説教原稿
2009年9月20日
「なんと惨めな人間なのでしょう」
ローマの信徒への手紙7:7-25
先週は、有名な御言葉で章を閉じたローマ6章でしたが、今日は、7章に入ってまいりました。
罪が支払う報酬は死。 罪に対してせっせと仕え、さあ御苦労さん、報酬、給料だよと言って、大きな封筒を開けると、そこにはどくろのマークが描かれているというのです。何と恐ろしいことでしょう。死をもたらすところに私たちはせっせと仕え、働きたくない。そんな恐ろしい結末を与えるところには、関わりをもちたくない、私たちはそう思うのです。
しかし私たちは、教えられもしないのに、いつの間にかみんながみんな、罪を働く会社に就職したいと、長蛇の列を作っているのです。そして、人生をかけてコツコツと罪を重ねます。最後にもらう報酬は、死です。
報酬なんて言う、聞こえのよいものではありません。刑罰です。だまされたのです。「最後にいいものを上げるからね」と言われて、だまされて、とんでもないものをつかまされるのです。
それに引き換えです。
そんな、死のるつぼに呑み込まれていく人類をじっと見ていた神様は、人に賜物を与えて下さいました。
一方的に、無条件で。無料で、神様は、永遠の命を与えて下さいました。
罪の中をさんざんうごめき、神様の前にやってこず、さんざん好き勝手をやって、神様のご意思とは関係なくやってきたのに、神様は、賜物として、救いを与えて下さるのです。
神様はご覧十字架をと、おっしゃいます。あそこにイエスがついているだろう。彼はあなたの罪の身代わりとなったんだよ。あなたは、赦されているんだよ、死は過ぎ去り、永遠のいのちをあげるからねと、おっしゃるのです。
さて、私たちは、どちらの主人に仕えて、この人生を歩みたいかといえば、明白です。どちらの主人のもとで仕事をしたいかといえば、明白です。
明白なのに、どうして人はかくも罪のもとにとらわれ、縛られてとりこにされてしまうのでしょうか。
人間が罪を犯してしまう罪のシステムがある。その仕組みを徹底的に解剖する。それがこのローマ7章です。一体どうして人は罪を犯すのでしょうか。
律法律法と、何度も書いてあります。
私たちが罪を犯したと自覚するとき、それは律法を破ったということが分かる時です。
車に乗っていて、大体ここは50キロ制限の道かなと思って50キロで走っていたとします。真っすぐな道だし、見通しもいいし、安全に走っています。しかしやがてのちに、速度制限をあらわす標識が見えて来ました。40キロ。その時、自分が速度違反を犯していたことに気付きます。
律法、即ち法律は、決して悪いものではありません。人の安全のために、幸福のために備えられているはずです。
しかし、律法がなければ、同時に、人を罪と定めるものもないのです。
スピード違反の対する法律がなければ、スピード違反の罪で処罰されることもないでしょう。第一、そういう法律がなければ、スピードを出しすぎることが悪いのだ、罪なのだということをさえ思わないのです。しかし人にとって有害であり、悪であるということを知らせるために、律法というものは存在するのです。
「むさぼるな」という律法があります。限度を超えて、欲望を見境なく働かせるなということですが、そう言われるまでは、どこまでがむさぼりであるか、これ以上はむさぼりで、ここまではむさぼりではないとかいうことは、だれも考えもしなかったということが分かります。
8節に「ところが」と書いてあります。
罪は掟によって機会を得た。 どういうことでしょうか。
私を欺き、掟によって私を殺してしまった。
どういうことでしょうか。
そうです。「むさぼるな」という掟が作られるまでは、私たちはむさぼりというものを知らなかったのです。しかし、その掟によって、私たちは逆に、「むさぼり」というものを、知ってしまったのです。そして、それまでは自由にやっていたことも、「むさぼり」として罪として、してはならないものとして知るようになりました。
しかし、もともと律法になるということは、人がしばしばそれを犯しやすいからそれがわざわざ律法になるというものです。
ここでは足を滑らせ易いから、「転倒注意」という標識が掲げられるのと同じように、人がむさぼりやすいから、「むさぼるな」という律法が出来るのです。
ですから、人はむさぼりやすいものであるのに、むさぼるなという律法のゆえ、むさぼりをより意識するものとなり、悪いものと認識してもなお、むさぼりを犯してしまう、そして結局、人は、悪いことを知りながら、あえて自分の意思で悪を犯し、罪を犯して律法を犯すことをし続けるようになった、そして罪の報酬として死を宣告されたというのです。
これが、罪は掟によって機会を得、私を欺いて、(掟を破る私を)掟によって殺すものとなったということの意味です。
