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説教原稿

2009年9月27日
「神の子、神の相続人」
ローマの信徒への手紙8:1-17

先週の聖書の個所は、パウロの、壮絶なる罪との格闘の告白がありました。
「善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっている」「わたしはなんと惨めな人間なのでしょうか。」「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょう。」
しかしパウロは、自分がしたいと思うことが出来ないほどに罪の力が自分にはびこっていると認めた時、イエス・キリストに走り寄ったのです。
「私たちの主イエス・キリストを通して神の感謝いたします。」

イエス様は、私たちが罪あるままで受け入れ、罪人のために十字架にかかって死んでくださいました。
イエス様の恵みを受け取るために必要なのは、自分が救いを受けるにふさわしい正しい者であるということではなくて、自分はただただ虚しい、正しいことをしたいと思いつつもそれが出来ない、惨めな存在、罪の性質をかかえた者、罪人である。神の御心を行うことが出来ない者である。それに気付くことであるということが分かります。

1節、キリストのうちにあるなら、キリストに結ばれているならば、罪に定められることはない。

私たち自身がいかにか弱く、罪の前に膝を屈してしまっても、救い主として来て下さったキリストに、私たちがとらえられているならば。私たちが感謝して、キリストのうちにあり、キリストに結ばれているならば。わたくたちは、どんなに弱くても、問題があろうとも、罪に定められることはない。断罪されることはないのです。

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」 黙示録3:20

キリストを心に迎え入れる方は、幸いです。キリストは、私たちに赦しといのちをもたらし、愛をもたらして下さいます。そんな方が、私たち人類に与えられた。心の戸口まで送っていただけた。これは何という幸いでしょうか。

2節、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」
それまでは、罪と死との法則の中に生きていました。パウロが言うように、徹底的に心を探っていくと、私たちには、自分ではどうすることも出来ない、正しいことが出来ない、心の中の罪の性質、神の御心のままを行うことが出来ない肉の我に気付くのです。
しかし、その罪と死の法則にあった私たちに、キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が働くようになったのです。
3節、肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はして下さったのです。とありますが、「肉の弱さ」によって律法をなしえないとは、私たちの努力、能力によっては、神様の掟を守ることが出来ない、私たちの自力では救済不能ということですね。
そこで、私たちになしえなかったことを、神様はして下さいました。つまり、罪を取り除くために御子キリストを罪深い肉と同じ姿で(正真正銘の人間として)この世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。

罪を犯してしまう、人間の生まれながらの肉の性質のため、イエス様もまた、その、人としての肉をとって生まれ、人間と同じくなられ、そして人間として、人間の罪を担って神はキリストを人類の代表として罪のいけにえとされたというのです。
もともと人類に罪が入ったのは、最初の人間、アダムによってでした。彼の不従順のゆえに、人間の世界に罪が入り込んだように、神はまた、一人の人イエスによって、人類すべての罪を取り除こうとされたのです。

それは、私たちが肉に従って歩くのをやめ、霊によって、霊に従って歩くことが出来、神様の御心を行うことが出来るようにするためでした。
肉によって歩む者、したがって、罪の中に生まれた自我生命のうちに生きている人と言いますのは、ひたすらに肉に属することを考えます。
しかし、霊に従う者、新しく生かされるようになったものは、霊に属すること、神の御心をひたすら考え続けます。

肉の思いは死です。 体の中の古い心の法則に従い続けていれば、死を刈り取ります。それは神様を喜ばすことができません。
しかし、霊の思いは、命と平和です。神様の御心を歩むものは、命と平和のうちを歩みます。
私たちの思いは、何によって支配されているでしょうか。古い肉の性質でしょうか、それとも、神の霊の思いでしょうか。
パウロはまた顕微鏡を持ち出して、私たちの心を吟味するようにと言っているようです。しかし私たちは、もうすでにキリストと共に死に、キリストと共によみがえった者です。

7-8節、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法にしたがっていない、従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。

