Warning: Undefined array key "HTTPS" in /home/tojokyokai/public_html/includes/head.html on line 16

説教原稿

2009年11月15日
「良い知らせを伝える者」
ローマの信徒への手紙10:8-7

11月の第三主日礼拝です。
クリスマスも近づき、再来週からアドベント(待降節)が始まります。
キリスト・イエスがお生まれ下さった。
神の子イエス様が人として、私たちのために、お生まれ下さった。
私たちの救いは、イエス様にかかっています。
私たち人間にはどうすることも出来なかった私たち自身の救い。
人が良き行いによっては、神様の標準に達することが出来なかった神の救い。
私たちが手を伸ばしてつかむ代わりに、神様の救いが私たちに向けて手渡しされました。

パウロは、イエス・キリストにある救いを強調しました。
今日の個所、ローマ書10章の冒頭では、キリスト抜きに救いを求める熱心さを、正しい認識・知識に基づかない熱心だと語ります。
4節に、パウロは、キリストこそ律法の目標、信じる人すべてに義をもたらすと語ります。

キリストが天に戻られた、神ご自身だという事が信じられない人たち。一方で、キリストが私たちの贖いのため、死んでよみに下られたという事が信じられない人たち。
あくまで人間理性で物事を捉え、自力で救いを引き寄せようとする人たち。こういう人たちは、せっかく訪れたキリストによる救いを受け入れることができません。

せっかくクリスマスの良き訪れが、戸口まで来ているのに、頑固にも拒否する人たち。
多くの日本人も、このような考えをもっているのではないでしょうか。
処女懐胎、信じられない、天から来て、天に帰られた、死んで、よみがえられた、どれもこれもナンセンス、救いは他力本願より、自力本願。これが多くの方々の好む考え方と思います。

このまリスマスを迎えようとしている時、ディケンズの「クリスマスキャロル」が話題に上ります。今年は折しも昨日、ディズニーによって映画化されたクリスマスキャロルが封切られました。
スクルージという頑固なお爺さんのお話です。
人を信じない、信じられるのはお金だけ、愛も憐れみも、人とのあたたかい交流もなく、孤独に生きた一人の人。しかし彼はそのことを全く不自由なこととは思っていませんでした。
しかしクリスマスの前の晩、夢の中で、過去、現在、未来にわたって、自分の人生をたどり、気付かされた数々のこと。自分に欠けていることが気付かされたのです。自分が今まで良いと思って行ってきたことのゆえ、どんなに周囲の人たちを傷つけ、害毒を撒き散らしていたのか、そしてあらゆる周囲との絆が断たれ、孤独になっていたのかが気付かされました。そして人を顧みなかった自分が迎えるべきさばきを知り、彼は泣きながら手遅れにしないでください、私は心から悔い改めますと、祈ります。目が覚めると、クリスマスの朝。彼にはまだいのちが宿っていました。彼は生まれ変わり、子どものように無邪気にはしゃぎながら、自分のいのちを喜び、そして隣人のいのちを愛する人へと変えられました。

神様に心を開いた瞬間でした。自分の判断基準にすがって我が法なり、国家なりと、肩で風を切っていたスクルージが、神様を心に迎え、神様の望まれるように生きようと、歩き始めたのです。

8節にはこう書いてあります。
「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」
イエス様が戸口でたたき続けていて下さったのです。
スクルージが傲慢の限りを尽くしていた時も、片時も離れずに、イエス様は、心の戸口をたたき続けていて下さったのです。
祝福の生き方が、ここにあるよ、御言葉が、あなたの近くにあるよ。あなたはこれを喜び、これを口ずさみ、これを心に刻むのだ。
この8節は、もともとは申命記30章14節の言葉です。

「私が命じる戒めは難しすぎるものではなく、遠く及ばぬものではない。
誰かが天に昇って取ってくるものでもなく、海のかなたに渡り、取ってくるものでもない。
御言葉は、あなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行う事が出来る。」

