説教原稿
2009年10月11日
「私たちから離れないキリストの愛」
ローマの信徒への手紙8:31-39
私たちは、自然界のすべての被造物と共に、産みの苦しみ、うめきをもって、今この時を生きています。今は、天に引き上げられてはおらず、地は呪われ、人の罪のゆえに、地上には悲惨が満ちています。しかし、私たちは、目に見えないところに希望を抱いています。
神様は確かにおられ、聖霊様は、私たちのうちに宿って、うめくようにしてとりなしていて下さいます。御心のうちに召された私たちのために、神様のご計画のうちに召され、神様の御心を愛する私たちのために、神様は、万事が益となるように、私たちのために物事すべてを図っていて下さいます。
私たちは、私たちを愛し、命を捨てて私たちを贖って下さった愛する御子、私たちの兄上の姿に似せられて、日々輝いて、神の栄光を表すために、遣わされています。神の御心を実行するために、私たちは、召しだされているのです。
以上が、先週の聖書の個所の内容でした。
「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」
さあ、私たちは、そのような壮大な、被造物全体のうめきを贖うような存在。御心をなすために召された存在。
弱い私たちは、霊のうめきのとりなしによって守られ、万事が益になるように、神様からの特別のご配慮のうちに守られている、私たちは、特別な存在です。
31節、「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。」とは、私たち神の聖徒が置かれている守られてある身の立場について、ずっと語ってきたパウロは、ついに高みの頂上に立って、「勝利の歌」を書き記そうとしています。
「もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか。」
原語では短い言葉で書き表されています。
God is for you. 神様は、あなたのために存在していらっしゃいます。あなたの側についていて下さいます。あなたを支持していて下さいます。 法廷の情景が伝わってくるような言葉です。神様があなたの側に立っていて下さる。神様が、あなたの弁護人を引き受けて下さった。
そうであれば、誰があなたに立ち向かうことが出来るでしょうか。あなたに反旗をかがけることが出来るでしょうか。あなたに敵対ののろしを上げることが出来るでしょうか。
神様は、私たちすべてのために、そのご自身の、たった一人の、かけがえのない息子を惜しまずにしかし、あなたのために、あなたの側に立つために、神様は、御子を死に引き渡されました。わたしのために、御子を死に引き渡して下さったという言葉は、「私のせいで、私のゆえに」御子を死に引き渡して下さったというふうにも読みかえられます。しかし、父なる神様は、私たちを愛する愛のゆえに、そのことをよしとして下さいました。
その大切なものを与えることを「惜しまずに」、惜しむことなく、私たちのために、御子を死に引き渡した、もっと言えば御子を見放したということが出来るのです。
罪を犯して見放されて同然の私たちのために、神様は、御子を惜しまずそのご計画のうちに召して、私たちに代わって、ひとり子を見放されたのです。ひとり子に私たちの罪の裁きを負わせたのです。
ここまで私たちのために、惜しまずに、御子を捧げて下さる方、御子を見放しても私たちの側に立って下さる神様なのですから、どうして御子と共に、すべてのものを賜らないはずがありましょうか。
神様は、完璧な、最高の、救いの計画をもって、私たちを迎え入れて下さいました。そうであれば、どうして救われた私たちを、最高のご計画、最高の祝福をもって導いて下さらないことがあるでしょうか。
御子をさえ、惜しまずに与えて下さった方が、どうして、御子に劣る世の中のすべてのものを私たちに出し惜しみなさることがあるでしょうか。
それでも誰が神に選ばれた者を訴えるというのでしょうか。
神様が、キリストの代価をもって贖い、かつ弁護者としていて下さるのに、一体だれが、私たちをさらに責め、告発することが出来るでしょうか。
神様が、私たちを義として下さる方なのです。そしてその神様が、私たちの側にいて下さるのです。
誰が私たちを罪に定めることが出来るでしょう。
キリスト・イエス、死んだ方、否、むしろよみがえった方、そして、今神の右に座り続けていて、私たちのためにとりなし続け、弁護し続けて下さっている方がおられるのです。
私たちは、有罪の判決を受けることは、ありません。死に、よみがえった方が、私たちを弁護し続けていて下さるのです。キリストの手と足の釘の跡を見て、父なる神様は、その贖いにより、私たちを義として下さるのです。
私たちをかばって、死の刃を受けて下さったイエス様。私たちが処刑されるべきだったのに、私たちをかばい、いばらの冠をかぶり、背中が裂けるまで鞭を打たれ、ののしりに遭い、十字架にかかって下さいました。ご自分の愛する者を守るため、イエス様は、進んで私たちの盾となって下さいました。そのおかげで私たちは無傷で、死に定められることもなく、神の子とされ、永遠のいのちが与えられました。
だれが、キリストの愛から私たちを引き離すことが出来るでしょうか。お父さんが、お母さんが、わが子に降りかかる火の粉を、崩れ落ちてくる瓦礫から守るように、ぴったりと、子どもの上に覆いかぶさっているようにです。イエス様も、私たちの盾となって下さいました。
だれがこんなに深いキリストの愛から私たちを引き離せるというのでしょうか。
何かが落ちてくれば、ぱっと気付いて、走り寄り、その身が痛むのも惜しまずに守る方。その子は罪ある者だから、こっちへよこせと言われても、これはわたしの愛する子です。私が代わりに死刑になりますから、この子を無罪にして下さい。そう言って、十字架にひかれていくイエス様であります。ここまで守って下さる方、弁護して下さる方がおられるのです。