しかし私たちはそんな生まれながらのもの、かつての自分ではありません。
9-10節、「神の霊があなた方のうちに宿っているかぎり、あなたがたは、肉でなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなた方のうちにおられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。」

私たちは、神様の霊の思いを持たない者でした。自分中心、自分勝手なことばかり、考え、神の御心など、考えに入れない者でした。しかし、今は、「神の霊」が私たちのうちに宿っていて下さるのです。キリストは、御自分の肉によって私たちの肉が刈り取るべき刑罰を身代わりに背負って下さり、私たちを赦し、そして私たちに聖霊様を送って下さいました。
こうして、私たちは、肉の支配から解放され、使わしていただいた聖霊の内住により、霊の支配下にいるのです。
このキリストの霊、神の御霊を頂いていない者は、キリストを告白し、救いを授かった者のうちにはありません。キリストを信じ、救い主と告白し、救われている者のうちには、御霊、キリストの霊が宿って下さるのです。

私たちは、救われています。ですからもはや、肉の支配のうちにはなく、霊の支配下にいます。キリストの霊を頂いています。
この、聖霊の支配の中にあるということを、喜びたいのです。
うちにある罪の性質に絶望し、嘆き、なんと惨めな人間かと、嘆くより他ない人間でした。しかし今私たちのうちには、キリストの霊、聖霊が宿っていて下さるのです。そしてこのことが即ち、神の霊による、キリストの内住なのです。1節にありました、「キリスト・イエスに結ばれている者」という意味です。この霊によって生きるとき、もう私たちは、内なる肉の性質によって嘆かなくても済むようになるのです。

10-11節、「キリストがあなた方のうちにおられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなた方のうちに宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなた方のうちに宿っているその霊によって、あなた方の死ぬはずの体をも生かして下さるでしょう。」

内住の聖霊は、力強い霊です。私たちの体は罪によって死んでいても、この霊は義によって命となっています。この霊は、私たちに義をもたらし、命をもたらします。この霊は、イエス様を死者の中から復活させた方の霊です。この霊が宿っているならば、キリストを死から復活させた方は、私たちのうちに住んでいて下さる霊のゆえに、私たちの死ぬべきからだを生かして下さるのです。

私たちは、キリストの救いにより、新しく生かされる時、キリストの御霊によって、生かされているのです。私たちはもう、霊によって生まれています。神の霊が、私たちのうちに宿っていて下さいます。私たちを強力に支え、悪しきものから守っていて下さるのです。
私たちはもはや、かつてのように、古き肉の性質のうちに従って、生きる必要はありません。私たちは、その死ぬべき生活から、解放されています。私たちは、私たちのうちに住む聖霊により、古き肉の行いを死に追いやることが出来ます。そしてそのことにより私たちは生きるのです。

私たちは、この神の霊にこそ、依り頼みます。神の霊は遠く離れていて私たちを助けるのではなく、私たちのうちに、共に住んでいて下さるのです。この霊に依り頼み、いつも私たちは、従って生きるとき、古き肉の行いを死に追いやることが出来ます。そして私たちは、生きるのです。

14節、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」
私たちの祈りは、「聖霊様、いつも私たちを導いて下さい。」という祈りです。宿っていて下さる神の霊に信頼して従って生きる。そして古き肉の行いを死に追いやること。そして私たちは生き、私たちは、神の霊により、導かれ生き、神の子とされるのです。

心にいつも、住んでいて下さる聖霊様を意識し、聖霊様、私たちを日々、一時一時、瞬間瞬間を導いて下さい。古き自我の性質を打ち壊し、私たちを命の道に導き続けて下さいと祈り歩む姿勢が大切です。

