説教原稿
2009年8月30日
「義のための道具として」
ローマの信徒への手紙6:1-14
新しい週の新しい朝を迎えております。
愛の神様の御名を心よりほめたたえます。
マザーテレサが、「愛」の正反対のことばは「憎しみ」ではなくて、「無関心」だという言葉を残していますが、まさに今のご時世をあらわしているように、思えます。
私たちは、人を積極的に「憎む」ということは少ないのですが、人に対して「無関心」であるということは、多々にしてあるのではないでしょうか。
神様は、御子イエス・キリストにおいて、私たちのことを深く憐れんで、身を乗り出して、天の御座を後にして、人として、神として、この世界に降り立たれ、熱く、熱心に語って下さいました。十字架につかれ、私たちの負債を、身代わりになって背負って、死んでくださいました。
神様は、包容力あふれる人類の父なる神。
よく、「子供は出来が悪いほどかわいい」と言いますが、どういう意味でしょうか。よく手を焼かせる子供が、少しずつまともになっていくのを見るとき、親としては手のかからなかった子供よりも愛着を抱くという意味でしょうか。
前回、ローマ書の5章では、キリストが、人類すべてが義とされるように、一人、正しい行為をして下さった、アダムという、一人の人によって罪がもたらされたのであれば、それにまして、キリストという一人の人によって、人類に無罪判決と、恵みが与えられたとありました。
「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」
人の罪は大きくとも、神の愛はそれを包み込み、それをはるかに超えるほど、大きいものである。「恵みはなおいっそう満ちあふれる。」これは、私たちにとって慰め深い言葉です。
今日お読みいただきました6章は、そのような5章の世界を引き継いで話が始まっています。
罪深いものには、恵みが一層あふれる、罪人を愛して下さる神。
出来の悪い子供を赦し、受け止めて下さる神。そうであれば、神の愛を得るために、子どもはいつもいつも出来が悪い方がいいのか。恵みが増すように、私たちは、罪の中にとどまるべきか。こうパウロは質問を始めます。
「どうせ神様が赦して下さるから、悪いことをしてもいいんだ、罪を犯し続けてもいいんだ。」との声に、皆さまなら、どうお答えになるでしょうか。
悪いことを積極的に犯し続けようとは毛頭願いません。しかし、そうは言うものの、救われてもなお、好まずにも、罪を犯し続けてしまうのが私たちというものです。
はっきりと決別できない、忸怩たる思いがあります。
パウロは、1節から2節の中で、面白い対比をのべています。それは、「罪の中に住み続けるか」それとも「罪に死ぬか」です。
「罪にとどまり、罪の中に住み続ける」、決してそうではない、私たちは、「罪に死んだ」のですと、パウロは語ります。
かつては、「アパート・罪」という住まいに住んでいました。罪の常習犯でした。しかし今は、そこからきれいさっぱり決別しました。死んでしまった人がアパートを出て行ったように、罪からきっぱりと関係を絶っているのだというのが、パウロの説明です。
そんなことも分からないのですか、いまだに片足突っ込んでいたとでも思っていたのですか、そんなに無知だったのですかと、パウロは驚きと共に語ります。
イエス・キリストのバプテスマ、洗礼にあずかるということは、イエス・キリストの死に結ばれるための洗礼を受けたのではありませんか。
私たちは、埋葬されたのです。
理解に苦しみます。
今私たちはこうして生きているのに、埋葬されている?
私たちは、土の中のむくろである。
あまり気持ちのいい言葉ではありません。
「生ける屍」という言葉があります。生きながらも、屍のように生気がないという意味ですが、私たちは逆に、「屍が生きている」のです。
奇妙な言葉です。
どうして生きながらに、そんなに「死」という状態を意識しなければならないのでしょう。
それが「バプテスマにあずかる」ということなのだと、パウロは語ります。
キリストのゆえに、バプテスマを通って、キリストの死に至る。それゆえ、私たちは、もうすでに葬られた、土に埋められてしまったものだと、パウロは語ります。
バプテスマとは、キリストの死にあずかることであると、語られています。
キリストが十字架に死んで、墓に葬られた。
このことは、実に私たちにとっても大切な、あるべきひとつの状態であることが分かるのです。
キリストは一度死に、父なる神様は、その栄光の力によって、その命のないもの、死んでいる者を引き上げ、復活させて下さいました。
死んでいるなら、新しく復活させる。 死んでいないのなら、その古い生活のままである。
これが聖書の中でしばしば語られる逆説的な言い回しです。
このようにして、このようにして、死を通ってのみ、私たちは、新しい生活に、私たちは、生きるのです。
キリストの死の状態、これにしっかりと重ね合わされている時、私たちは復活をもまた、経験するのです。
このことを知ってもらいたい。
これは福音の奥義です。 パウロは繰り返し、キリストの死と復活というものを、バプテスマによって、私たち一人一人に重ね合わせるのです。
私たちの古い自分というものは、キリストと共に十字架につけられました。
こうして罪のからだは滅ぼされました。もう罪に従う必要はありません。
かつての悪い仲間が、暴走族の親玉が訪ねて来ます、「よう、また俺に従って、ついてこいよう、さあいくぞ!」
しかし私たちは言います。「おい、人違いだぜ。俺は、昔の俺じゃないんだ。」
よく聞くセリフです。
「おれはなぁ、キリストって人に出会ったんだ、キリストはなぁ、こんな出来の悪い俺を見て、馬鹿にしないで、鼻つまみ者にしないで、俺を抱きしめてくれたんだぜぇ。俺が迷惑かけたところすべて言ってまわって下さって、詫びを入れて、弁償してくれたんだぜぇ。あんたは俺を脅してこの役ただず、裏切るんだったら今までしたことすべてばらすぞって俺を苦しめたが、イエス様は、俺に代わって十字架について、俺の今までしてきたことをみんな、負債を帳消しにして下さったんだぜぇ。俺は死んで、一から出直すぜぇ。だから今日からは『親分はイエス様』だ。ざまあみろ。もうお前になんか、ついていかないぜぇ。」
