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説教原稿

2009年8月23日
「目の涙をぬぐい取って下さる」
ヨハネの黙示録21:3-7,22:1-5

本日は、合同召天者記念の礼拝に、多くの皆様にお集まりいただきまして、ありがとうございます。
一般的には、人が死ぬことを、死亡とか、逝去というふうにあらわします。死んでほろびるとか、逝って去るとか、これは悲しい書き表し方です。
しかし教会では、召天、天に召されると表現いたします。天の都に引っ越しをするというわけです。
死んでほろびるわけでも、逝って去り、もうどこを探しても見つけることが出来ず、消滅してしまうということではありません。天の都に先に旅ただれたのです。

このことを約束し、保証して下さるのは、神様です。
神様とは、どういう方でしょうか。
聖書を開きますと、初めに「創世記」がありますが、それは、この世界の作られたはじめが記されています。
「初めに、神は天地を創造された。」
「地は混沌であって、闇が深淵の面にあ」ったと、この世界は混沌無秩序、真っ暗闇であったと、聖書には書かれています。ちょうど私たちが向かわなければならぬ死の世界を思わせるような、闇の底なし沼のような混沌が描かれています。
そこに、神様が、言葉を発せられました。
神は言われた。「光あれ。」こうして光があった。

希望の光です。いのちの光です。秩序の光です。
混沌の真っ暗闇に、神様は、希望の、命の光を創造して下さったのです。
この光は、目に見える光であると同時に、心の闇を照らす光です。

混沌と無秩序、真っ暗の闇が支配する世界。命なき世界ですね。
しかし神様は、そこに希望といのちの光を注いで下さる。
苦しみ悩み、叫びの世界に慰めの光を注いで下さる。そのことが聖書には、最初から書いてあります。
神様は、何の前置きもなく、当然のように、この世界におられる方です。私たちが否定しようとしまいと、私たちが存在するはるか前から、はじまりもなく、終わりもなく、存在し続けるお方です。
その神様は、苦しみの中に希望を与え、命のないところに命を与え、生命、生きとし生けるものを励まし慰めるお方でいらっしゃるということを、皆様には知っていただきたいのです。
ですから、聖書の中の詩篇、神様をたたえる詩集の中には、こんな讃美が記されています。
これは150の詩の中で一番最後のクライマックスとなる、150番目の短い詩です。

1 ハレルヤ。聖所で神を賛美せよ。大空の砦で神を賛美せよ。
2 力強い御業のゆえに神を賛美せよ。大きな御力のゆえに神を賛美せよ。
3 角笛を吹いて神を賛美せよ。琴と竪琴を奏でて神を賛美せよ。
4 太鼓に合わせて踊りながら神を賛美せよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて神を賛美せよ。
5 シンバルを鳴らし神を賛美せよ。シンバルを響かせて神を賛美せよ。
6 息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。

「息あるものはこぞって主を賛美せよ。」
神様は命あるものを日夜守っていて下さるという確信に基づいた讃美がここにあります。

暗やみと混とん。苦しみの数々。
四苦八苦という言葉があります。
仏教では、四つの苦しみとして、生・老・病・死を挙げます。生まれ、老い、病を得て、死ぬ、ひとつひとつが苦しみと説きます。さらにもう4つの苦しみが加わり、八苦となるのですが、それは次の4つです。
愛別離苦(あいべつりく) - 愛するものと分かれなければならない苦しみ
怨憎会苦(おんぞうえく) - 憎んでいる対象に出会う苦しみ
求不得苦(ぐふとくく) - 欲しいものが得られない苦しみ
五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 心身の機能が活発なため起こる苦しみ

別れの苦しみ、憎しみ、得られない苦しみ、心身の苦しみ、人生には実に多くの苦しみがあります。四苦八苦。四九36、八九64、足して108。この108の煩悩のゆえに苦しまざるを得なくなるという説明もあります。

日本も、かつては右肩上がりという経済成長の中、国が栄え、豊かになってまいりました。今日より明日、明日より来年、来年よりさ来年、世の中はどんどん良くなっていく、住みよくなっていく、そのような希望に満ちていた時代がありました。
しかし最近では、この先どんどん良くなっていくと思われるかという質問をしたときに、この先どんどん良い世の中になっていくとは思われないと思う人が大半を示すようになりました。

苦しみの世の中に光明を見出したい。これから自分が生きていく世の中がどうなっていくか不安だ。自分の子供の時代にどうなっていくかが不安だ。希望を見出したい。こう思っている方が多くおられることと思います。自殺者が11年連続で3万人を超えているという現実が、希望の見出せない現実をあらわしています。

暗い話になりましたが、聖書は、先ほど申しましたように最初から、神は世界のために、人のために、光をつくられた、希望といのちを作り出されたということが記されています。今日お聞きいただきましたのは、聖書の一番最後の書です。ここにも力強く、私たちがやがてはいるべき都のことが記されています。

