説教原稿
2009年11月1日
「憐れみの器として」
ローマの信徒への手紙9:19-33
先週は、キリストに結ばれた者としていきるというテーマでした。肉によるイスラエルというものが神の民ではなく、キリストによって、救いの約束によって生まれる子供が本当の神の子孫であると語られていました。
神様は、自由にご自分の民をお選びになります。
年老いたアブラハムとその妻サラにも、御心であればただちに子どもを与えることがおできになります。エサウとヤコブのように、兄弟の位置を逆転なさることもあります。
神様は、モーセにこうおっしゃいました。「私は自分が憐れもうと思うものを憐れみ、慈しもうと思うものを慈しむ」
親が自分の子供を、えこひいきして、仮に器量が悪くて出来が悪くても、うちの子供は世界一と親バカになるように、神様は、御自分の民を憐れみ、慈しんで下さいました。
神様はエジプトのファラオををかたくなにされ、御自分の力を10回にわたって奇跡によって現わされ、主なる神様は、御自分の力を示し、御自分の名前を世界に告げ知らされました。
神様は、御自由なみこころで、選民をも、エジプトをも、世界をも支配していらっしゃる。これがローマ書9章のテーマですが、今日お読みいただきました19節ではそれならばと、反論を言う人の声が記されています。
「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことが出来ようか」
ファラオが神様によってかたくなにされ、そして10回の奇跡のわざ、懲らしめの業が引き出されたというのなら、神様がそうさせたことに対して、ファラオは神の御心に従わされたのだから、どうして彼が責められるのか、神が御心と定めたことから、人はどうやって逃れることが出来るだろうか、いやそんなことはできない。ではなぜ人はそのかたくなさゆえの咎を受けなければならないのか、こういう疑問であります。
かたくなさと言いましたら、選民イスラエルがなかなか主キリストを受け入れないそのかたくなさのゆえに、パウロが異邦人伝道に召されていくという経緯も、使徒行伝には記されていました。ですから、そのかたくなさもまた、主は用いて、世界宣教のために用いられたと理解することが出来ます。ですから、神様が半ばご自分の御心として選民イスラエルをかたくなにされたのに、どうしてイスラエルがそのかたくなさを神様からとがめられなければならないのかという疑問もまた、生じるのです。
これに対して20節、「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた者が造った者に、「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。」と書いてあります。
ここに、今日私たちが学ぶべき第一のポイントがあります。
私たちは、自分の考えで、神様の御心を疑うことがあります。どうしてこうなってしまうのか、神様は見ていらっしゃるのか、どうして放っておかれるのか、神様の導きは間違っているのではないか等々。
しかし、私たちは被造物です。神様の目からすれば、御自分が手でこねて作った焼き物のような存在です。焼き物に素晴らしいところがあるとしたら、それはその焼き物を造ったつくり手が素晴らしいからです。焼き物自身が自分を形作ったわけではありません。つくり手が、すべてを熟知し、苦労し、焼き物を造り上げたのです。
つくり手は、焼き物が失敗作であれば、壊してまた作り直すことが出来ます。出来の悪いものを投げて、よく出来たものを貴く飾ることが出来ます。
神様は私たち人間の造り手です。神様の手のわざは完全で、焼き物自身には、神の手の中にあって形作られるのみの存在です。ただ神の手に委ねられ、形作られることにより、焼き物は完成します。
いい悪いを論ずることが出来るのは、焼き物によってではありません。造り手によってです。
造り手は、その熟練の技でもって、御自分の作品を作り上げるのです。ですから、焼き物がああだこうだと造り手に対して指示したりするのは、滑稽千番なのです。
私たちと神様という関係は、そういう関係です。私たちが無価値というのではなく、神様がすべてをご存じで、私たちに価値を与えることが出来る方なのです。
神様は、選民がいつも堕落して、神様をあがめず、自分流の方法で乱れた宗教生活をし、偶像礼拝をする姿をご覧になり、神様は22節、その怒りを示し、その怒りによる力を知らせようとしておられました。まさに人は、怒りを受けて粉々に打ち砕かれるべき怒りの器、できそこない、滅びゆくべきものでありました。
しかし、神様は、その怒りにまさって、より深い、より大きな寛容をもって、怒りを包み込み、耐え忍んで下さったのです。
怒りにまさる神様のご忍耐。これが聖書全巻のテーマであります。
そのようにして、怒りの器であったものを、悔い改めに導き、憐れみの器として下さるのです。
箸にも棒にもかからなかった出来損ないの怒りの器を、大きな大きな忍耐をもって憐れみの器として下さる神様のお姿です。
貴くない投げておかれるべき卑しい器を、御自分の豊かな栄光をお示しになる憐れみの器と、造り変えて下さるのです。
