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説教原稿

2009年8月9日
「恵みが働くときには無罪が下される」
ローマの信徒への手紙5:12-21

先週は、信仰によって義とされ、信仰によって恵みを受けている私たちの身の上について、学びました。
私たちに与えられた聖霊によって、私たちの心に神様の愛が注がれています。
苦難の時にさえ、それを喜ぶことが出来ます。
苦難に信仰が加わり働くと、恵みにより忍耐を生じさせます。
神様を待ち望むからです。
私たちは、しばしば、自分の心配にまさって、神様に事をお委ねすることが最善だと知りながら、自分であたふたといたします。
すぐに結果が得られないと、心配でたまらなくなります。
しかし、神様は、私たちが信仰に立って、苦難の中、神様をじっと信じて委ね切り、私たちが価値のある「忍耐」を得ることが出来るようにと、励ましていてくださいます。
苦難を材料として忍耐が生じ、忍耐を材料として練達、私たちは物事に動じなくなり、一心に神様をのみ期待し、希望をいつも抱くようになります。

キリストが私たちのために死んでくださり、命の代価を与えて、正しい者と認めて下さったのですから、どうして私たちは救われていないと言えるでしょうか。どうして今だなお、神様の怒りを受けると恐れる必要があるでしょうか。私たちは、神様との和解を頂いているのです。

このように、もともと私たちは罪のもとに生まれ、信仰を知らず、信仰から来る豊かな世界を知らず、自分の力に頼り、神様から遠く隔たっていました。
ひとりの人、私たち人類の遠い祖先、初めの人、アダムが、神のようになり、自分で善悪を判断したい、知識が開けるようになりたいといって、傲慢のゆえに、神様に養われる子どもという立場を捨てて、自立して歩みたいという願いのもと、人は神様のもとから離れて行きました。
それ以来の人の悲惨については、創世記が縷々と書き記すところでありました。
兄弟で殺し合いが起こりました。ソドムとゴモラのような街が出来ました。
アブラハムも、目先の計算から、妻サラを、自分の妹と偽りました。

ひとりの人によって、罪が入り込み、死が入り込みました。
親が子供を育てるとき、良い環境を子供に与えれば、子どもは真っすぐに育つことと思いますが、なかなかそうはいかないのが、この世の中の大変さです。
「悪いところばっかり似てしまって」というのは、まんざら言い訳でもないところがあります。
「水は低いところへ流れる」と言いますが、親が子供になしたことが、子どもに植え付けられ、子どもはその考え方から逃れたいと思いながらそれを断ち切ることが出来ずにその子どもに施し、またその子どもがそれを引き継ぎ、拡大再生産が行われるということをしばしば耳にします。
子どもの虐待というような出来事です。そのように育てられて親となった人は、さて嫌だったことを、自分の愛する子どもにだけはするまい、あんなに忌み嫌われるべきことは、自分の代で終わりにしようと思いつつも、結局のところ、同じようにしてしまった、そしてその害悪は、自分の子供に引き継がれていく、そういうことがあるのだということを、私たちは耳にします。
良くないことならば断ち切ればいいのに、そう思っても、なかなか変えられない現実。人とは、そういう弱さを持っています。

学校の運動部でも、しばしばそんな現象を垣間見ます。
運動部、体育会系といえば、先輩、後輩、上下の規律が厳しいことを聞きますが、しばしばいじめのようなことが起こります。殴られたり、はたまた、一気飲みさせられるようなこともあるでしょう。後輩は、さんざん苦労して、もうこんな嫌な習慣は俺達で無しにしよう、今は、歯を食いしばって、自分の代になったら、見事に変えてやろうと、思うものです。しかし自分が上に立つと、「今までの伝統だから」とか、「下を教育するために必要なことだ」と言って、続けるようになるのです。

子どもの虐待に比べれば、小さなことのように思われますが、世の中、このような、変えるべきでありながら変えられない、悪弊、悪いならわしというものがたくさんあるのではないでしょうか。
社会に目をやれば、既得権益とか、天下りだとかで、労せずしてお金にありつく、国民の税金が浪費され、企業も、自分のからだを守ることが第一で、自動車に例えれば、多少の不具合があってもひた隠す、お菓子にすれば、賞味期限の切れたものをもう一度詰め直して販売する、食堂でも客の食べ残しを再利用する…こんなニュースをいたるところで私たちは耳にします。

