというのか。
マリアはまたもしばらく考えたことだと思いますが、ついには語らずにはいられませんでした。
「どうして、そのようなことがあり得ましょうか。私は男の人を知りませんのに。」
「いかにしてそのようになるというのですか」
これは、信じられませんという投げかけではなく、私はどのようにしたらよいでしょうか、そのことがなるためにはという意味にとることが出来るのではないでしょうか。
天使は言いました。
「聖霊があなたに下り、いと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なるもの、神の子と呼ばれる。」
「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神に出来ないことは何一つない。」
聖霊があなたに下り、いと高き方の力があなたを包む。神に出来ないことは何一つない。
いいなずけヨセフのある身ながら、結婚もせずに神によって子供を授かるという境遇の中、マリアは婚約者への裏切り者として命の危険さえ降りかかるかもしれないという事を承知していたことでしょう。守られてあるザカリアの境遇とは違い、大きな危険が迫る、マリアの懐妊でありました。
しかし今マリアに与えられた御言葉、「聖霊があなたに下り、いと高き方の力があなたを包む。神に出来ないことは何一つない。」
マリアはこの神の御言葉に、すべてを委ねて、進みだします。その結末がいかに素晴らしいものとなったかは、私たちの良く知るところです。
クリスマスをもたらしたもの。
それは主のご愛と恵みです。そしてそれと並んで、名も無き乙女の、主への、主の御言葉への、従順がありました。信仰がありました。この信仰から、クリスマスが始まったのです。
38節「マリアは言った。私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」
聖霊があなたに下り、いと高き方の力があなたを包む。神に出来ないことは何一つない。
このみ言葉に対して、私は主のしもべ、お言葉どおりこの身になりますように。こう言い得る信仰者を、今日も、主はどれだけ喜んで下さることでしょうか。
「聖霊があなたに下り、いと高き方の力があなたを包む。神に出来ないことは何一つない。」
すべて守られてあるこの神にある人生を、主に委ね切って、私たちも内にキリストを宿すものとして、主の御栄のために用いていただきたいと、切に願うものです。
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