天のかなたから、よみの底から、イエス様が、救いを運んできて下さったのです。
インマヌエルの主が、私たちとともにいて、心に住んでいて下さり、私たちを満たし、私たちの口は神様をほめたたえます。

このイエス様を告白すること、私たちにはどうすることも出来なくなっていた罪からの贖いを信じ、感謝すること。
私たちの近くに来て下さった救いを信じ受け入れることこれがクリスマスの恵みです。

あなたの口に、あなたの心に、という言葉がこれから何度も繰り返されます。
9節、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」
口と心。面白いペアです。
心にあるものが口から出て来ます。 しかし心にもないことを口で語るという事もあります。本当に心で感じ入っているのなら、口にこぼれ出ないことはなく、本当に語っているのなら、心に確かにその言葉の大本となるべき信仰が備わっていなければなりません。

心で神がイエス様を死者の中から復活させ、私の贖いを完成させて下さったと信じるなら、私もスクルージのように神も周囲も見えずに傍若無人な存在だったのに今、主がクリスマスの恵みをもって私に近づき、私のために生まれ、私のために死に、贖って下さったのだと心に信じるなら、スクルージのように、喜び踊って、イエス様こそ私の主と言い表し、感謝と愛を神様に、周りの方々にせずにはいられないようになります。

10節、「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」
心と口で、心から信じ、告白する信仰。
今日、私たちが目を留めたいポイントです。

イエス様は主ですと、叫ばすにはいられない。これほどのことが、私たちの人生の中に、現わされたのです。
心で信じて義とされ、もうすでに合格のはんこは押されています。
そして、そこから、義とされて、喜んでハレルヤ、イエス様こそ私の主と、証ししながら歩む人生、これこそが、「救われている」という事なのです。
イエス様は主と公に言い表すということは、結婚の披露宴を催すようなものです。心からこの人と信じ、共に歩み始めた人が、その喜びのゆえに、周りの方々に、紹介するようなものです。
イエス様が、この醜い私を、見出して下さった。私のために命を捧げ、死んでくださった。そして私の罪を、ことごとく取り去って下さった。みんな赦して下さった。私は生まれ変わり、新しくもう一度人生を歩むことが出来るのだ。
神の子として生まれ変わり、生きる人生とは、イエス様の御名を賛美しながら生きる人生に他なりません。
イエス様こそが主、私を生かして下さるのは、十字架について下さったイエス様だけである、私はイエス様と結婚した、イエス様と結ばれています、公にこの事実を告白します。こう、公に言う事の出来る人は、何と幸いでしょうか。

11節にありますように、「主を信じる者は、誰も失望することがない」のです。
主を信ずる者は、誰も失望しない。これはまた、恥をかかないという意味もあります。
主ご自身が、失望しないように、恥をかかないように、行くところ行くところで守っていて下さるのです。贖いの力、私たちが生まれ変わっているということは、どんなに素晴らしいことかと、実感いたします。もう罪でもって罪のぼろ隠しをしなくてもいい、嘘で嘘の上塗りをしなくてもいい。新しく生まれ変わったのです。いつも生まれたばかりの子供のように喜びがあり、神様がともに住んでいて下さり、恥をかくこともない。何という喜びの人生でしょう。
13節には、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」と書いてあります。
誰でも救われるのです。この人は罪が重すぎるから救われない、もう手遅れですと言われることはないのです。
主の名を呼び求める。クリスマスの主、天から来て下さった主、飼い葉おけに生まれ、貧しい人、病の人を訪ね、勇ましい軍馬ではなく、小さな子供のロバに乗り、エルサレムに凱旋将軍として入られた主、十字架にかかり、よみがえられたキリストこそ、私たちが呼び求めるべき主の御名です。