芝居じみましたが、「昔の俺じゃあないんだぜぇ」というのは、あながちこの聖書の言葉とかけ離れてはいないと思うのです。
死んでしまったなら、キリストにあって、別人となったのなら。私たちは、罪から離れて、神様との正しい関係に、導き入れられているのです。
結局死ぬということは、生まれ変わるということであり、罪に従っていた者が、キリストに従う者となるということなのです。
最近テレビの中で騒がれているのが「薬物汚染」、覚せい剤の問題ですが、一度あれに手を染めると、その依存症というものは、私たちの想像を超えた、ものすごいものであるということが語られています。
一度でも、覚せい剤を経験すると、その快感というものは、一生涯わすれられないものとなって本人を苦しめるのだそうです。何年薬を絶ったとしても、ある時突然言いようもない衝動に駆られてまた繰り返してしまう。精神を蝕み、免疫力を低下させ、体をむしばみ、歯もボロボロになる。本当に人間を駄目にしてしまうものであることが分かります。
人を支配して、人をむしばみ、人を死に追いやるという意味では、「罪」こそまた、そのような忌まわしい存在です。そんな、「罪」にどっぷりとつかり、更生が極めて難しい私たち人間のために、イエス様が一緒に死んでくださったのです。
キリストは、私たちのために、地獄の底まで一緒に行って下さるお方です。
キリストは、極度に罪深くなり、更生が不能となっていた、自力救済が不能となっていた、私たちに代わり、十字架について下さり、私たちをかばい、私たちに命を与えるために、十字架に死んでくださったのです。
「私たちはキリストとともに死んだのなら、キリストと共に生きることになると信じます。」
キリストと共に生きるために、キリストとともに死ぬのです。
いつもキリスト・イエスがともにいて下さるということを心に刻みたいのです。
イエス様は、私たちを置いてきぼりにして、さあ、悔い改めろとか、さあ、分かるまでそこに座っておれとか、行って償いをして来いとか、(そういうことも時には大切ですが)そういうことではなくて、一緒にいて下さり、一緒に死んでくださり、そして晴れて一緒に生き、共にいつまでも歩いて下さるのです。
キリストは、私たちのため、死に、墓に葬られ、よみにまで、地獄にまで、行かれました。それらは、ことごとく、私たちが行かなければならないところでした。私たちに代わって、行って下さったのです。私たちの、そんな底なしの罪のため、イエス様が代わって、行って下さったのです。
そしてキリストは死からよみがえられました。
キリストはもはや死ぬことがありません。
死はもはや、キリストを支配しません。
キリストは死なれました。罪のためにいちど死なれました。
しかし、キリストは、神に対して、神に向かって、生きておられます。神の前に生きておられます。原語では2回繰り返して、書かれています。
このように、私たちもまた、キリストの恵みにあって、自分が罪の対して死に、今生きているのは、神に向かって、神の前に生きているのだ、ということが出来るのです。
ですから、そんなふうに、キリストが御自分のいのちをなげうってまで私たちに代わって死んでくださり、今神様の前に生きるように召しだして下さったのですから、どうしてその恵みを無にすることが出来ましょうか。
私たちが生まれ変わって神様の前に新しく生きることが出来るように、御自分が地獄の底にまで行って救いの道筋を築いて下さったのに、どうしていまだに古き、打ち滅ぼされたかつての罪の支配に身を任せて、体の欲望に従うがままに生きることが出来るでしょうか。
私たちの五体、私たちの手と足と体は、神様が贖い出して下さった、かけがえのない、尊いものです。私たちの贖われてある、今の尊い、新しい生命というものも、この上なく尊いものです。罪から悪魔から救い出されて今ある私たちの本当の自由というものも、本当に、尊いものです。
その身体を、命を、自由を、何のために用いるのでしょうか。
かつて生きていたように、神を知らず、自分の欲のままに生きる生き方に生きず、自分自身を、死者の中から生き返ったものとして神にささげ、五体を義のために、すなわち、何が神様の御心か、何を神様が私たちに求めておられるのかを問いながら生き、奉仕する生活へと、進み出ていただきたいのです。
なぜなら、罪はもはや私たちを支配することはできないのです。
私たちは、神の喜ばれるしもべとして、生きることが出来るのです。私たちは、掟・定めの中で罰を受けたり、叱責を受ける生活から解き放たれ、生まれ変わって恵みの中に、赦しの中に、愛の中に、生かされているのです。
この機会を、この自由を、隣人への愛によって、あらわそうではありませんか。
平和の祈り
主よ、わたしを平和の道具とさせてください。
わたしに もたらさせてください……
憎しみのあるところに愛を、
罪のあるところに赦しを、
争いのあるところに一致を、
誤りのあるところに真理を、
疑いのあるところに信仰を、
絶望のあるところに希望を、
闇のあるところに光を、
悲しみのあるところには喜びを。
ああ、主よ、わたしに求めさせてください……
慰められるよりも慰めることを、
理解されるよりも理解することを、
愛されるよりも愛することを。
人は自分を捨ててこそ、それを受け、
自分を忘れてこそ、自分を見いだし、
赦してこそ、赦され、
死んでこそ、永遠の命に復活するからです。
『フランシスコの祈り』(女子パウロ会)より
キリストによって新しい命がもたらされ、今週もキリストがいっしょに
歩いて下さることに感謝しつつ、安心しつつ、今日も、ここから、神の愛から、
出発させていただこうではありませんか。
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