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説教原稿

2009年9月13日
「神の下さる永遠の命の賜物」
ローマの信徒への手紙6:15-23

 キリストは、何のために死んでくださったのか。前回の個所には書かれていました。
キリストは、死ぬべき私たちの死を先回りして体験して下さいました。
私たちは、キリストの死にあやかることによって、死者の中からキリストが復活され、新しい命に至られたように、復活の姿にあやかれると書いてありました。
キリストが修羅場をくぐって下さいました。私たちには、新しい命、復活の姿が与えられています。
キリストとともに死んだのなら、キリストと共に生きる。
私たちは、今生きながらに、キリストの死にあやからせていただき、キリストと共なる死を体験させていただくのです。この死とは、古い自分に対して死ぬということです。
一度死んだものは、もう一度死ぬ必要がありません。もしも私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストと共に生きることになります。
もしも私たちがキリストとともに死んでいないのなら、キリストの新しい命、復活の姿にあやかることはできません。
自分にいちど死ぬということは、難しいことのように思われるでしょう。生きながらに死ぬとは、どういうことでしょうか。

 どうでしょうか。もともと私たちは、生まれながらに、神様を知らない者でした。神様の御思いを、自分の計算に入れずに行動していました。つまり自分がよいと考えるように振る舞っていました。
今日お読みいただきました個所、20節、21節には、こう書いてあります。
「あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。 では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。」

自由に生きていると思っていましたが、聖書によれば、神の御心に対して自由に振舞っていた私たちは、罪の奴隷だったと書いてあります。罪のいいなり、言うがままの奴隷のようにされていたというのです。
そのころ、どんな実りがありましたか。今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。

今日の聖書の個所によりますと、私たちは、罪に従うか、神の御心に従うかの二つに一つを選ぶよりほかに方法がないことが示されています。
何かに従えばその奴隷となる、ですから、私たちの前には、二人の親玉がいて、手を伸ばしているのです。そして、私に従いなさいと、言っているのです。

罪に従って罪に仕える奴隷となって死に至るのか、神に従順に仕えて神の御心に至るのか、そしてそこから最終的に行き着くのは、永遠の命です。
私たちの前には、いつもこの二本道がありました。正確にいえば一本の太い道、歩きなれた罪の道と、もう一本、狭い門からくぐって通る、神の御心を通る道です。

 もともとが、死に至る道でありました。神の御心、神の義に対して自由気ままで、罪に仕える奴隷となって歩む道の行き先は、死でありました。この死とは、肉体の死を遂げた後に、神の裁きを受けてのち体験する永遠の滅びです。

 ですから、私たちが生きながらに死を体験するということは、この死ぬべき生き方に死ぬということ、この死ぬべき私に死ぬということなのです。
キリストは死ぬべきわたしのために、ともに死んでくださり、私たちが死ぬべきわたしに死ぬことが出来るように、死んで新しい命に生きるように、新しく神様の奴隷として、神に仕え永遠の命に至るように、私たちのために死んでくださったのです。

 律法の世界でなく恵みの世界にいる、赦されているのだから、もう何をしても赦されるんだ。こう言う人たちの中に、パウロは、古い肉の匂いを嗅ぎ取っていたのでした。
神様の御心に対して自由気ままに生きていたころの生活に逆戻りするのか。そこから一体どんな良い実りを得たというのか。今や恥ずかしいと思うだけのものではないか。そこから生ずるのは死だけではないか。

 キリストとともに死なせていただいたのです。古いものは過ぎ去り、すべては新しくなりました。(2コリント5:17)

 自分は誰の奴隷でもない。自分は自分なりによく考えて、豊かな人生に舵を取って来た、何の後悔も心の痛みもない。多くの方は、こうおっしゃることでしょう。しかし愛する皆様方、聖書には、「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」
どちらかなのです。こうはっきりと書かれています。

 つまり、キリストと共に死んでいない人は皆、罪の奴隷であって、神の御心に従うことが出来ないということです。
パウロが言いますように、教会の中でも、「律法のもとではなく恵みのもとにいるのだから、罪を犯してもいい」というものがありました。一度はキリストの死にあずかるバプテスマを受けた者でも、罪の魅力は巧みにそのクリスチャンを捉えようとうごめくのです。愛する皆様方、皆様方には、お気をつけ頂きたいと思うのです。死んだ我を呼びさまし、また自分の思うように歩ませようと、罪の奴隷として操ろうとする暗やみの力がうごめいているのです。

 神によってキリストの死にあずかられていただいている者とは、どういう者でしょうか。
19節、「かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。」

 かつては自分の体の各部分を、五体を、汚れと不法、即ち悪のために奴隷として捧げていたとパウロは語ります。
「罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」

