説教原稿
2009年8月16日
「シオンの娘よ、恐れるな」
ヨハネによる福音書12:9-36
ヨハネによる福音書
11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
何というみことばでしょうか。
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 ヨハネ15:13
友のために、命捨てるキリスト。
この、自らを捨て、隣人を生かすという生き方は、神様の生き方です。
永遠に朽ちない、黄金のように輝く生き方です。
私たちは今日、キリストに今一度目を留めたい。そして、愛する○○姉妹のことを考えたいと思うのです。
一粒の麦、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ。
キリストの言葉です。
自分の命を愛する者はそれを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。私に仕えようとする者は、私に従え。
キリストの言葉です。
私たちは、愛してやまない○○さんを天にお送りしました。
姉妹の生き方を思い返しますと、まさにご自分のいのちを明け渡した歩みでいらっしゃいました。
私はあんなにも急に天に旅立たれた姉妹を思い、どうしてこんなにも死というものがあっさりと姉妹を連れ去っていったものかと、未だにこの現実を到底受け入れることが出来ずにおります。
やせ細られた姉妹を、教会のだれもが心配しておりました。
しかし、姉妹の教会での神様を仰ぐ姿勢は、神様を喜ぶそのお姿は、まったく変わるところがありませんでした。
愚痴も言わず、つらいということも言わず、淡々と信仰生涯を歩まれ、日々の生活を歩んでおられた○○姉妹。
御自分のからだのことはいちばんご本人が分かっていらしたことでしょう。しかし姉妹は、召される5日前、いつもと変わらず、変わらない席で礼拝を守っておられました。
姉妹にとっては、御自分のいのちを使い果たすということは、何ら不自然なことではありませんでした。
姉妹にとって、友のために命を捨てるということは、日常の生活の姿勢だったのだということを、私は悟ったのでした。
朝病院に搬送され、そしていのちの日が燃やされつくされるまで、その時間は、ほんのわずかでした。残されていたともし火は、ほんのかけらほどでした。姉妹は、悔むことなく、最後の最後まで、御自分のいのちを、愛する方々のために使い果たされたのです。
そしてそれは、私たちの愛する主キリストの生き方と同じでした。
私たちの主キリスト。 キリストも、私たちのために、御自分のいのちを明け渡し、捧げつくして下さいました。十字架につかれ、召されるまでの時間は、兵隊がびっくりするほどに短いものでした。
私たちはこんな熾烈な生き方をキリスト以外に見出すでしょうか。
使命に生きると言いますが、まさに使命とは、日本語では、命を遣うと書いて使命と読みます。
私たちは、友のために、どれだけ自分のいのちを使っているのでしょうか。
キリストは、ヨハネ11章において、死の現実、思い、動かすことのできない人の宿命を前にして、ラザロの死を前に、人々が悲しみ、はらわたをねじらせるように愛する者の離別を悲しむその所に立たれ、イエス様ご自身もまた、心に動揺を感じ、涙を流されました。
人が皆、死という、暴力によって力づくでからめとられていく現実。
この人間の破れ口の前に立ち、神であるキリストは、私たちと一緒にはらわたからえぐられるような心の葛藤を感じ、愛する友の死を悼み、人間の敵である死という者に対してはっきりと対決される御覚悟を確信しておられたのでした。
私が身代わりの死を遂げる。そして人類を死から解放する。
このために、イエス様は、来て下さいました。
イエス様の人生は、十字架にかかって死ぬための人生でした。
イエス様は、人が死に呑み込まれて死ぬように死ぬのでなく、むしろ積極的に、自分から命を捨てて死なれたのであります。
このことを、イエス様は、ごく身近な農業体験になぞらえて、語られたのでした。
「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
種を大事にしまいこんでいれば、種を失うことはありません。しかし種は一粒のままです。しかし、思い切って土に落とす時に、自分の手から離して暗い土の中に捨ててしまったような種は土の中で張り裂けて、新しいいのちが芽生えるのです。
いのちは成長して、たくさんの実をならせます。
この一粒の種は、私たち自身をあらわしています。
地に落ちて死ななければ、 死ねば、多くの実を結ぶとイエス様は、語られました。
イエス様は、土に蒔かれて、なき者のようになってしまう、暗い土にすべて自分の存在を委ねて投げ入れられる種を死ぬために蒔かれる種とご覧になりました。
種はむしろ蒔かれた方が幸せ、引出しにしまわれておかれる方が死んでいるようなものではないかと、私たちは思います。その通りです。種もまた、自分がまかれて死ぬことこそ、自分の原形をとどめずに、次なる体に変えられることにおいてこそ種としての栄光があるということを、知っているのであります。