これが、神様の御心です。これが神様のご計画です。どうして私たちは、神様は気ままに御心を行われる捉えどころのない方、不公平な方と言えるのでしょうか。どうして私たちは、神様より自分の計画が優れているのにと、傲慢にも口をさしはさめるのでしょうか。
神様は寛容と忍耐の方です。捨てられ、壊されて当然な出来損ないの器を、もう一度、あわれみを持ってつくり変え、あわれみの器として下さるのです。
パウロ自身がそうでありました。彼は教会の体を傷つけ、迫害する者でした。そのような怒りの器、滅びるべきものを、神様は手に取って造り変え、貴いご用に用いて下さいました。福音を地の果てまでも手渡しする福音の大使として用いて下さいました。
24節、「神は私たちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出して下さいました。」
神様は、私たちを召して下さいました。この私を召し出して下さいました。憐れみの器となるように、召し出して下さいました。
「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」ルカ6:36-38
赦されて、赦すものとされたのです。恵みを受けて、恵みを取り次ぐ者とされたのです。祝福を受けて、祝福を携えるものとされたのです。
与えるものは幸い。与える人の持っている物はますます増し加えられます。
25節、「自分の民でないものをわたしの民と呼び、愛されなかったものを愛された者と呼」んで下さるのです。これはイスラエルの民に向かって語られた言葉です。イスラエルが不信仰のゆえに「あなた方はわたしの民ではない」「あなた方はわたしが愛するものではない」と言われ、しかし憐れみのゆえに赦され、迎え入れられるのなら、どうして異邦人もまた、神の民、愛される者として迎え入れられないことがあるでしょうか。
27節、「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる」
海の砂の数ほどの約束の民がいても、それがそのまま救われる民ではなく、残りの者、神によってよしとされ、残された者が救われるとイザヤは語っています。
29節、その残りの者とは、神の救いによる慰めであり、神ご自身がその残りのものを残して下さらなかったならば、私たちは、ソドムとゴモラのように滅ぼしつくされる者となってしまっていたであろうと、イザヤによって語られています。
これらのみ言葉を、パウロはこのように説明します。
30節から「では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。」
ですから、パウロは、「残りの者」を、信仰によって救われた異邦人になぞらえていたのです。選民がアブラハム契約によって海の砂のように増え広がっても、残りの者が救われるとは、キリストの贖いを信じる信仰による民のことだとパウロは示したのです。
義を求めなかった異邦人が義を獲得し、義を追求してきたイスラエルの民はその義から漏れてしまった。何という皮肉でしょうか。
32節「なぜですか。イスラエルは、信仰によってでなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。」
私たちは、陶器師、焼き物を造る人の手に完全に委ねられているはずでありました。私たちは土の塊にすぎませんでした。神様が、ただ憐れみによって、私たちを意味あるものへとつくり変えて下さるのです。無価値な土の塊に命を吹き込んで下さるのは、ただ陶器師なる神様の御業なのです。赦し、怒りの器を憐れんで、あわれみの器となし、卑しいものを貴いご用に用いて下さるのは、ただ神様の御業なのです。
焼き物がいくら努力しても、焼き物は焼き物です。私たちは、陶器師の手の中で、造り変えられるのです。
陶器師の用意されたイエス・キリストに、イスラエルの民は、つまずきました。自分の行いによって、自分の業によってつくくりかえられる、義とされると信じていた人たちは、神様の業につまずいてしまいました。そしてそのキリストを拒絶し、十字架につけてしまいました。
しかしそのことにより、罪深い人間の性質というものは、余すところなく、現わされたのです。
「これを信じる者は、失望することがない」と書いてありますように、キリストを、陶器師からの働きかけ、私を造り変えるための神様からの贈り物と捉え、陶器師の手のわざを自分のうちに受け入れるならば、私たちは憐れみによって造り変えられ、憐れみの器として、神様の栄光を現す、とうといご用に用いられます。
陶器師の送られたキリストを信じる者は、決して失望することがない。
決して失望することがない。
私たちは、絶望も、恐れも、愚痴も、不満も、不安も、すべて打ち捨てて、この方を見上げ、期待して歩んでいくならば、陶器師なる神様の御手のうちに守られ、私たちは決して失望することがないことを知っています。
このキリストを知る者とされていることに感謝しながら、私たちこそ残りの民、救われた者とされていることに感謝しつつ、新しい週へと船出していきたいと思うのです。
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