Warning: Undefined array key "HTTPS" in /home/tojokyokai/public_html/includes/head.html on line 16

説教原稿

2009年10月4日
「万事が益となる」
ローマの信徒への手紙8:18-30

産みの苦しみ、という言葉があります。
私は悲しいかな、男性ですので、出産の苦しみというものは体験することが出来ませんでした。
色々な体の他の苦しみに比べても、産みの苦しみは、大変辛いものと例えられます。
しかし、産みの苦しみとは、後に素晴らしい出来事を引き連れてくる出来事です。
子どもが生まれる。新しい命が顔を出す。 この喜びと栄光を目の当たりにする時、苦しみは過ぎ去って、喜びだけがそこにはあります。

ローマ書は、人間の、罪との格闘が描かれています。
罪がもたらす悲惨、人が罪にとらわれ、縛られていて、自分のしたいと思うことが出来ずに、罪の性質に従ってしまうという、罪のもたらす悲惨さが繰り返し、述べられています。

しかし、それら、罪のうちにある現在の苦しみ、この苦しみは、将来私たちにあらわされるはずの栄光に比べれば、現在の苦しみは取るに足りないと、パウロは語っています。
この苦しみとは、罪との戦いにおける苦しみです。罪を克服して、世界が完成されるために到達されるべき、産みの苦しみです。

今日の個所において、苦しみとは、私たち人間のもののみならず、自然界すべてが罪による堕落によって苦しんでいると説明されています。

19節20節、「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服しています」

罪が贖われ、世界が完成される戦いは、人間だけの戦いではありません。被造物全体、造られたものすべてが、共に産みの苦しみをしているのです。

被造物は、人の罪のゆえに、虚無に服しています。虚無とは、「本来の効力を失って実を結ばない状態」のことです。美しい大自然が、実は人の罪のゆえに呪われた状態にあって、十分に実を結ばせることが出来ない状態、うめいている状態なのです。

創世記の中で、人が神の御心にそむいたゆえに、地は呪われ、人は食べ物を得ようとして苦しむようになったことを思い出しましょう。地は人の罪のゆえに呪われました。ですから被造物もまた、人と共に、苦しみ、うめいているのです。
このような状況で、被造物は、神の子たちの現れを切に待ち望み続けているのです。
神の子たちとは、私たちクリスチャンのことです。神様の回復のわざ、救いのわざはキリストから始められ、クリスチャンが起こされることによって、始められているのです。被造物は、それらの事を良く知っています。切に切に、神の子の現れを待ち望み続けている被造物。私たちが意思も何もなく、ただ目の前に存在しているだけと思っていた被造物は、私たち人間によって虚無にさいなまれ、回復のために、世界の再生のために、日々うめき続けていたとは、本当に、私たちは考えさせられます。
知らなかったのは、私たちだけ。人の行いのゆえに、どんどん自然環境は悪化の一途をたどっています。被造物はうめき続けているのです。

被造物は、虚無に服していますが、それは自分の意思によるものではなく、服従させた方の意思、即ち神様の意思によるものなので、同時に希望をも持っています。

被造物は、いつかこの滅びの隷属、呪われた奴隷状態から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれると、希望を持っています。
神の子供たち、クリスチャンがこの地上に増え広がり、神の御心を愛する者たちの世の中になったときに、栄光に輝く自由が与えられると、被造物は、希望を抱いて、けなげに待ち続けているのです。滅びへ至る隷属のただ中にありながら、滅びへの転落の道の真ん中にありながら、希望を持ち続けているのです。

22節、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。」

被造物は、今日にいたるまで、ずっと、共にうめき、共に産みの苦しみを味わってきました。
美しい自然。私たちが見て、癒しを感じるその大自然の中に、破壊と滅びが働いていて、その大自然が、うめき、産みの苦しみをしながら、この宇宙の完成を待っているのです。

人の、神の意思に従え得ない心が、罪の心が、罪のない被造物全体に危害を加えることとなりました。虚無に陥れ、滅びへと至らせているのです。しかし、被造物は、いつかこの滅びの奴隷状態から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれると、希望を持っているのです。

今は、産みの苦しみの状態です。苦しみ、うめきがありますが、この苦しみは、良いものを生みだすための通過点なのです。苦難、忍耐、練達、希望、この希望は失望に終わることのないその希望です。

被造物だけでなく、私たちもまた、神の子とされ、体が贖われて、完全とされるのを、待ち望んでいます。証印としての聖霊を頂いた私たちは、神の子とされています。私たちもまた、地上では不完全な者ですが、心の中でうめきながら、完全にされることを待ち望んでいます。
私たちは、いまだうめきの中にいながら、苦しみの中にさいなまれながら、虚無と滅びの中におかれていながら、希望を持って、進んでいます。

あらゆる苦しみや、うめきがあります。虚無と滅びの中におかれています。驚き、悲しむようなことがあります。どのように解決の道が示されるのか、全く分からずに、手探り状態のようになることがあります。
しかし、どんなときにも私たちは、希望によって救われているのです。
私たちの手から、希望を奪うことは出来ないのです。どんなに状況が行き詰っても、私たちは希望によってもうすでに救われているのです。
船が難破して大海原を板切れ一枚で、陸に向かって泳いでいる人が、ただ一つ、失ってはならないものは何でしょうか。それは希望です。必ず陸に泳ぎつけるのだという希望が必要です。
見えるものに対する希望は希望ではないとあります。 目に見えるものとは、私たちが今を生きるこの世界のことでしょうか。私たちが生きているこの世界の苦労とは、私たちが生きているかぎりの苦労です。私たちの生きている間の希望は、私たちの生きているかぎりにおいての希望です。やがてそれは過ぎ去ります。
私たちは、目に見えないものを望みます。 そこに希望があると信じています。私たちは、忍耐して、待ち望むのです。内なる罪との闘いの日々があります。しかし私たちは目に見えないものを信じて、私たちが完成されることを信じて、戦い続けることが出来るのです。

