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説教原稿

2009年8月2日
「不信心な者のために死んでくださった」
ローマの信徒への手紙5:1-11

日本のビリーグラハムと言われ、日本イエス・キリスト教団の神戸中央教会を設立し、90歳まで生涯現役で大衆伝道者として働かれた方といえば、有名な本田弘慈先生です。私は数回、直接この先生のメッセージを聞く機会が与えられましたが、講壇をたたきながら、「愛する兄弟姉妹」と、イエス様の救いと愛を力説なさっていた姿が忘れられません。まさに使徒パウロのようなキリストを伝える情熱を感じたものでした。

この先生が、いつもいつも語られる一つのたとえ話がありました。正確な記憶ではないのですが、本田先生が小さい頃、少年時代でしょうか、御実家がお料理屋さんを営んでおられたようです。そこに壁だかショーウインドゥか入口であったかは忘れましたが、貴重な、高価なガラスが張ってありました。

本田少年は、ある時このガラスをガチャンと見事に割ってしまいました。両親はカンカンになって本田少年を責めました。怒りの納めどころが見つからず、延々と怒られました。そこにやってきたのが、本田少年のおばあちゃんでした。お財布を取り出して、壊してしまった高価なガラスのために、代金を払って、この騒動に幕を引いてくれました。
80歳になり、白髪になられなお、本田先生は、ご自分の弁護をしてくれた、かわって弁償してくれた、優しいおばあちゃんに感謝し、これがイエス様の愛ですと語っておられたと記憶しています。

少年が、高価なガラスを弁償するお金を持ち合わせていないように、私たちも、自分の罪を贖うことができません。私たちは、代償として自らの死を要求されます。罪が極まれば、いのちをもって償うというところに、今の死刑制度もあるように思います。

イエス様は、私たちの命を贖うために、ご自身のいのちを犠牲にしてくださいました。
行いによって義とされるという考え方は、自分自身で償いが出来るという考えです。しかし、死刑に定められた人が、どんな行いをしたとしても死刑が確定されてしまっては、何の役にも立たないのと同じように、行いによる義は、無意味だということを、聖書は語っています。

かわりにイエス様が死んでくださった。おばあちゃんがお財布からガラスの代金払ってくださったように、神様が、独り子イエス・キリストを、私たちの罪のために、その贖いとして、与えて下さったのです。
私たちは何によって義とされるか。それは、神様の愛を信じて、神様が代価を支払って下さり、私たちを赦して下さったことに目を留めるべきではないでしょうか。そして私たちを愛して下さる神様を喜び、とこしえにこの方により頼んで、信頼して、信仰の生涯を歩むべきではないでしょうか。

私たちは、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ました。
人は罪を犯し、神の楽園を追われ、人類は神様から遠ざかって生きて来ました。放蕩息子のように、帰るべきところを知りながらも、なすべきことを知りながらも、自分勝手に生きる者でした。
その人類、私たちのために、神様が、恵みによって、一方的に、贖い主、弁護者を送ってくださいました。

神との間に平和がもたらされました。
このキリストのお陰で、今の恵みに、信仰によって導き入れられました。
私たちはただただ、感謝をもって、救いを信じて、救いを受け取ればよいのです。それが恵みの世界です。
これだけしたからあれを頂く、それが常識の世界に生きています。しかし、恵みの世界では、ただ受け取ればよいのです。

私たちは、恵みによって受け取ったのですから、何の代価も受けずに、恵みをもって人に分け与えたいと願わされます。愛する父なる神様が、イエス様が、これほどまでに犠牲をもって、私たちを愛し、一方的に赦し、平和を与えて下さったのならば、私たちは、手を伸ばしてその恵みを受け取り、ただ頂いたものとして、自分も与えるものになりたい。そして、自分から赦して、平和を築くものでありたいと、この個所から教えられます。

神の栄光にあずかる希望
信じ、恵みを受け取り、赦された者は、輝きます。
神の栄光にあずかるのです。
神にならって歩むものは、神の栄光にあずかります。
私たちは、それを誇り、喜ぶことが出来ます。

そればかりでなく、苦難にあっても、私たちは、その状況を誇り、喜ぶことが出来るようになります。
信仰によって、恵みの中に入れられている私たちは、神の栄光にあずかり喜び、そして苦難の中にあっても、喜ぶことが出来ます。
どうして苦難の中にあっても喜ぶことが出来るのでしょうか。

私たちは、苦難を必死に耐え、喜びに替えるべき務めと、教えられているのでしょうか。
2節、「恵みに導き入れられている」というみことばを思い出して下さい。
私たちは恵みによっていつも希望をいただくのです。決して自分の頑張りではありません。