 神様の御心に聞き従わないということが何と恐ろしいことか。いのちか死か、その間の道はないと、聖書は語っています。
神の御心に耳を閉ざし、自分の内なる声に聞き従うということは、何と恐ろしいことか、聖書は語っています。
神の御心に耳を傾けない時、自分の五体を汚れと不法、即ち悪の奴隷として悪の中に生きるということになります。
聖書は、自分の身をささげなさい、神様が求めることのために、神様へ身をささげるためにと、記しています。

 これが、キリストとともに死に、キリストと共に生きる者の生き方です。

 22節、「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」
「今はとうとう。」この「今」という言葉は、普通の「今」という言葉ではありません。強調形が遣われています。「今とうとう」罪から解き放たれ、神のゆえにとりことなり、きよい、従順の実を結ぶようになりました。これらの行き着くところは、永遠の命です。
神の御心を知らずに生きていたころの実り、果実と、神のとりことされた従順の実り、果実とを比べてみましょう。
木が違えば果物も違います。おいしい甘い実を実らせれば、その気は良い木と言われます。渋い実ばかり、食べられない実ばかりをならせていれば、その木は切り倒されてしまうことでしょう。
私たちの口から出てくる言葉は、素晴らしい実りをあらわしているでしょうか。私たちの行いは、素晴らしい実りをあらわしているでしょうか。私たちの心の関心事は、素晴らしい実りをあらわしているでしょうか。
私たちは、どんな果実を実らせているでしょうか。
聖なる生活の実、きよい、神にささげる生活の実りを実らせているでしょうか。

 この実をチェックしてみましょう。
自分の欲を満たそうとしていますか、それとも神の御心を求めていますか。
心の中のあらゆる動機をレントゲンにかけてみてください。この心の動機は、一体何から生まれてくるのかと。この時腹を立てるのはどうしてか。この時あの人が許せないのはどうしてか。この時あの人を受け入れられないのはどうしてか。
そして神様の御心を求める祈りをして下さい。いつも私は、神様の御心のうちを歩ませて下さい。神様の義の奴隷となり、五体をすべて神様にお捧げいたします、私の持てるものを皆神様にお捧げいたします、どうか用いて下さいと、祈り続けていただきたいのです。

 これが、永遠の命に至る、聖なる生活の実を結ぶ、生き方です。

罪が支払う報酬は死。有名な御言葉ですが、直訳すれば、「罪からの給料は死」となります。実に皮肉めいた言葉ですが、罪をせっせと行い、仕事とするときに、時がたって、給料日になれば、それに見合っただけのお給料がいただけるものですが、それは「死」であるというのです。そんな給料、受け取りたくないものです。そんな仕事をしたくないものです。そんなものをもらうために、一生を棒に振るのはご免であります。しかし、罪の行いに対しては、報酬として死が与えられるとここに書いてあります。

しかし、神様からの贈り物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠の命です。良いことを行った報酬として永遠の命が用意されているわけではありません。神様の救いの賜物は、良きことをすることが出来なくなってしまった不甲斐ない私たち人間に、無条件で与えられるプレゼントなのです。
罪の中に生まれ、罪の奴隷となり、当然の報酬として死を刈り取るより他ない、そんな私たち全人類のため、神様は、プレゼントを用意して下さいました。
私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのち。

 キリストが私たちの罪科のために尊い命を捧げてくださったことによる永遠の命です。罪人を愛し、無条件で受け入れて下さったキリストの恵みによる永遠の命です。

 私たちをこれほどに愛して下さったイエス様のとりこにならない手はないではありませんか。この方を人生の主として歩まない手はないではありませんか。

 私たちがよい実を実らせる条件、それは、私たちが、このキリストのとりこにさせられることです。私たちのために身を捧げて下さったキリストのために、私たちもまた、身を捧げて従順に歩むことです。これが神様の御心にかなうことです。

 狡猾に罪を犯させ、そしてその行いにより私たちに死をもたらす死と闇の支配者の声と、私たちのために命を捧げて救い出して下さるキリストと、どちらが好ましい存在でしょうか。
神様の御心は、人が罪に対して死に、キリストと共に生きることです。私たちが本当にキリストと結ばれて一つになっているのなら、私たちはキリストの死にあやかり、キリストの命と復活にあやかることが出来ます。

 私たちの祈りは、主よ、私たちの心にお入り下さい、常に私たちの主でいらして下さいというものです。
17節、「しかし、神に感謝します。」「かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり」ました。
22節、「今」とうとう、罪から解放されて神の奴隷となっています。聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。
「今」という言葉、これは、イエス・キリストが来て下さったことによってもたらされた「今」です。
今私たちはキリストを愛しています。キリストのもたらして下さった永遠の命の賜物を喜んでいます。ここからまた出発いたしましょう。キリストの死によって私たちの古い我を葬っていただき、キリストの命によって新しい、価値ある、実りある生き方をさせて下さいと、私たちは、今、心を空っぽにして、そう祈りたいと、願うものです。

 

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