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説教原稿

2009年10月25日
「キリストに結ばれた者として」
ローマの信徒への手紙9:1-18

だれが私たちをキリストの愛から引き離せますか。
誰も、何ものも、引き離すことはできない。
前回の個所で、パウロは美しい、確信に満ちた聖書の言葉を書き表しました。

キリストにつながって生きる。パウロにとって、それは、生きるということでした。キリストを愛し、キリストの十字架さえも、彼にとってはうるわしいものでした。
しかし、パウロは、御存じのとおり、初めは、キリストの敵として、歩むものでした。クリスチャンを、迫害する者でした。
しかしダマスコの途上、彼はキリストに出会いました。
クリスチャンを迫害して、牢に投げ入れていたパウロ。キリストは、パウロに、なぜ私を迫害するのかと、おっしゃいました。 わたしのしもべをなぜ迫害するのか、ではなくて、なぜ私を迫害するのか。
キリストの体なる教会と言いますが、まさに教会は、クリスチャンは、キリストの体の一部分です。その一部分が痛めば、体全体が痛み、かしらなるキリストご自身が痛まれるのです。

パウロは熱心なユダヤ教徒でした。アブラハム、イサク、ヤコブの模範的な末である、子孫であると、自負していました。しかし、彼は、神の子キリストを迫害する者となっていました。

そして今、パウロは、非常に強い心の痛みを持って、自分が出てきたところのユダヤ教徒たちを見つめています。いやユダヤ教徒ではありません。キリストを信じてクリスチャン、教会の群れに属しているはずの人たちが、新しくされたはずの人たちが、実はまだ、古いところにとどまっているのではないか。肉による系図、ユダヤ教的な系図の中にあって誇っているのではないか。本当に新しい出会いを遂げているのか。キリストと出会っているのか、そのことによって、心が変えられているのか、そのことが心配でたまらないのです。

神によって見出され、180度見方を変えられることとなったパウロです。それまでは、自分が信じるところに熱心でした。自分の宗教に熱心でした。しかしそれは、全く役に立たない者でした。キリストに出会ったとき、彼はそれに気付かされました。人の努力ではない、願いではない、召していただいて、クリスチャンとなる。自分で成り立たせる宗教ではありません。神様に日々、担っていただき、運んでいただく歩みです。

今日私たちも、神様を信じ歩むということはどういうことなのか、この個所から学びたいと願っております。

私たちは、まず、パウロの壮絶なとりなしの祈りの姿を見るのです。私たちが、キリストの弟子として生きるとき、しばしば私たちを導いて下さる方の祈りと導きによらなければならないことがあります。
そのような祈りに覚えられ、信仰の人生が日々守られてきたのです。
モーセの祈りがありました。
シナイ山で、神様から十戒を頂くきよい時、山の下では何が行われていたでしょうか。民は、モーセがなかなか戻ってこないのを見て、しびれを切らし、アロンを担ぎ出し、金の牛の像を造ってそれに祈りをささげた時、モーセはそれを見て、とりなしの祈りを捧げました。「民の罪をお許し下さい、もしそれがかなわないならば、どうかこのわたしを、あなたが書き記した書の中から消し去って下さい。」
実に、モーセは、自分の名前を命の書から消し去ってもいい、自分が滅びてもいい。だから彼らを赦して下さいと祈りました。
イエス様も、弟子たちのために、祈って下さいました。
ガリラヤ湖の中を漕ぎあぐねている時も、大嵐のときも。ゲッセマネの園でも。苦き盃を飲み干してでも、歩むと祈られました。
ペテロには、「あなたの信仰がなくならないように、私は祈った」とおっしゃいました。

実に私たちも、このようにたくさんの、自己犠牲を伴った、祈りに支えられて、生きているのです。

1節、私はキリストに結ばれたものとして真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、私には深い悲しみがあり、私の心には絶え間ない痛みがあります。

キリストに結ばれたものとして。

これが私たちの目指すべきところです。キリストに結ばれたものとして。
キリストに結ばれていなければ、むなしいのです。
第一コリント13章のごとくです。
たとえ異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がないなら、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない。
愛とは、どこから来るかといえば、神様から頂くものです。ですから、「愛がなければ」という言葉を、「神様が心の中にいなければ」と言い換えることが出来ますし、「キリストに結ばれていないなら」ということも出来ます。
キリストに結ばれていないなら、それは本当に神の愛から出たものではありません。人の善意や愛もまた、美しいものですが、それは時に誤ります。そして、人の愛は枯れ果ててしまいます。
キリストに結ばれているのなら、私たちの愛は、完全なものとなります。

キリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。
こういう姿勢に生きたパウロでありました。時には、偽りのない真実というものが人を傷つけることがあります。これを言うべきであるということがあったとしても、しばしば私たちは、臆病になって、人間関係を損なうことを恐れて、いえべきことをはぐらかしたりしてしまうことがあります。
しかし時には、キリストに結ばれている、このことによって、真実を語るべき時があります。
「私の良心も聖霊によって証ししていることですが、私には深い悲しみがあり、私の心には絶え間ない痛みがあります。」

キリストに結ばれているのなら、わたくしたちは、本当にこう思う通りにすることが正しいことなのかどうかと、悩む必要がなくなるのではないでしょうか。私たちは、罪に生まれ、その意志が、罪によって全的に・全てにおいて、堕落してしまったというのが罪ある私たち自身に対する理解です。しかし、だからと言って、救われたのちも、私たちは、いつまでも、不確かな自分というものに囚われて、すくんで生活していなければならないわけではありません。