一体だれが、天にあっても、地にあっても、この愛の絆から私たちを引き離せるというのでしょうか。
艱難・トラブル・困難・悩みによって、私たちは躓き、イエス様の愛が信じられなくなってしまうでしょうか。否、死の苦しみまで味わわれたイエス様は、そのような時も離さずに私たちを守り、導き出すことがおできになります。
苦しみ・不幸・不運・災難によって、わたくしたちはイエス様から引き離されるでしょうか。いいえ。迫害が引き離しますか。いいえ。飢えが引き離しますか。いいえ。裸・貧乏が引き離しますか。いいえ。危険が引き離しますか。いいえ。剣・戦いが引き離しますか。いいえ。
艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣、これらは何でしょうか。これらは、パウロたち、そして私たち、クリスチャンが伝道するときに見舞われることではないでしょうか。
36節に引用されています、詩篇44編の御言葉もまた、伝道者の苦労の姿です。
「私たちはあなたのために 一日中死にさらされ、 ほふられる羊のように見られている」
あなたのために 惜しまずに。 これはもともとは、イエス様のお姿でした。あらゆる苦しみもまた、わたくしたちのための、イエス様の、神様の取って下さった苦しみでした。
私たちの味わう苦難は、すべて主がすでに経験されたことです。主は御存じで、私たちを助け出して下さいます。
これらのことすべてにおいて、私たちは、私たちを愛して下さる方によって輝かしい勝利を収めていますとは、私たちは今完全な勝利者になっている、完全な勝利者であり続けているという意味です。私たちを愛し続けて下さっている方のゆえに、私たちは、どのような状況にあろうとも、完全な勝利者であり続けるのです。時に敗北し、時に勝利する、その勝利も、どちらかといえば優勢だったという勝利ではなくて、完全なる、勝利です。私たちは、私たちの信じる神様によって、完全な勝利者であり続けるというイメージを持っているでしょうか。
ときどき、クリスチャンである自分が失敗したり、過ちを犯したり、事業で失敗したり、時には病気になったりすることによって証しにならないと嘆くということがクリスチャンに見受けられることがあります。
まあ余っぽと計画的でひどいことをすればそれこそ証しにならないということになりますが、私たちは罪深く、弱い存在です。クリスチャンでも罪を犯します。居直りは良くありませんが、私たちも罪を犯します。失敗も犯します。すべてが順風満帆とは、もちろん行きません。御利益信仰の人が見れば、なんであなたはクリスチャンなのに、そんな災難に見舞われるのですかと問われるようなことがあります。そこで証しにならないのかなと、気弱になったりもするのです。
しかししかし。私たちは、私たちを愛して下さる方によって、完全な勝利者であり続けるのです。
どんな状況にあっても、順境・追い風であれ、逆境・向かい風であれ、艱難であれ、苦しみであれ、迫害であれ、飢えであれ、裸・一文無しであれ、危険であれ、剣であれ、私たちには、私たちを愛して下さる方によって、すでに、いつも完全な勝利者なのです。
振り向いて嘆くことなく、今を考えて暗くならず、未来を思ってため息をつかず、私たちを愛して下さる方を見つめることによって、私たちは、完全な勝利者にされていることを思い出すことが出来るのです。
それでも勝利者です。神様がともにいて下さるからです。
それでも神様は私たちを見放さないからです
だから私たちは、完全な勝利者なのです。
苦しみ涙を流しているのなら、神様もまたともに、悲しみ泣いて下さいます。
罪を犯しても、赦しを請えば、神様は赦して下さいます。
私は確信しています。
死も命も これは人間を支配している巨大な原理であり、力です。
天使も、支配する者も、 天使は良き支配の象徴、支配する者は、悪しき支配の象徴とも取れます。ですから、あらゆる良い支配であっても邪悪な支配であってもという意味に理解できます。
現在のものも 未来のものも 現在と、これからやってくるものすべてという意味です。
力あるものも これもまた権力あるものという意味です。
高いところにいるものも、低いところにいるものも どんなに高いところを支配している勢力も、またどんなに低いところ、よみにいたるまで、そこを支配する勢力も、という意味です。
他のどんな被造物も、 あらゆる力も支配も、今あるものもやがて来るものも、一切合財のもの、私たちに力を行使する者も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。
私たちは、そんな圧倒的な、完全な、神の愛のゆえに、完全な勝利者とされているのです。
このイエス・キリストを惜しまずに捧げられた神様の愛から、私たちを引き離すものは何もない。この私たちにぴったりとそっていて下さる神の愛、私たちをかばい、覆い尽くす、盾となって下さる神の愛と私たちとの間に割って入ってくるものは何もないということを聖書は語っています。
主は弁護して下さる方。だれが私たちを有罪に定められるでしょう。
主は私たちを愛し、私たちから離れない方。この圧倒的な愛を知って、一体どういう苦しみが、欠乏が、迫害が、命の危険が、私たちを神の愛から引き離すものとなるというのでしょうか。
私たちは、圧倒的な、完全な愛によって、包まれている、守られている、運ばれているということを確信して、今週の海原の旅路に出ていくならば、私たちは、嵐の海が、凪の海に変えられることを、体験することが出来るのです。
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