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説教原稿

2009年7月26日
「信仰によって強められ神を賛美した」
ローマの信徒への手紙4:13-25

今日も私たちは、ローマ書から、信仰について、学びたいと願っております。
前の章、3章では、人は皆罪人であることが記されていました。ユダヤ人も、ギリシア人も皆、罪人であり、正しい者はだれ一人いないとありました。律法は、罪の自覚を生じさせるのみであり、律法を行うことにおいては、だれ一人神の前に義とされないと書いてありました。そこで神はキリストを立て、神の恵みにより無償で義としてくださった。それゆえ、行いによる義ではなくて、信仰による義である。ユダヤ人だけの神でなく、異邦人の神でもある。割礼も律法も、無駄なものではなく、信仰による義に至らせるもの、信仰による義によって、律法は確立されるべきものだとパウロは語りました。

旧約聖書と言いますと、どうしても、割礼とか、モーセの十戒をはじめとする律法が思い出されます。契約の信仰であり、形においても、行いにおいても、イスラエル民族を他の民族から分け隔てるものでした。
なるほど、イエス・キリストが現れて、十字架にかかって下さり、自分の行いによらず、身代わりのいけにえによって義とされたと理解できるのが新約の世界です。しかし旧約の世界は、どうだったのでしょうか。
様々な律法規定がありました。いけにえをささげるということがありました。祭司も、下々も、祭壇にいけにえをささげ、罪の贖いを得ました。しかし人々は、正しいいけにえをささげるために、多くの注意を払わなければなりませんでした。割礼を受け、しるしにおいても、形においても、行いにおいても、万端落ち度なく神の前に歩む。これがユダヤ人の宗教、また信仰でした。
この、旧約聖書から、新約聖書に至るところは、本当に連続しているのだろうか。旧約聖書の民は、新約を受け入れるのがどうして難しいのか。新約の民は、すなわち異邦人は、旧約聖書をどのようにとらえればよいのか。これは今日においても考えるべき事柄です。

パウロは、ユダヤ人が信仰の父と仰ぐアブラハムを例にとって、信仰とは何かを語ります。
ユダヤ人が信仰をさかのぼるならば、アブラハムに行き着きます。そこから学ぼうではないかと語りかけます。

アブラハムが正しいとされたのは、行いによってか、そうではない、「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」とあります。創世記15章6節です。アブラハムは、自分と妻が高齢であるにもかかわらず、神様が空の星のように数知れず自分に子孫をお与えくださるというみことばを信じました。そのことにより、彼は義と認められたのです。
この後、アブラハムは、与えられた息子イサクを祭壇にささげなさいという神様からの命令を受け、その通りにささげようとしました。これは、彼の行いによる義のように思えますが、彼は、息子を祭壇にささげたとしても、神様はきっと生き返られてくださると信じた上の行動でした。アブラハムは、信仰の人でした。不可能と思われるところで、彼はひるまずに、神様に望みを置きました。何の保証もないのに、あたかも万全の保証があり、大船に乗った気持ちで、道の見えぬところに足を進めていく。これがアブラハムの信仰でした。「私の示す地に出て行きなさい」と言われ、故郷の地を去って、はるか遠くのカナンの地へと出かけていく、彼の信仰です。行いのようにも見えますが、その行いの根底には、彼の、すべての自分の握っているものを一度手放す、そうして神様に運命すべてをお委ねするという信仰を見ることが出来ます。

働く者に与えられるのは報酬、恵みとは、働きの代価として与えられるものではなく、一方的な好意であります。
不信心なもの、不敬虔な者をさえ義としてくださる方が神様です。行いによる立派さのかけらさえない不信心なもの、働きのないもの、報酬を得ることが出来ない者でも、神様は、恵みによって義とすることがおできになります。

ダビデもそうでした。
神から愛され、王とされた彼であっても、行いにおいては、時に大きな過ちを犯すものでした。
到底報酬を受けるに値しない罪人ダビデ。家臣の妻を横取りして、その夫である自分の家臣を計画的に抹殺したダビデ。死罪に値する失敗を犯したダビデ。
しかし彼は罪とがを神の前に告白するときに赦しを体験しました。そして詩篇32編において、「幸いなるかな」という言葉を残しています。 不法が赦され、罪を覆い隠され、主から罪がないと見なされない人は、幸いなるかな。
ダビデは、自分の行いによらず、神から義と認められたのです。
ダビデの行いによらず、その罪の行いに反して、 罪を覆い隠していただき、 罪がないと見なしていただき(罪がない者と数えて・計算していただき)、 義と認めていただく(義と数えていただく・計算していただく)。
まさに、行いにかかわらぬ、神の義です。