キリストに結ばれた者として、真実を語り、偽りを言わない。そういうわたしの良心も、聖霊によって証ししている。私たちの良心、赦され、救われてある私たちの心というものは、聖霊様が分かっていて下さって、聖霊様が、その証しとなっていて下さる、聖霊が、私たちの心の正しいことに対しての証人になって下さるということが記してあります。
キリストに結ばれてあるなら。私たちは赦され、心清らかに晴れ渡り、神様の御思いを我が思いとして、歩むことが出来るのです。
しかしその彼の思いとは、深い悲しみ、絶え間ない痛みでありました。
それは、クリスチャンの不信仰についての深い悲しみ、絶え間ない痛みでした。死者を悼むような心の底からの深い悲しみ、絶え間のない、終わりのない、心の痛みです。一晩中、ずきずきと痛んで朝まで眠れないような強烈な歯の痛みのように、教会の中の不信仰な人たちのことは、パウロの深い悲しみとなっていたのでした。

3節、「私自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられたものとなってもよいとさえ思っています。」
牧会者としてのパウロの痛みと祈りです。同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられたものとなってもよいとさえ思う。

それほどに、パウロは、ユダヤ教的なクリスチャン、キリストに結ばれていないクリスチャンのために、心を痛めていました。自分がキリストから離され、見捨てられた者になってもいいとまで言っていますが、パウロにとって、何が一番大切なのかがはっきりと語られているところです。
彼にとっていのちとは、キリストから離されていない状態、つまりキリストと結ばれている状態であり、彼にとって最悪なこととは、キリストから離れているということ、すなわちそれが、神から見捨てられた者であるということが語られています。

しかしキリストから離れている人たちが教会の中に数多くいる。この事実が彼を苦しめるのでした。キリストに結ばれることの素晴らしさを味わっていたゆえに、パウロにとってそういう状態とは、耐えられない苦しみであったのです。むしろあの人たちがキリストに結ばれる状態に入れられるのならば、私一人がキリストが引き離され、神から見捨てられるものになっても構わない。パウロはそれほどに、キリストと結ばれているということを大切なこととしていました。

4節、「彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。」
彼らが大事にしていること、それはそのまま大切なことです。神の子としての身分も、神の子としての栄光も、神の子とする契約も、律法も、そして将来の約束も、すべては、選民イスラエルに与えられています。
しかし、肉によればそれらイスラエルから出てこられた、キリストにこそ目を留めるということが本当に大切なことなのです。

「キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。」
神であるキリストを見ずして、イスラエルは、本当のイスラエル、神の民にされることはないのだとパウロは語っています。

6節、「イスラエルから出たものが皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子どもということにはならない。」
8節、「すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫とみなされるのです。」

キリストによって生まれた者こそが真のイスラエル、キリストによる救いの約束によって生まれる子供が真のイスラエルの子孫であるとパウロは語ります。
これは、私たち、教会に生きる者にとっても、非常に大切なことです。
キリストによって生まれているということ、今キリストに結び合わされているということ。今、キリストの御思いの中を生きているということ。これでこそ、真のクリスチャンなのです。

救いは、16節にありますように、「人の意思や努力ではなく、神の憐れみによるもの」です。
キリストに結ばれて生きるということも、人の意思や努力によってではなく、神の憐れみによるものです。
私たちは、自分の努力や意思で、クリスチャンとしての生活を営んできたと思っているところがあるとしましたら、その考えを改めるべきだと思います。
ただあわれみにより、取るに足りないものを主は見出して、私をキリスト者として下さった。今も何の資格もないけれど、何の認められるべき功績もないけれど、ただ私は、キリストに出会い、キリストに結び合わされ、神様に見出していただいて、内なる神様のいのちにあって日々生かされ、日々導き上げられ、日々赦され、神様のしもべとして用いていただきたいのです。こういう祈りと共に歩みたいのです。

キリストが歩まれたように、私を生かして下さい。意思も努力も朽ち果てたる者ですが、神様が新しい私の意思となり、私を突き動かす努力となって下さいまして、どうか私を、キリストのように、用いて下さいますように。
語るべきならば語らせて下さい。
行うべきならば行わせて下さい。
私は、喜んで自分をおささげいたしましょう。私が神から見捨てられてもいいですから、どうか今、キリストを見捨てている人たちが、キリストに結び合わされますように。これが唯一の私の願いです。人々を、キリストに結び合わせて下さい。そして本当のイスラエルを、本当のキリスト者を、起こして下さいますように。その時まで、私の心の痛みは消えることがないでしょう。そしてこの心の痛みは、神様の心の痛みです。あなたの痛みを、あなたの喜びを、私に感じさせて下さい。
こう祈るものでありたいと、思います。

祈り
「キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。」イスラエルの中に、教会の中に、私の中に、キリストと結びあわされていない心の部分がありましたら、どうか神様がその部分を占領して下さいますように。自分の努力でも意志でもなく、神の憐れみによって、キリストによって私を今週も生かし、用い、動かして下さい。私たちの一週間の歩みの中で、あなたのお働きを見て、御名をほめたたえさせて下さい。一歩一歩ともにいて下さり、私たちにあなたのお働きを現わして下さい。あなた様に期待しております。語るべき時には、キリストにあって勇敢に、語らせて下さい。神の御心が天になるように、この地上にますますなりますように。 イエス様の御名によって。アーメン。

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