「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、
4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

幕屋というのは、テントのことです。このテントとは、神の神殿のことです。
チャートンヘストン主演の「十戒」という映画をご覧になったことがあると思います。奴隷状態であったイスラエルの民を救うために立ち上がったモーセ。一旦は納得したエジプトの王ファラオでしたが、やはり後から軍馬を走らせて猛然とモーセたちを追いかけます。神様は空から火の柱を下らせて民を守り、紅海を二つに分けて、考えられないような奇跡的な脱出の道を開いて下さいました。神様はモーセに神の戒めである十戒の石板を手渡し、以来、この石板はイスラエルの民によって契約の箱におさめられ、民が定住の地を探して歩くときに共に移動し、足を休めるときには幕屋に安置されました。
契約の箱は、神様の臨在、神様がともに、ここにいて下さるということをあらわすものでした。
神は、人とともに住んでいて下さる。人は神の民となる。
神は自ら人とともにいて、その神となり、
彼にの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。

聖書は一貫して、神様は人とともにいて、人に救いと希望、命を与えると、約束しています。
人のあらゆる苦しみを取り除き、目から涙をぬぐい取って下さる。私たちは、やがて死の向こうに、神様と顔と顔とを合わせて対面するときに、圧倒的な平安が与えられることを、聖書は約束しています。
もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。

私たちが神様によって運ばれる時、体験する死は、混沌と暗やみではなく、苦しみも嘆きも労苦もなく、慰めて下さり、抱きしめて心から、悲しみの涙をすべてぬぐい取って下さる神様との出合いなのです。

死の恐怖におびえ、悲しみ多く、嘆き涙し、労苦の連続、こんな苦しみの中を歩く人も、そういう時間というものは、テレビのチャンネルを切り替えるようにパッと過ぎ去って、悲しみも嘆きも労苦もない、慰めに満ちた、神様のお顔を拝見する、新しい時が確かに用意されているのです。
キリスト者にとって、死というものは終わりではなく、むしろ始まりであり、何が始まるかといえば、最初の苦しみに満ちた生活が過ぎ去って、祝福に満ちた第二の生活が始まることを意味するのです。

5節、すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。

悲しみ、嘆き、労苦と思っていた時のつかの間、神様は、万物を新しくされます。このことは、信頼でき、また真実です。

「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。

神様にとっては、もう成就されたことです。イエス様は、こうおっしゃいました。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」 ヨハネ14:1-6

イエス様は、濁流の流れる深い川に、壊れたままになっていた橋を立て直して下さいました。イエス様は、ご自身が橋となって下さり、神と人との間の架け橋となって下さいました。

アルファでありオメガ。英語のアルファベットでいえば、AからZということになります。
歴史の初めであり、終わりである方。時の初めから終わりまでを知り極めるお方。この方の存在ゆえ、時というものが生まれます。この方の存在ゆえに、人に命が生まれました。
この世界のありとあらゆる初めから、ありとあらゆる終わりに至るまで、すべて神様の知らないところで起こることはありません。
この方が、命の源です。いのちそのものであり、人に命を与えることのできる方です。

私たちの命には限りがあります。疲れ、倒れます。
日々食しても、また飢えます。日々飲んでも、また渇きます。
人は労苦をして、食べるものを得なければなりません。

しかし神様のもとには、命の水の泉があります。渇いているものには、値なしに、ただで、飲んで渇きをいやすことが出来ます。飲んでまた渇くような水ではなく、永遠にその人を生かす水となります。いのちをつかさどる方のもとに来て、飲む人は、幸いです。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
ヨハネ4:13-14

天に召された先人たちのように、今ここに先人たちを偲んで礼拝をしていらっしゃる皆様に、いのちの神様のもとに身を避けて下さいますように、そして、値なしに与えられる命の水の泉から飲んで下さいますようにと、お勧めいたします。

この世界の始まる前から存在しておられ、暗やみと混とんとの中にいのちの光を創造して下さった神様に、御一緒に祈りの手を挙げていただきたいと願うのです。
「神様、あなたは真実な方です。 もはや死もなく、悲しみもなく、嘆きも労苦もない、
新しくされた世界に導いて下さるいのちの主であられることを信じます。イエス・キリストによって、私たちがあなたの身許に帰る道を用意し、あなたは救いを成就して下さいました。このいのちの神様が、私たちの神となり、私たちを神の子供として下さいますように。」

「天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。
川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。
もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、
御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。
もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。」

死も暗やみもなく、水晶のように輝く命の水の川から水を頂き、命の木の実を食べ、輝かしい神の都にて、ここにいらっしゃる皆様お一人お一人が再会し、とこしえに幸せに生きることが出来ますように、祈ってやみません。

 

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