苦難。困難な状況、心の痛み苦しみ。これらは決して喜ばしいものではありません。苦難は挫折を生み、挫折はさらに心に傷を増し加えます。私たちの心からすべての自信を奪い取ってしまいます。

しかし、聖書には、こう書いてあります。
苦難は忍耐を生みだす。

小麦粉を材料にしてパンが焼けるように、苦難を材料として忍耐が生じると、聖書に書いてあります。
これは信仰者の恵みであります。
2節、「今の恵みに信仰によって導き入れられ」を思い出して下さい。
恵みに導き入れられるのは、信仰によってです。あらゆる行い、頑張りでなく、私たちを愛し、いのちをささげて下さったイエス様を信じる信仰によってです。

困難な時、痛む時、苦しい時、ただ神様を信じればいいのです。
これがローマ書の主題です。

私たちは、信じるよりも行う方が得意なのです。簡単なのです。じっと座って祈り、信じるということが苦手です。
ガリラヤ湖の真ん中で、突如の大嵐が襲ってきたときに、弟子たちは何をしたでしょうか。そこにいらっしゃるイエス様に助けを求めずに、必死になって水をかき出したり、帆を畳んだり、舟がひっくりかえらないようにふんばったりしたことでしょう。

群衆を前に、パンを用意して下さいと言われた時、弟子たちは財布を見、へんぴなところにパンを売るところもないと結論を出しました。しかしイエス様には、別の方法がありました。

ペテロが波の上を歩かせて下さいと頼みこみ、イエス様を信じて一歩二歩歩いていたうちは良かったのですが、ふと足元を見て、どうやって沈まないように歩こうかと考えた途端に、イエス様から目を離したとたんに、彼はズブズブと沈みこんでしまいました。

問題のただ中で、ただ信仰によって恵みを得ようとする人は、少ないのです。
「テーブルから落ちたパンくずでもいただければ救われる」と信じきる人が少ないのです。

私たちは、何が出来なくても、主を信じきるという訓練を受けたいものです。恵みを頂くという訓練を受け続けたいものです。
私たちの行方には、信仰による恵みの世界が待っています。恵みとは、無限に引き出すことのできる、神様からの無償の賜物のことです。
私たちは自分の力に頼んで、苦しみが挫折を呼び、挫折が自信を奪い、そして絶望に至るという筋道を歩んではなりません。
「どうして私たちをお見捨てになるのですか」と叫んだ、主の弟子のようであってはなりません。
私たちは、信仰を用いるのです。
私たち信仰者は、大いに神様からえこひいきされているということを、どんなときにも思い出して下さい。

苦難が、恵みの中で、忍耐をもたらします。
踏みとどまる力が与えられます。
神様が、私たちの味方になってくださるのです。
この、えこひいきしてくださる神様を、私たちの頭の中の計算に入れて下さい。

嵐が来た。しかしイエス様がいらっしゃる。ゆえに危なくてもきっと助けて下さる。
パンがない。お金もない。そしてパンを売るところもない。イコール駄目。不可能。こう結論付けずに、信仰による、恵みによる計算をやり直してください。
パンもない、お金もない、売るところもない。しかしイエス様がいらっしゃる。イコール、イエス様は必要ならば、きっと与えて下さるから、信頼して、その方法をお聞きしてみよう。イエス様に頼ろう。こうなります。
カナの婚礼でぶどう酒がなくなったとき、結婚式の手伝いをしていたマリヤは、血相を変えてお金を集めて酒屋さんに走って行ったとは書かれていません。マリヤは、イエス様に頼み、そしてしもべらに「あの人の言うことを何でも聞いて下さい」といいました。見事にイエス様への信頼を働かせました。
あの異邦人の女性もしかりです。落ちたパンくずでもいただければと、彼女は決してあきらめませんでした。

苦難が忍耐を生む。 これは信仰の訓練です。
神様が必ずことをなして下さると信頼した上の、忍耐です。
この苦難を必ず益と変えて下さる。
もうすぐ、神様の時間がくれば、解決してくださる。
それまでの間、祈り待つのも神様の定められたこと。
こう、肝を据えて、神様を見上げること。これが信仰の訓練です。
パウロとシラスが獄中で祈り賛美していたように。そうすれば、思わぬ時が巡ってきます。

その信仰による忍耐を働かせる時、「練達」が生じます。
これは、試練に耐えた、実証された、真正(真に正しい)な者と認められるという意味です。金属が混じりけのない純粋な、本物であるということを意味します。私たちは、試練の中、信仰の訓練を受け、るつぼの中で純粋にされる金属のように練り上げられます。そして、混じりけのない者、信仰一本の人として、精錬されるのです。
その練達は、希望を生みだします。