パウロは、律法をおとしめるというよりもむしろ、より本質に目をとめ、神様の恵みについて語っています。神様が好まれるのは、いけにえでなく、悔いた、砕けた心です。
「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。」詩篇51:19

今日の第一のポイントは、神の恵みふかさに目をとめるということです。
神様は、不信心なもの、働きのない者、罪人に対して、憐れみ深く、恵み深くあられます。このような彼らが神様の恵みを頂くために必要なのは、それに見合う行いではなく、信仰、ただ恵みの神を信じることです。神の恵みは無条件に与えられ、行いによる報酬ではありません。

パウロは次に、念入りにそのことを確認しようとしています。
この恵みによる幸いは、しかし割礼を受けている者だけに与えられるのか。
割礼を受けたユダヤ人だけへの恵みなのか、それとも割礼を受けないすべての民への恵みなのか。

パウロは語ります。
「アブラハムの信仰が義と認められた」
創世記15章で彼が義と認められたと書いてありますが、彼が割礼を受けたのは、その後10年以上経ってから、創世記17章においてでした。
アブラハムがただ信じて、そのことによって義とされたのは、彼が割礼を受ける前であり、私たち異邦人と何ら変わることのない時からであったことが分かります。ですから、アブラハムは、割礼を受けた者の父であると同時に、割礼を受けていなくても、信仰によって義とされるという、異邦人のための父でもあるということです。
そしてアブラハムは、割礼を受けた者たちが、知るべきことを示しています。それは、割礼を受ける以前に、アブラハムは、行いによってではなく、信仰によって神から義とされていたということです。そして彼は、行いによる義を得た人という模範ではなくて、信仰によって義を得た人として模範となり、信仰の模範により、これに従う者としての父となったのです。
アブラム「高められた父」がアブラハム「多くの国民の父」とされたということを、ここからも知ることが出来ます。アブラハムは今もなお、すべての国民において、信仰の父となっています。

「地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」(創世記12:3)のみ言葉は、このようにして成就しました。アブラハムはすべて、信仰による義を得る民の礎、基となりました。今日の第二のポイントは、ユダヤ人も、異邦人も、ルーツをさかのぼれば、アブラハムの所で一つにされるということです。

パウロはこのように、ここ4章でも鋭く、「信仰による義」と「行いによる義」とを対比しています。

パウロの書簡の成り立ち、構成といいますのは、いつも非常にユニークです。書簡全体を見ますと、前半と後半、二つに分けられることが多いように思います。そして前半では、教理的なことが記され、後半では、実践的・具体的な教訓が記されています。このローマ書においても、だんだんと、実践的、日常的な教えが目立ってくるようになります。
それと同時に、気づかされますのが、1章の中でも、前半と後半に分かれているように思われます。そしてしばしば、後半の部分で、前半の部分が繰り返されつつ、結論が提示されているのが分かります。

「禅問答」というものがありますが、それに限らず、教えるものと聞く者が「問答」をしながら真理に到達するという方法があります。こう言えば、こう思うでしょう、それならばこうではないでしょうかと、パウロは念入りに、ローマ書をしたためているように思えます。

14節15節は、結論めいたものが提示され、16節以降には説明が加えられます。そしてこの16節以降の説明とは、1節から13節の内容をさらに具体的に分かりやすく説明したものです。
ちょうどサンドウィッチのように、そっくりな形をした1対のものに、短く結論が挟み込まれた構造のように見受けられます。

その結論ともいえるものを味わってみたいのですが、それは、こうです。
「律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味で」ある。
「約束は廃止されたことに」なる。
「律法は怒りを招くものであり、律法のないところに違反も」ない。

律法に頼るならば、信仰は無意味。 味わうべき言葉です。
律法を守ることと、信仰に歩むことと、どちらが易しいでしょうか。私たちは、がんじがらめの律法を守る必要がなく、不信心な者、働きがない者を無条件に義とする信仰の方が易しいと思うのではないでしょうか。私たちは生まれつきの異邦人であり、割礼も受けてはいないのに、律法に頼るということが大体あり得るのかと疑問に思われる方もいらっしゃると思います。
しかし、私たち人間は、信仰に生きるということのむずかしさをもっているのではないでしょうか。見える決まり事を持ってきて、それに即して自分が正しいと思うことが出来れば、それは大変有り難いことなのではないでしょうか。