それでは、掟自体は悪いものなのでしょうか。いえ、掟は、人間に幸福をもたらすために必要なものです。掟がなかったからといって、知らずに過ちを犯したとしても、過ちを犯せば、悲惨な結末を迎えなければなりません。過ちを犯さないように、悲惨を迎えないように、警告することは、大切なことです。ですから、掟は、聖なるもの、正しく、良いものです。神様が与えて下さったものです。
それでは、そんな良いものがなぜ、私に死をもたらすものとなったのでしょうか。
なければならない、人を幸福に導くはずのものが、どうして人に死をもたらすのでしょうか。
決してそうではない。パウロは強く語ります。
むしろその良いものによって人に破滅をもたらし、死をもたらすということが、罪の正体をあらわしていると、パウロは語ります。
善いものを通して私に死をもたらす、このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、この掟を通して示されたのです。
悪魔はしばしば、「告発者」と言われます。人が悪を行い、罪を犯す時、悪魔はそのことを神様に告発します。さて、あの○○という奴は、何時何分、これこれの律法に違反し、罪を犯しました。どうぞ処分して下さい。
神様が、愛する子に、「さあ危ないから、気をつけなさい、転んでけがをすると危ないからねえ」とおっしゃつて、頭をなでながら、「ここは滑りやすいから走らずにゆっくり歩きなさい」と書いた張り紙を、悪魔は盾にして、あ、何時何分、違反、罪というのが悪魔です。
もっといえば、人に罪を犯すようにそそのかすのも、悪魔の仕業です。
創世記3章に書いてありました。
人が神の言いつけを守り、歩もうとしているのに、悪魔は、その木の実を食べても決して死にませんとまで言い、人をだまして、罪を犯させました。
「走ってもいいじゃないか」「転ばないように走ればいいんだ」言葉巧みに人をそそのかし、罪を犯させ、そして罪を告発し、人を死に定める。これが悪魔のやり口です。
掟は聖であり、正しく、善いものです。律法は霊的なものです。
しかし私は肉の人であり、罪に売り渡されています。
大使徒パウロは、人は罪人であり、肉の人であるなどと、一般化されたことを言うのではなく、「私は肉の人であり、罪に売り渡されています」と語ります。
律法が善いものであり、正しく、聖なるものであることは知っている。霊的なものであることも知っている。しかし、私の肉の欲は、いつもそれらの掟に従うことを拒んでしまうと、パウロは語ります。罪に売り渡されてどっぷりとその支配のもとにおかれていると、パウロは告白しています。 罪を犯すものは罪の奴隷になり、義を行う者は義の奴隷となると語られていたとおりです。
15節、「私は、自分のしていることが分かりません。」パウロは絶望にも似た告白を続けます。
自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをし続けているからです。
人間、確かに、正しいことをし続けることの何と難しいことかと思います。気を張っていても、ついぞ失言を語り、人を傷つける人間。意地と意地をぶつけて、いさかいとなり、なかなか人を赦せずに、人を追い詰めていく人間。復讐し、敵を破滅へと追い込む人間。人の幸福を羨み、人の不幸を喜ぶ人間。これが人間の深い深いところにある本性なのではないでしょうか。
意識しなくても慰めを語り、人を癒し、すすんで敵を許し、負債を許し、人をどこまでも自由にし、回復させ、人の幸福を自分の事以上に喜び、人の悲しみを我が事以上に悲しむ。手助けをする。これらは、人が神なくしては得ることのできない心の姿勢ではないでしょうか。
心で願いながらもしたいことが出来ずに、心の地金が出てきてしまう。その葛藤。その苦しみ。その絶望。パウロは包み隠さずに告白しています。
心では律法を行いたい、しかし望まないことをしてしまう、そういうのであれば、律法は良いものである、人は律法にしたがって正しく生きたいという良心を持っているということが分かります。
しかしかえって憎んでいることを行ってしまう。そういうことを行っているのは、もはやわたしでなく、わたしの中に住んでいる罪なのだとパウロは語っています。
善をなそうという意思はあるのに、善を実行できない。しかし悪を行ってしまう。つまり私のうちに住んでいるのは善でなく、悪であるとパウロは語ります。
自分の望む善を行うことが出来ずに、悪を行ってしまう。それはもはやわたしでなく、私の中に住んでいる悪、善を行おうとする自分には、いつも悪が付きまとっている。