「分かっちゃいるけどやめられない。」植木等さんの有名な歌ですが、これは人の罪の性質を見事に言い表しているのではないでしょうか。
人の、悪の心の連鎖をさかのぼっていきますと、結局世界の人類の祖先である、アダムにまで行きあたります。ここから、変えられず、変わることが出来ず、今日の様々な混乱にまで行き着くのです。何という、不幸でしょう。
なんで、あんたのせいじゃないか、と、アダムをののしりたくなることでしょう。「あんたがしっかりしていてくれさえすれば、人の世は、平和で幸せだったのに。われわれが悪くなったのは、あんたのせいだ。俺たちは、不可抗力でこうなってしまったんだ。俺には、責任がない。」
こんな声が聞こえてきそうです。
いえいえ、ちょっと待って下さい。私たちもまた、鎖の一部分です。ずっと悪い連鎖が続いてきても、私たちの所でとどめれば、それでいいのです。アダムだ何だといって、人のせいにするのもいいですが、今あなたのご家族の中で、少なくとも、あなたが代われば、どれだけあなたの奥さんと子供さんたちが、救われることでしょう。今あなたが変われば、あなたも、あなたの子孫も、祝福を受けるのですよ。

こう話しかけることが出来るのも、確かです。

ひとりの人によって罪が世に入り、死が世に入りました。罪は人類の代々にわたってその力を及ぼし、すべての人間は、罪を犯すこととなりました。
何とつらい、この世の中のおきてなのでしょうか。
素晴らしい創業者がいて、お店を盛り立てても、いつの間にか身代をもち崩したり、儲けに目がくらんだりして、傾いていく、こんな話を五万と聞きます。
国に立派な王さまがいて、慕われていたが、代が変わると、無慈悲になり、贅沢三昧、民のことなんかどこ吹く風、こんな話も、良く聞きます。

アンパンを置いておけば、いつの間にかばい菌マンがやってきて、パンをかびさせます。しかし、かびていたパンが自然に新鮮さを取り戻したという話は、聞いたことがありません。形あるものは、壊れていきます。しかし壊れていた者が自然に修復されるという話は、聞いたことがありません。

希望をもつよりも絶望しやすく、愛することよりも愛されることを好み、与えるよりも、与えられることを好む、平和を築き上げることよりもむしろ、平和を失うことの方がたやすい、この世の中。あーあ、どうしてこんな世の中になってしまったんだろうと、ため息が出ることがあります。

罪と死は、すっかり人の世の中を、支配してしまいました。
人の世の中は、本当に、混乱してしまいました。
あらゆる残酷と、強奪が当たり前となり、弱い者が強い者におもねり、強いものがほしいままにする世の中になってしまいました。
人と人とが戦争をし、殺し合い、内輪もめして人が死に、手をたたいて喜んでいるのはサタンではないでしょうか。

悪魔は、人の内にある罪を用いて、これ便利と、人を操っています。人の心に罪があるので、鉄が磁石に引き寄せられるように、人は悪魔に隷属し、やりたくないと思うことを止めることが出来ずにいるのです。そして、罪が熟するところは死です。罪人はさばきと刑罰を受けなくてはなりません。

これが人の世の定めなのか。それでは人は一体何のために生まれてくるのか。
こう思ってしまいます。虚無に陥ってしまいそうになります。

さあ、お待たせしました、イエス・キリストの出番です。
あの諸悪の根源であった、人類の根っこ、祖先のアダムという人は、人を虚無におとしめる親玉で終わらなかったということです。
アダムという一人の人は、後に来られる一人の人、イエス・キリストの前置きに過ぎなかった、「来るべき方を前もって現わす者」であるということが聖書には記されています。

人を罪と死に定める、人類の祖先、失敗を犯した者、すべて悪しき運命を引き寄せた私たちの祖先、そしてその血は今、私たちに引き継がれていますが、そのアダムは、前置きに過ぎなかったのです。

落語を聞きに行かれますと、まずは出たての前座さんが出てきて、話をして、最後に真打が登場とくるものと思います。
お相撲でもそうですね。序の口から出てきて、最後に横綱です。
そのように、「前置き」というのは、その後に登場する者の引き立て役にすぎません。