律法に頼れば、約束は廃止されたことになってしまうとパウロは語ります。
アブラハム契約により、地上のすべての氏族を祝福すると神様が約束なさったのは、信仰による原理であって、行いによる原理によっては、約束を受け継がせることはできません。

律法は怒りを招くもの、律法のないところに違反もない。
律法というものは、人を救う手段というよりもむしろ、人の罪を明らかにする手段であり、それにより、神様の怒りを招き、神の怒りを引き起こすものです。律法は、罪の自覚を生じさせ、人を違反に定めるものです。 あらゆる律法、決まりごとがなければ、人は具体的なひとつひとつの罪に定められることがありません。そこで神は律法を定めましたが、それは人を違反に定め、そしてその罪人に対する恵みの業が現れるためのものでした。ですから、律法は初めから人に対して違反を宣言し、不合格を宣言するためのものであり、堕落した人間にとっては、これを守って義とされるというものではなかったということが出来るのです。

ユダヤ人たちが、そして、ユダヤ人の古い考えの影響を受けて、律法が礼賛されていたローマの教会にあって、律法というものに頼ることをやめて、より深い恵みの世界、信仰の世界に進むようにと促しているのがこのローマ書であります。

律法という狭い世界に閉じこもり、自分は正しいと思っている人たち。しかし神様の豊かな信仰の世界を知ることもなく、アブラハムから連綿と続いてきた祝福の約束を得ることのできない人たち。律法は人を救う手段ではないことをパウロは語りました。

そこで満を持して、パウロは、信仰の模範である父、アブラハムの信仰について語ります。
彼の信仰にあずかる者となって欲しい。神様が「多くの民の父」としてくださったアブラハムから学び、その信仰に従ってほしい。そうパウロは語っています。

第一にアブラハムは、死者に命を与え、存在していない者を呼び出して存在させる神を信じ、その信仰を、神様の前で告白しました。

「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信」(ヘブライ11:19)じ、息子イサクを祭壇にささげました。
アブラハムは、およそ100歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラのからだも子を宿せないと知りながらも、その信仰は弱まらず、神様の言葉を信じました。
「存在していない者を呼び出して存在させる神を信じ」ました。

「希望するすべもなかった時になおも望みを抱いて信じ」ました。
これがアブラハムの信仰の奥義です。

希望に逆らうような厳しい状況。希望が吹き消されるような激しい向かい風。私たちはしばしば冷たい風にさらされることがあります。希望の灯が消えかかってしまいます。自分の理性では全く希望が見出せず、絶望してしまいます。しかしそんな状況の中であえて希望を働かせること。希望が持てないと分かっていても、希望を働かせるということ。真空状態で、マッチを擦ってもロウソクには絶対火はつかないと思っても、そんな状況でも希望を働かせ、神様を信じるということ。死者の中から生き返りを得、存在していない者を呼び出して存在させる。まさに奇跡中の奇跡のようなことを引き出す力。それが信仰です。

こうしてアブラハムは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父になったのです。信仰による模範を残す父として、信仰による多くの民の父となったのです。

アブラハムは、不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力もお持ちの方だと、確信していました。

創造者なる神様を信じる信仰とは、その信仰によって義とされるということは、律法に仕えて礼拝することではなくて、生ける神様に仕えて礼拝することなのです。私たちは聖書に教えに仕えて礼拝するものではなく、聖書の教えを書き記された生ける神様に対して日々生ける信仰をもって仕えるのです。

聖書の教えを自分なりに咀嚼して信じて歩むのではなく、聖書をおあたえになられた生ける神様に、日々ひれ伏し主と告白して生きるのです。
良き行いばかりではありません。罪を犯すこともあります。しかし、信仰により生きる民です。自分の行い・力によってではなく、神に赦され、生かされる民です。

それがアブラハムのの義と認められたわけです。23 しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、
24 わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。
25 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。

どんなに希望をそがれるような状況であっても、キリスト者として立つ瀬がないように思われても、弁護してくださる方を一心に見つめて。その信仰は弱まらず、不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、信仰によって強められ、神を賛美しながら。

ローマ8:31もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
8:32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
8:33 だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
8:34 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
8:36 「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
8:37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
8:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

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