種は一度死ななければならない、死ねば多くの実を結ぶというお話から、私たちは、けなげなる麦の一粒から、教えられるのです。
死ぬということに対して、そんなにも自然で、何のためらいもなく、進んで自分のあり方を捨て、次なる命につなぐために、自分のあり方を捨てて構わないと、土に飛び込んでいく、一粒の麦に、教えられるのであります。
私たちは、これだけは譲れないとか、ここまで自分を低くすることはプライドが許さないとか、そういうふうに思うことはないでしょうか。
しかし麦粒は、そんなことを何も考えずに、将来の祝福を信じて土に飛び込みます。
自分のいのちを守り、自分の生き方を愛し、自分なりの人生設計をする。大事なことであります。しかし、イエス様は敢えて、自分のいのちを愛するならそれを失い、自分のいのちを憎み、自分のいのちを見捨てるのなら、その人は自分のいのちを保って永遠のいのちら至ると語られました。
そしてイエス様は、私に従えとおっしゃいました。
イエス様は、フィリピの2章に書いてありますように、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
それゆえ、父なる神は、このイエス・キリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名を与えたと書いてあります。
ですから、何事も利己心や虚栄心からするのでなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れたものと考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさいと、聖書は語っています。
それがキリストの生き方であり、自分に死に、自分のいのちを憎み生き、しかし命を保って永遠のいのちに至る、キリストに従う生き方であります。
私は、○○さんのことが思い出されるのです。愛する家族のために、職場の同僚のために、そして教会の私たちのために、姉妹が使い果たした命の重みに気付くのであります。
後悔のない人生だったことでしょう。キリスト者として、キリストにならう人生を歩み通されたのです。
27節、キリストは心騒がれました。今何と願うべきだろうかと。この時から救って下さいと願うべきだろうか。いや、そうではない。私はまさにこの時のために来たのだ。
「父よ、御名の栄光を表して下さい。」
捧げつくした、生き方でありました。
友のために、命を捨てるという生き方です。これより大きな愛はないのです。
○○さんのお姿がだぶってまいります。いつもうっすらと口に微笑みを浮かべて、淡々と、御自分のいのちを捧げて歩まれた姉妹のお姿が思い浮かぶのです。
これこそがキリストの道でありました。
天から声が聞こえました。
「私はすでに栄光を表した。再び栄光を現そう。」
神がともにいて下さり、明け渡された聖なるしもべは、神の栄光を、その輝きを、鏡のように反映させるのです。
31節、「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
キリストの使命、それは、御自分の命を投げ出して、敵のもとから人質を取り戻すことでした。人が罪のゆえに、死と悪魔のもとに縛られているその状況のただ中で、主は命を捨てて、私たちをかばい、私たちを死と悪魔の力から救い出して下さいました。
よみがえって天に帰られ、天に、すべての人を、御自分のもとへ引き寄せて下さるのです。
光は、私たちの間で輝いています。
暗やみに追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。
光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。
キリストは、光です。いのちをはぐくむ光、世界を見渡す光、私たちの心に安らぎをもたらす光です。
ろばの子に乗ったへりくだられた王。
私たちも、このイエス・キリストを心の王座にお迎えしようではありませんか。
ホサナ、救って下さいと叫びながら。
「シオンの娘、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる。ろばの子に乗って。」
この方こそ、私たちが信頼して、生涯を通じて従い歩むにふさわしいお方です。
へりくだった王キリストをお迎えしましょう。
私たちはかつては自分自身が心の王座に座っていました。自分がしたいと思うことをしました。自分のいのちを愛し、自分を富ませるように図りました。
しかし本当に価値ある生涯は、キリストを心の中心にお迎えして、従って歩む生き方です。
そのように、自分のいのちを神の陰に隠れさせる時、そうして自分のいのちを主に従わせる時、そうすることによってのみ、私たちは暗やみを歩まず光の中を歩み、自分のいのちを保つことが出来るのです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」マタイ11:28-30
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