アダムの後の来るべき方とは、もちろん、イエス・キリストです。

罪の連鎖がいかに現実的で、逃れようのないものであるかをお話ししました。
後に続くすべてのものが、アダムよろしく、罪と死に縛られていると申しました。

しかし、しかしです。
15節、「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」

恵みの賜物が与えられた! 罪による悪しき連鎖と異なり、比較にならないほどの神の恵み!薄暗いところ、魑魅魍魎としていたところに降り注ぐ神の恵みの光!
たった一人の罪によって全世界に死がもたらされたとしたら、比較にならないほど大きい真打、横綱、後に来られるイエス・キリストの恵みの賜物は、どんなにか多くの人に、隅々に至ってすべての人に至り、恵みの賜物が豊かに注がれることでしょうか。

先週、裁判員裁判が行われましたが、16節にはまさに法廷の用語が記されています。
罪を犯せば、たった一つの罪であっても、有罪の判決が下されます。複数の罪状があれば、なおさらのことでしょう。人は、罪を犯せば、必ず法廷にひかれ、多くの人たちの前に罪が暴かれ、その罪の重さに従って、罰を受けなければなりません。これには、例外がありません。
しかし、その後に来る恵みの賜物においては、どうでしょうか。
恵みは、一人の人によってもたらされた罪の原則にはるかにまさるものです。
人がどうすることもできなくなっていた罪の問題を、恵みは一刀両断にしてくださったのです。
いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるのです。

人を有罪に定めるところの一人のアダムの罪と、多くの人の罪を覆い尽くし、ことごとく無罪に定める一人のイエス・キリストの恵み。
罪がそのようにして、一人の人からやすやすと人間の間に入り込み、死が支配するようになるというのなら、そんなに簡単に、人が死に支配されるというのなら、その後に来られる真打・横綱によるのならなおさら、やすやすと簡単に、神の恵みと賜物とによって、アダムよりはるかにまさる一人の人イエス・キリストにより、無罪となり、生きる者となり、アダムがエデンの園ですべての生き物を従えて支配していたように、神のしもべとしてこの世界を支配するようになると、聖書は語っています。

聖書ははっきりと語っています。
一人の罪によってすべての人が有罪に定められるくらいなら、それに勝って一人の正しい人の行いは、すべての人を正しいものとし、命を与えるものであると。

私たちは、人の世の中のありさまを見て嘆く必要はありません。
自分の罪深さを知って嘆く必要もありません。
自分という存在が、いかに世の中に混乱を与えているかと、びくびくする必要は、ありません。

「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれた。」

神の子イエス・キリストが十字架につかれたということは、祖先アダムの犯した罪の根っこを見事に贖い、人の世々の罪を贖い、私の罪を贖い、その悪の連鎖を断ち切り、心の中の罪の鉄の塊を取り除き、私たちを悪魔の奴隷状態から救い出す者であることを喜びたいと思います。
罪の代わりに聖霊さまが住んで下さり、私たちの心を、神様に結び合わせ、神様の御心の行える者と、日々とりなしていてくださることを、喜びましょう。

私たちは、逃れようのない、罪の奴隷でしたが、今は、義の奴隷となり、神の恵みと義の賜物を頂き、永遠の命に移し替えられ、恵みから恵みへと、義から義へと運ばれていることを喜びましょう。

私たちは、罪の人類の祖先、アダムにはるかにまさるいのちのイエス・キリストのものとされていることを喜びましょう。

こんな素晴らしいことを、神様はして下さいました。
ほっておけば、物事は悪い方、悪い方へと移っていくのに、罪の連鎖を断ち切れずに家族に社会に、悪影響を与えるだけの存在なのに。分かっちゃいるけどやめられないのに、自分の罪科のために、裁きにおいて有罪判決を受けねばならないのに。

神様は、イエス・キリストを私たちに送ってくださったのです。
「恵みの賜物は罪とは比較になりません。」
イエス・キリストの恵みの賜物は、多くの人に、全世界の人に、注がれています。
恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるのです。

罪が死を呼んで支配していたように、今は、キリストの義を頂いて、私たちは、永遠の命に生かされているのです。

この世の中の罪の悲惨、人の罪深い行いを断ち切って、人が本当に悪い習慣から断ち切られ、家庭にも、社会にも良き影響を与えることが出来るようになるために、イエス・キリストの恵みが必要です。
私たちは、このイエス様を、信仰によって受け入れ、歩んでまいります。罪に定め、死に定められるところとなった一人の人アダムによってでなく、イエス・キリストにあって、歩むのです。

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