悪の力があまりに強くて圧倒的で、本当のわたし、善を愛し、善を行おうと願う私が押しつぶされている。そして、そのようなわたしの中には、善が住むことが出来ずにただ悪が支配している。
何と末期的な状況でしょうか。悪性細胞にすっかり支配されてしまったような病気の体のような状態です。
何と絶望的な、葛藤に満ちた、葛藤というよりもむしろ、打ち負かされた状況でしょうか。
22節、「内なる人」は神の律法を喜びつつも、私の体の各部分には、もう一つの法則があって心の法則と戦い、結局わたくしを罪の法則のとりこにしてしまう。
私は、私は、善いことを行いたい、心に願う神様の善い律法を守りたい、違反したいなどとは決して思わないけれど、結局は、心のなかのもう一つの法則がわたしをとりこにしてしまう。いつもいつも私は打ち負かされてしまう。
私はなんと惨めな人間なのでしょう。
パウロの絶望は、叫びは、ここで頂点に達します。
罪へと誘う欲望。そして罪をもたらし、私はそれをどうすることもできない。
再生不能、自己更生不能の、どうすることも、こうすることも出来なくなってしまったこの惨めな私、死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるのでしょうか。
悲痛な叫びです。哀れで惨めなどうもこうも出来ない困り果てた、絶望しきった人の姿がここにあります。
しかし、この状態こそ、この絶望こそ、私たちがじっと見つめ、私たちもまた学ぶべき心の姿なのです。
この破れ果てた心の姿こそ、私たちへの神様の導きの一段階なのです。
ここまで挫折し、ため息を漏らし、葛藤し、頭を打ち付けるように、罪の法則と戦ったことがあるでしょうか。ここまで激しく、罪の力を意識し、自分がダメ人間である、罪のとりことなっている、罪に売られた罪の奴隷であると、徹底的に意識したことがあるでしょうか。
半分罪人、半分いい人、そういう生半可ではなくて、私のうちには悪が住みついていて、善はいない、自分のしたいと思うことをいつもすることが出来ない。もう一つの法則に縛られている、何という惨めな私、何という惨めな私!こう叫ぶよりほかは何も出てこないまでに、罪の力に対して抵抗したことがあるでしょうか。
罪人に対する神様の賜物は、イエス・キリストにある永遠の命です。
死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。
突然につきぬけて、讃美に至っているのを唐突で奇妙と思われたことがあるのではないでしょうか。いえいえ、あそこまで苦悩して、ほかに何の助けもなく、ただただ惨め、罪人の惨めさを味わったがゆえに、罪人は、罪を赦して下さる方の懐に抱かれるのです。
健康な人に医者はいらない。医者を必要とするのは病人であるとイエス様はおっしゃいました。
私たちは自分の弱さにとことん向き合うことが出来るのです。向き合えるのがクリスチャンです。安っぽく聖人君子ぶっているのがクリスチャンではありません。
私たちはとことん自分に破たんしていいのです。偽善者であっていいのです。とことん惨めさを味わっていのです。むしろ味わわなければならないのです。惨めでなければ、私たちは、神様を、救い主を、必要としないのです。
惨めさに、人知れず涙するものを、神様は、愛して、抱きかかえて下さいます。
キリストの十字架を見なさい、罪は赦されているんだよと、語って下さいます。
心では神の律法に仕え、肉では罪の法則に仕える。こんな偽善者でも、葛藤し、日々方向を修正する罪人をも、神様は愛して下さるのです。いえ、そういう者だから、神様は、愛して下さるのです。葛藤のない、惨めさのない、クリスチャンの生活は、本当のクリスチャンの生活ではないのです。
律法を守ることが出来ないと嘆くものに与えられるのが無条件の恵みによる救いです。こうして律法は私たちを救いに導く恵みの手段となります。
私たちは律法を行うことによって報酬としての救いを受けるのではなく、律法によって罪が知らされ、神のあわれみをいただいて一方的に救いを受けるのです。
惨めさのない、自分が義を獲得した、自分が立派にやって救われたという信仰は、クリスチャンとしての信仰ではありません。
私は惨めな人間です。ここから信仰の歩みが始まるのです。ここから感謝が始まるのです。これが「狭い門から入る」ということなのです。
恵み深い主は、私たちと共に新しい週も共に離れずに、いて下さいます。私たちは立派でなくても、神様の恵みによって赦され、強められ、素晴らしい証し人とされるのです。私たちが見つめるべき方は、ただお一人です。この方に期待して、感謝して歩んでいけるのです。
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