かつては、罪と死の法則に縛られていました。
それは、人を奴隷として恐怖に陥れる悪しき霊に縛られた生活でした。したいと思うことも出来ずに、悪のとりことして心を奪われ、自己嫌悪に陥る生活でした。悪の親玉は、働かせるだけ働かせて、最後にその報酬として死を送ってくるような、私たちを破滅させる主人でした。
しかし今は、キリストによりその暗闇の支配から解放され、恵みによって神の子供とされています。
罪の奴隷から、神の愛する子どもへ。何という転身でしょうか。
奴隷は、働くのが当たり前で何のほめ言葉もありません。鞭ではたかれ、仕事をさせられるロボットのような存在です。売られた身であって、何の権利もありません。
しかし神の子供は、すべてのものが与えられています。神の霊が与えられました。聖霊様が共に住んでいて下さるのです。この聖霊様により、私たちは、この世界を作られた神様に対して、「アッバ、父よ」、お父ちゃんと、呼ぶことが出来るのです。もちろん神様も、何だい、私の愛する子よと、答えて下さいます。
恐怖に陥れる暗やみの霊のもとから神の子とするきよい霊のもとへと移し替えられる。何という幸いなことでしょうか。

このきよい霊は、私たちが神の子供であることを、私たちの霊と共に、一緒になって証しして下さるのです。何という頼もしい弁護者でしょうか。
私たちは、神の子として、神の相続人なのです。神様の持っていらっしゃる、素晴らしい者は一切すべて、私たちのものなのです。
キリストは、私たちの長子、兄上で、神様は父上となるのです。私たちはキリストと並び、共同相続人となるところまで、引き上げられるのです。

私たちが世界のすべてを相続するのと同じように、キリストと共に、何を相続するかが、17節の最後の所に書かれています。

「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」

ここに、贖われ、霊によって生かされている者の生涯の使命が描かれています。
私たちはかつて、悪と死の奴隷として、囚われて、苦しんでいました。しかし今は、神の霊が与えられ、神の霊によって導かれ、かつての肉の行いを霊によって殺すことが出来るようになりました。神の霊によって導かれて生きるようになったのです。
それではキリストと共に苦しむとは、どういうことでしょうか。
キリストの苦しみとは、罪人を赦し、自由にするための苦しみでした。
キリストには罪が全く見当たりませんでしたが、彼は人の罪を担い、罪人と同じ姿となって十字架につかれました。その義のわざ、神の御心にかなった業により、キリストは、すべての名にまさる名を得、よみがえって、父なる神の右の座に着座なさいました。
私たちは、キリストの贖いのわざそのものを行うことはできませんが、キリストの義のわざに用いていただき、共に苦しみつつ義の道を歩む人生が用意されています。

私たちもまた、この神の御心に沿った道、義の道を、キリストと共に歩む時、義のために苦しみ歩む時、キリストと共に神様の栄光にあずかるのです。

今日の所をまとめてみたいと思います。
かつては自分の思うように歩み、罪と死の奴隷状態で、善をなそうと思ってもなすことの出来ない、惨めな存在でした。
しかしその弱さゆえ、出来なかったことを、神様はして下さいました。
罪を取り除くために御子を与えて下さいました。
そして神様は、私たちに聖霊を与えて下さり、神の霊を私たちのうちに宿らせて下さいました。
神の霊が宿っているかぎり、私たちはもはや、肉には属さず、キリストに属するものとなりました。
私たちのうちに宿っておられる聖霊が、保証となって下さるのです。私たちはキリストと共に、この霊によって保障され、復活することが出来ます。
神の霊によって導かれる者は皆、神の子です。 霊によって体の仕業を絶つならば、私たちは生きます。私たちは、神様をお父ちゃんと呼び、神の子として生きます。神の子ならば、キリストは私たちの兄、私たちはキリストの弟です。
私たちは、尊敬するキリストと共に栄光に向かって生きるのです。義のために苦しみを受けるのは、神の子とされた者の特権です。

内住の聖霊によって生きる。 神の霊によって導かれ、生きる。
霊によって体の仕業を絶つならば、あなた方は生きる。

古きものの仕業を霊の目によって見抜き、その仕業を絶ち切ることが出来るようになった身の上に、感謝いたします。内住して下さる聖霊様、ありがとうございます。こう祈りつつ、一時一時を委ねつつ、祈りつつ、新しい週を歩みたいと、願うものです。

「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」マタイ5:10

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