説教原稿
2009年7月19日
「神の恵みにより無償で義とされる」
ローマの信徒への手紙3:10-28
新しい週の朝を迎えました。主の御名をあがめます。
今私たちは、罪から解放されています。そしてそのことにより、悪魔の忌まわしい力から、自由にされています。
「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。」コロサイ1:13
このことに、感謝をささげるのみです。
私たちはかつて、罪の縄目に捕らえられ、闇の力の中に封じ込められていました。もがき苦しんでも、なかなかそこから這い出ることが出来ませんでした。
ローマ1章には、罪のリストがありました。
生まれながらの私たちの、肉の性質が掲げられていました。
しかし今は、違います。私たちが修行して、立派になったからではありません。私たちが、あの罪のリストの生活を、自力で脱出したのではありません。私たちの道徳的な努力によるのであれば、一生かかっても、あの罪のリストの生活から抜け出せないことでしょう。
イエス・キリストが、私たちに代わって、身代わりとなって、私たちをかばって、呪いの、処刑の、十字架についてくださったのです。本来ならば、罪人がつかなければならなかった十字架に、罪汚れのない主ご自身が、ついてくださったのです。
律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない。律法によっては、罪の自覚しか生じないと、20節に書いてあります。
律法を実行できないのです。律法は守るべき良いものだと分かっているのですが、しかし、律法の定めを落ち度なく守るということは、人には出来ないことです。
正しいものは、ひとりもいない。 そう、今日の個所に、書いてあります。
また、罪のリストが書かれています。
「正しい者はいない。一人もいない。 悟る者もなく、神を熱心に探す者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
喉は開いた墓。その舌で人を欺き、その唇には蝮の毒。
口は、呪いと苦み。 足は、血を流すに速く、
その道には破壊と悲惨。 彼らは平和の道を知らない。
彼らの目には、神への恐れがない。」
徹底的にこき下ろされています。
どうして人に対して、ここまで徹底的に裁きのメスが入れられるのでしょうか。
先週は、ローマ2章が開かれました。
異邦人を裁く選民イスラエル。しかし、自分の胸に手を当ててみなさい、律法を守っていると思っているあなたたちだが、本当に律法を守っているのか。守っていないではないか。律法をもち、律法を守っていると自信をもっている者たち。あなたがたは律法を守っていない。だからその割礼もむなしい。むしろ律法をもっていない異邦人たちが、それと知らずに、律法の要求を受け入れ、実行している。そんな彼らこそ、割礼の民である。イエスキリストを信じ、霊の割礼を受けている者こそ、真のイスラエルである。これが2章のメッセージでした。
3章は、それではユダヤ人であるということは、何の優れたことがあるのかと、語り始めます。
神の言葉を最初に委ねられた人たちだと、パウロは語ります。
しかし、ユダヤ人は、不誠実になり、しかしその不誠実な者に対して、神様は変わらずに誠実でいてくださるということが、奇しくも、不誠実なイスラエルの民によって示されたというのです。
私たちはずっと、創世記を学びましたが、まさにそのことが言えるのではないでしょうか。不誠実な御自分の民にもかかわらず、神様は一貫して、その民を抱きかかえ、脱出の道を切り開き、見捨てずに、一握りの民を導き続けて下さいました。
そのような意味で、ユダヤ民族が特に優れているのではなく、ユダヤ人は、まず先に神様に捕らえられ、神様と人との関係の何たるかを世界の人たちに示す、モデルケースだったのです。ですから、他の諸民族と比べて特別に正しい存在であるということではなく、諸民族のひな形として、ユダヤ人が選ばれたのです。ですから、罪人としての人の代表であるということもできるのです。
ユダヤ人も、ギリシャ人も、すべての民族が、皆、罪の下にあります。
そこで、「正しい者はいない、ひとりもいない」と書かれています。律法を頂いたとしても、頂かなかったとしても、人は自分の力では、正しいものとなることができません。
ただの一人も、正しい人はいません。
喉も、下も、唇も、口も、足も、けがれていて、その歩む道には、破壊と悲惨があり、決して平和に至ることがない。破滅の道だと、聖書は語っています。
それでは一体旧約聖書とは、聖書の律法とは、何のためにあるのかと、疑問に思ってしまいます。そこで20節、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない。律法によっては、罪の自覚しか生じない」と書いてあります。罪の自覚を生じさせるため。そのために律法は必要です。
律法が人に罪を知らしめなければ、イエス・キリストの十字架は、無意味になってしまいます。
お分かりと思います。律法は、イエス・キリストの救いを受けさせるための養育者、導き手なのです。
ですから、律法を落ち度なく守っている、自分は律法を守っているから正しい、義人だと言っている人に対して、パウロはそうではないと、口を酸っぱくして語るのです。ですから、自分は律法によって義であると信じていた、ユダヤの祭司長、律法学者たちは、イエス様を受け入れることが出来なかったのです。
ユダヤ人は、来るべきイエス・キリストの時代に先立って、「人は自分の行い、律法によっては救われないのである。」ということの見本として、選ばれたのでした。
すべての民族は、ユダヤ人を見て、律法によって人は義とされず、ただキリストの恵みによってと、信じ、導かれるのです。
22節、「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」
23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」
ユダヤ人だとか、ギリシャ人だとかという差別はなく、信じる者すべてに神の義が与えられます。
人は皆、罪を犯して、神のもとから離れてしまいました。生まれつきの罪人です。正しい人は、一人もいません。神様の栄光を受けられず、祝福からも遠ざかっている存在でした。
誰が何と言おうと、正しい者はいない。一人もいない。ただ一人もいない。ただ、イエス・キリストによる贖いの業によって、ただ神の恵みによって、無償で、人は全く何を加えることなく、無償で、神の恵みにより、義とされる。これが福音です。