百戦錬磨の、苦難によって、恵みを待ち望むようにされた信仰者は、ちょっとやそっとの困難では、びくともしないようになります。神様がいらっしゃるから大丈夫といって、いつもニコニコしています。しかしその心は、深い深い神様への祈りへと続いていて、熱心に、執拗に、神様に祈る訓練が出来ているのです。
こういう人は、何か困ったことが起こると、それ神様が課題を出して下さった。これは苦しいだけに終わらずに、信じ抜いて歩いて行くときに、必ずここを通ってでしか与えられない何か私にとって本当に大切なものを与えようとしておられるのだというようになります。希望をもって、進みます。そしてこの希望は、決して私たちを裏切らない、この希望は失望に終わることがないということを、信じているのです。

結局、苦難も希望を生みだすのです。そこからも、神の栄光にあずかるのです。
この希望。信じる者にとっての希望というものを、今日私たちは心に留めたいと思います。誰が希望を失っても、私たちこそ、最後まで希望を抱き続けることが出来るのです。
なぜそう言えるのか。

「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
私たちの心の中に住んで下さる聖霊さまが、いつも「あなたを愛しているよ」とおっしゃっている、神様のお声を届けて下さっているからです。

今私たちがこのことは不可能だと思っていることがあるでしょうか。どう考えても難しいと、思っていることがあるでしょうか。私たちの考えをやめて、私たちを愛して下さる神様にもう一度申し上げてみましょう。そして信じてみましょう。そして、もう一度祈り続けましょう。聖霊さまによって、私たちを愛しているよと語り、いつも私たちの心に神の愛を注いでくださる方を信じましょう。

その神の愛とは、どれくらい深いものでしょうか。どれくらい、私たちが頼りにすることが出来るのでしょうか。
6節、「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められたときに、不信心な者のために死んでくださった。」
私たちが「まだ」弱かったころ、その時にもう「すでに」時に従って、不信心な者のために死んでくださったのです。
どんなに神様が人類を御贔屓にして下さっているかが分かります。
自分に忠誠をつくす者であれば可愛いと思って御褒美を賜ることもあるでしょう。
素晴らしく良い君主であればその徳のゆえに、あるいは敢えて命を惜しまずに戦う部下もいるというものでしょう。
本当に優しい、いい人が、死にそうだというのなら、あるいは敢えて命がけで高い崖の上の植物を取りに行って薬にして助けようと思ってくれる人もいるかもしれません。

正しい人だからというだけで、その人のために死ねるという人は、ほとんどいないでしょう。
人の心を動かすもの、それは愛情なのだということを人々は、知っています。

しかし、私たちが「まだ」罪深く、神を無視し、ない者のようにして自分の行きたいところに歩んでいた、そういう、「いまだ」弱く、わきまえなく、「いまだ」不信心であった、神様の役に立たない、むしろ神様に敵対する者のために、キリストは、私たちのために死んでくださったことにより、神様は、私たちへの愛を示して下さったのでした。

神様の愛は、無条件に注がれる、恵みです。神様はすべての人を愛しています。「いまだ」更生のかけらもない全く神様と思いの異なる人でも愛し、神様を攻撃する人をも愛して下さいます。

私たちの愛の限界は、自分を愛してくれる人を愛することが出来るのみなのではないでしょうか。歯をむき出して、自分に敵対する人を、愛することが出来るでしょうか。「いまだに」自分への借りを返さない人に対して、それを帳消しにして、許して、こちらから歩み寄るようなことが出来るでしょうか。
しかし、神様の愛は、私たちの愛とは異なるのです。

この後の節には、「和解させていただいた」という言葉が3回にわたって、出て来ます。
神様との和解というのは、私たちの側から出来るものではなかったのです。私たちは、和解していただいて、赦していただかなければ受け入れられない立場だったのです。
私たちが負債を抱えており、私たちが神様に対して罪を犯し、その負債を返さなければ、決して和解など出来るものではありませんでした。そして罪の悔い改めなど必要ない、神など認めなければ良いだけのことだと、うそぶいていたのです。

そんな人類に対して、神様は、一方的な恵みにより、和解し、「神様との親しい友達としての関係」の中に招き入れて下さったのでした。
このことを喜びとして、今週も歩んでまいりましょう。この愛の神様を誇りとして、喜びとして、歩んでまいりましょう。
神様が私たちを神の友として受け入れるほどに愛して下さっているのですから、神様が赦して下さったように、隣人を赦し、神の愛について証しする者でありたいと願います。
恵みを受けたものとして恵みを取り次ぐ者として、
信仰を用いて忍耐、練達、希望を生みだす信仰の訓練を頂き歩みつつ、すべてのことにたじろがず、
赦される価値のない者への神様の恵みを覚え、神の友として迎え入れられた幸いを思い、私たちも神の愛をもって神と人との和解の務めを果たすものとして用いられたいと、願うものです。

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。
つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。
ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」  2コリント5:17-21

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