誰でも呼び求めるならば救われるとありましたが、世界中のすべての人がイエス様と出会い、この方によって生まれ変わっていただきたいと願うのが私たちの思いです。しかし、信じたことのない方を、どうやって呼び求められるのか、聞いたことのない方を、どうやって信じられるだろうか、宣べ伝える人がなければ、どうやって聞くことが出来ようか。

語るものの必要が、語られています。
どんなに素晴らしい発明品でも、世の人に知られなければ、無用の長物となってしまいます。
信じたことのない人を呼び求めることはできません。
聞いたことのない人を、信じることはできません。
宣べ伝える人がいなければ、聞けません。
遣わされなければ、宣べ伝えられません。

さかのぼって、さかのぼって、遣わされて、宣べ伝える。この大切さが語られています。

神様は遣わして下さいます。まずこのことを祈りましょう。

「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。」ヨハネ4:35
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」ルカ10:2

私たちの人生を変えた、イエス様との出会いを体験していただけるために、私たちがまずなすべきことは、派遣して下さいとの熱き祈りです。
宣べ伝える人がいなければ、人々は聞くことができませんとの熱き祈りです。派遣して下さい、遣わされなければどうして宣べ伝えることが出来るでしょう。神様、遣わして下さいと、祈ります。

宣べ伝える者として下さるのですから、派遣されているのですから、何をどう語ろうと、考え込む必要は、ありません。神様が宣べ伝える者として、派遣して下さるのです。
宣べ伝える者として派遣されるのですから、神様は、聞いて下さる人を備えて下さいます。
聞いて下さる人は、信じます。信じた人は、呼び求めます。
そして呼び求める人は誰でも、救われるのです。

17節、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
聖書の言葉を伝えましょう。キリストの語られた言葉を伝えましょう。私たちの心に届く、心に残る、キリストの言葉を語りましょう。このことによって、信仰は、はじまります。

私たちも、御言葉に生きましょう。神様の言葉に生かされ、励まされ、神様の言葉に従って、生きていきましょう。
執り成し祈り、生まれ変わった喜びに、生きましょう。
心で信じるのと同様に、口に出して、告白し、宣べ伝えましょう。

「良い知らせを伝える者の足は、何と美しいことか」
良い知らせを伝える者の口は、と書かれないで、良い知らせを伝える者の足は、と書いてあるのも、ユニークです。
私たちは、待っているだけではなくて、足を動かして、自分から、御言葉を伝えるチャンスをつかむこともあるでしょう。人々と交わり、汗を流し、あの人を訪ねる勇気も時には必要でしょう。
あの人はあの人で、満足した人生を送っているから伝道は気が引ける…こう思うことはありません。
主を信じる者は、だれも失望することがない。
この世の中には、失望があふれています。

「良い知らせを伝える者の足は、何と美しいことか」
その足がほめたたえられるのです。とにかく足を運んでみる。そうさせるのは、神様の御熱心です。神様の、たましいを思うおもんぱかり、ひとりの魂への配慮です。
派遣して下さいと祈りつつ、足を運びましょう。
今日も、今週も、きっと私たちを待っている、私たちを必要としている、神様を必要としている方々がいらっしゃいます。

私たちは「良い知らせ」福音の主キリストをお伝えする、光栄なる働き人とされていることに、感謝しましょう。
「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」
「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。・・・主を信じる者は、だれも失望することがない。」

「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

幸いな、いのちに至る種蒔きに、用いて下さいと、今日も祈るものです。
祈り
「遣わされ、宣べ伝え、聞き、信じ、呼び求める。主の名を呼び求める者はだれでも救われる。」
遣わして下さい。キリストの言葉を宣べ伝えさせて下さい。キリストの言葉に日々生かして下さい。 アーメン

日本アライアンス教団 東城キリスト教会
〒729-5124広島県庄原市東城町東城384
Tel 08477-2-0288 -  メール -

© 2006-2025 Tōjō Kirisuto Kyōkai. All rights reserved.
Site hosted by Jaspella Gospel Guide.