神と人との共同作業で、人も努力して、人は義とされるとは書いてありません。人も少しお布施に協力して、義とされる、救われるとは、書いてありません。ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより、無償で、代金を支払うことなく、義とされる、直訳では、神様との正しい関係の中に引き入れられるということです。
「義とされる」というのは、自分で義となるのではありません。「義とされる」のです。自分から、神様との正しい関係へと修復するのではありません。神様の方から、私たちを、正しい関係の中へと、引き入れて下さるのです。それも、一切の代価を支払うことなく、です。
これが「義とされる」ということなのです。律法を行うことによって義とされるということとは、全く対極にあります。
神様が、尊い代価を支払ってくださったのです。
25節、「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」
「人の義」のために、正しさのために、神様が、「神の義」、神の正しさを示して下さったのです。
神は愛です。神は、愛する御子という、この上もない代価を支払い、私たちのための罪を償う供え物を用意して下さいました。
罪を償うのなら、私たち人間が用意するべきはずでした。しかし、神様は、御自分の正しさのため、人が犯した罪を見逃すために、供え物をささげて下さいました。
人の罪の何と重いことか、神の独り子の、神ご自身である御子の命を必要としなければならなかったとは。罪の支払う報酬は死。私たちは、自分の命を罪のために支払わなければなりませんでした。私たちは、死刑に定められていたのでした。
しかし、神様は、神の正しさのゆえに、御子を遣わされ、すべての人の代わりに御子を死刑囚にすると宣言なさいました。
「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」 ローマ6:23
これが、神様の義、神様の正しさです。
遠く離れていた私たちを神様との正しい関係に引き入れるところの神様のご計画です。
放蕩息子のたとえ話を思い出します。99匹の羊を置いて、さまよう1匹の羊をあきらめない羊飼いのたとえ話を思い出します。部屋を掃き清めて、1枚の銀貨を探す女性、見つかったらみんなを呼んでお祝いをしたあの人のことを思い出します。
神様は、失った人を捜し求めておられます。ご自分の手元に引き寄せずにはいられないお方です。
神様が私たちのために支払った代価は、御自分の右腕を切り落とすような、愛する御子を失うことでした。神様がそこまでしても、神様は、私たち人間を取り戻そうとなさったのです。
26節、忍耐の末、「今この時に義を示された」。 時至って、キリスト・イエスにより、ご自身の義を、正しさを、憐れみを示して下さった神様。この贖い主、イエスを信じる者を義とするために、神様は、十字架を示して下さいました。
人の誇りは、取り去られました。人は、自分の行いによっては義とされない。自分の行いによって義とされるのなら、人は高慢になり、義人として高ぶります。しかし人が義とされるのは、行いの法則によってではない。信仰の法則によってである。
パウロは繰り返し繰り返し、信仰の奥義を語ります。どれだけ多くの人が、この福音、信仰による神の救い、神の義による救いを誤解していたことでしょうか。いかに多くの人が、キリストの十字架をなきものにしようとしていたことでしょうか。
律法によって救われるのならば、異邦人は救いに漏れることになります。しかし救いは、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなりましたが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされました。
どうしてパウロが口を酸っぱくして罪のリストを並べ立てたのか。どうしてパウロが、ユダヤ人の誇りを打ち砕くことに対して、何度も何度も力説したのかがお分かりいただけたと思います。
罪が示されなければ、十字架の恵みが分かりません。自分が罪人であるということが分からなければ、自分にとって十字架は、用のないものとなってしまいます。
そして自分の罪が、自分の行いによって解決されると思うなら、キリストの十字架は、無意味になってしまいます。
パウロは、結局のところ、キリストの十字架を強調しています。
それでは、今日の個所をまとめたいと思います、
第一に、わたくたたちは、恵みにより、十字架により、自分の罪に本当に向き合うことが出来ます。ひとつひとつの心の中の罪のリストに、向き合うことが出来ます。自分の心の咎に対して真っすぐに目を開くことが出来るのは、神様の十字架の赦しの宣言を頂いているからです。
第二に、私たちは、罪の赦しに対して、自分の力には頼りません。
自分の力で罪を克服しようとすれば、私たちは生涯、一喜一憂を繰り返さなければなりません。自分の力で罪と戦っているのであれば、生半可の所で妥協して、目をつぶってしまうことでしょう。しかし、十字架の赦しは、完全です。私たちは、赦されているがゆえに、自分の罪に立ち向かうことが出来ます。自分の罪を直視し、赦されているがゆえに、確実に、徐々に出会っても、日々、私たちは、それらの罪とのかかわりを絶ち切って歩むことが出来ます。
第三に、キリスト・イエスを信じることによる救いには何の差別もありません。私たちでも今救われているのであれば、すべての人が救われるはずです。私たちは、先に導かれていますが、それはユダヤ人同様、私たちが特別に優れているからではありません。私たちはモデルケースです。私たちもまた、自力で義とされるものではありません。ただ神様の憐れみにより、無条件に、無償で、義とされました。ですから、何の差別もなさらない神様が、私たちに続いて続々と救われる民を起こして下さるということを、私たちは固く信じるものです。
十字架のみを誇りとし、自分の罪を直視し、赦された喜びをもって自分を変え、そして、くわえられる民のために祈り歩む一週間でありますようにと、祈ります。教会に集われる皆様お一人お一人への限りない神様の祝福を祈ります。ご家族の皆様への祝福を信じ、地域の方々への祝福を信じて、祈ります。
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