私たちは、この世界の者でしたが、今は、神の子とされています。神の霊によって生まれました。私たちは、この世界に属する者でしたが、今は、神の霊に属するものとされています。私たちは、目に見える世界に属していましたが、今は、目に見えない世界に属しています。私たちは、希望を抱く必要にない世界に生きていましたが、目に見えないものに期待を置く私たちは、神にあって、忍耐して、希望を抱いています。

同様に、霊が、弱い私たちを助けて下さるのです。
私たちは、どう祈るのか分からぬ、神様との意志の交流の中にに生きない者でした。
しかし、神の霊自らが、言葉に表せないうめきをもってとりなして下さるのです。
この「とりなして下さる」という言葉は、「ともにいて、私たちに代わって、手伝って下さる」という意味です。
私たちの、地上にある罪との闘い、産みの苦しみのうめきは、孤独な戦いではありません。聖霊ご自身が共にいて、苦しみを共に担って、手伝い、共にうめくようにして、助けて下さるのです。
「どう祈ったらいいかわからない」というのは、私たちがどうやったら神様の御心かなった祈りが出来るのか、ということです。しかし、御霊ご自身が、深い同情と理解をもって、私たちのためにとりなして下さるのです。 弱く無知な私たちであるにもかかわらず、私たちは、聖霊によって祈る時に、平安と確信をもつことが出来るのです。

「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」エフェソ6:18

御霊は、神様の御心に従って、聖なるものたち、私たちクリスチャンのために、とりなしていて下さるのです。
目に見えない世界の中に、被造物のうめきと産みの苦しみがありました。そして罪に戦う、目に見えないものに希望を抱いて、完全を目指して歩む私たちの歩みがありました。そして同様に、弱い私たちのために、うめくようにとりなし、私たちに代わって手伝って下さる、深い同情と共感をもってとりなして下さる聖霊様、そしてこの霊を遣わして、御自分の御心を成し遂げようととりなしていて下さる父なる神様のご存在があります。聖霊様によってとりなされ、神の御心に従う者とされるときにこそ、私たちには平安と確信が与えられるのです。

「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。」

神を愛する者たちとは、神のご計画に従って召された者です。
私たち一人一人は、神様のご計画によって召されたものです。神のご計画に従って、神様の祝福の御心の中に召され、取り扱われること、これこそが神を愛する者の人生です。
神様のご計画がどこにあるのか、分からない時があります。この道が本当に祝福をもたらすのかと、信じられないことがあります。神様を愛するものと言いながらも、時において信じられずに、疑いの目を向けてしまうことがあります。

しかし神様が召して下さった私たち一人一人への神様のご計画は、信頼に値するものです。それらは、間違いなく、私たちに平安と祝福をもたらすものです。神様は、すべての事を、例外なくすべての事を、共に働かせなさいます。私たちは、私たちにとって良いことは、良いことであり、悪く思われるものは取り除いてもらいたいと願う者ですが、神様は、すべての事を一緒にして働かせなさいます。そしてそれらを、良きものへと、益へと、幸せへと、働かせて下さるのです。

神のご計画に従って召されたものとして、神の御心に従って歩むものとして、神様は最善のために、私たちに働いて下さるのです。私たちは、神様の御心のうちを、ご計画のうちを歩みながら、私たちへの、神様のご計画を、日に日に悟ることが出来ます。神様のご計画のうちに進むということは、すべてのことが相働いて益となるということを知っているならば、私たちは、いつも平安と確信の中を進むことが出来ます。どんなことが起こっても、これが神様の、私へのご計画、相働きて益をもたらすための神様のご計画と、知ることが出来るのです。

神様の御心に従い尽くされた御子キリストの姿に似たものとされながら、そのことを、私たち神の子とされた者たちは、光栄とする者です。私たちは、神様をアッバ父よと呼び、聖霊様に、母のようにとりなし導いていただき、イエス・キリストを兄として歩みます。

神様は、あらかじめ定められたものを召しだし、召しだしたものを神の御心に従う者、義として下さり、義とされたものに栄光をお与えになりました。

罪と闘い、産みの苦しみをし、そして神の子供たちは栄光に輝く自由にあずかるのです。
そしてそんな神の子たちの栄光にあずかるゆえに、被造物全体も、共に産みの苦しみをしながら、うめいています。

私たちの、目には見えないところに希望を抱く歩みこそ、ご計画に沿って召されている、期待されている、人間の歩みであります。
聖霊様のうめきのとりなしを頂きつつ、万事を相働かせて益として下さる方の御心に委ねつつ信頼しつつ、私たちの長子となられたイエス様の姿に似せられたものにつくり変えられ続けられますようにと、心から願います。

日本アライアンス教団 東城キリスト教会
〒729-5124広島県庄原市東城町東城384
Tel 08477-2-0288 -  メール -

© 2006-2025 Tōjō Kirisuto Kyōkai. All rights reserved.
Site hosted by Jaspella Gospel Guide.