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説教原稿

2009年7月12日
「霊によって心に施される割礼」
ローマの信徒への手紙2:17-29

2週間ぶりに、ローマ書が開かれました。
さょうは、2章全体から読んでいきたいと思います。

1章で私たちは、パウロの並々ならぬ、キリストのしもべとしての、伝道者の心構えというものを叩き込まれました。ローマ人の方々への丁寧なあいさつから始まったものの、すぐにパウロは、伝道への気炎を上げるのです。
「福音を恥としない。」そして、入念な、人の心の負のリスト、罪のリストまで掲載されていました。
これまでに罪の性質を持つ人間。かくなる上は、すべての人を救う神の力である福音を、イエスキリストを、すべての人にお伝えしなければと、肝に銘じさせていただいたわけです。

そして意気揚々と2章に入ります。
しかし、しかし。
1節の言葉は、衝撃的です。
「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。」

ローマの信徒たちにあてられた、教会への手紙です。ローマにいる、「神に愛され、召されて聖なるものとなったローマの人たち一同へ」と書き始められた手紙です。それがここにきていきなり「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。」
と、続くのです。理解不能ではないでしょうか。

クリスチャンが「人を裁く者」となる、「他人を裁く者となる」、これはどういうことでしょうか。
この当時、ローマの信徒たちとは、圧倒的に元々ユダや教徒出会った人たちがキリスト教に改宗したケースが多かったようです。このローマ2章を読むときに、そのことが分かります。ローマのもとユダヤ教徒。2種類の人たちがいたことでしょう。もともとローマに住んでいて、ユダヤ教徒出会ったイスラエル人が、巡礼のためにエルサレムの神殿に上り、福音を知ったケース、そして口伝えにローマで、その仲間内で、広がったのでしょう。
もう一つの群れは、エルサレム、パレスチナでのクリスチャンの迫害のため、逃れてきたユダヤ人で、しばしばこれらの人を、ディアスポラ(散らされたもの)と言いました。
このような2つのグループからなる元ユダヤ教の人たち。そして、ローマには、パウロがその伝道者人生を費やした、「異邦人」の人たちがいたことでしょう。使徒言行録に良く記されていますが、ユダヤ教に改宗するひとたち、すなわち「在留異邦人」は、割礼を受け、すべての律法の規定を守りました。
しかし、異邦人であって、キリスト教に改宗する者は、割礼など、律法の規定をことごとく守る必要はない。こう言うふうに、エルサレム会議で決められたということが、使徒言行録15章に書かれています。

ローマにいた人たち。ユダヤ教徒であった人たちは、割礼を受け、落ち度なく律法を守り続ける人たちでした。それらの人たちは、クリスチャンになってもなお、それらの律法の行いが、聖書の、福音の、本道をいくものだと自負していたに違いありません。

「人を裁く者よ。」この強い言葉は、そんなユダヤ教上がりのクリスチャンが、自分の押し進める異邦人伝道に、どれだけブレーキをかけて来たものかをひしひしと味わったパウロの言葉でした。

「あなたも人を裁いて、同じことをしている」これは、人を裁きながら、自分は完ぺきだと、人を裁きながら、あなたも裁かれている人たちと同じことをしているとの意味です。

2節、3節でも繰り返し、同じことが繰り返されています。そして、そんなユダヤ人クリスチャンを、正しくお裁きになると、パウロは、はっきりと語っています。

彼らが裁いたという対象は誰だったのでしょうか。
それは、教会の中にいる異邦人からクリスチャンになった人たちでしょう。そして、まだクリスチャンの群れに入っていない人たちをも、裁いていたということも考えられます。

「裁き」の問題は、2000年前のみならず、今日の教会でも、しばしば問題になることがあります。
「キリスト教」が、しばしば「切り捨て教」になることがあるのです。

熱心に奉仕をしなさいとか、何分の一は確実に捧げて下さいとか、現代の教会の中にも、しばしば「律法」が存在します。これは教会の中での律法です。ちょうどユダヤ教の中に律法主義者の方々がおられ、厳格に落ち度なく律法を守り、自分をこの世からきよく保って来たと、自負していた人たちのようにです。
そして、教会の外に対しても、しばしば「律法」が存在します。
「品行方正、聖人君子、怒らずいつもニコニコ笑い、酒もタバコもいたしません。」紋切り型のクリスチャン像です。
教会の中では熱心に奉仕、外では聖人君子、これではクタクタになってしまいます。私は、奉仕をする必要はない、良い証しを立てる必要はないと申し上げているわけではございません。決まりだからやるという姿勢が曲者なのです。教会ではしばしば、「○○すべき」という言葉があふれます。「べき、べき」と語られます。「べきべき言うと、ベキベキと心が折れる」というのが私が尊敬いたします千葉の牧師・精神科医の山中先生の言葉です。「いい加減なくらいが、ちょうどいい加減」ともおっしゃいました。休むべき教会が、安息を得るところであるはずの教会が、働かされるところとなり、疲れるところとなる。」こういう、示唆に富んだ言葉も聞きました。

4節に、こう書いてあります。
「神の憐れみがあなたを悔い改めに導く、その豊かな慈愛と寛容と忍耐」とによって。
これが教会の安らぎの源です。
神様は、憐れみをもって、悔い改めに導いてくださいます。
「べきべき」という、裁きの言葉をもってではありません。
神のそのような御態度を軽んじてはならないと、パウロは、教会にお灸をすえます。

パウロは、今日聞いても新鮮なことを、2000年前から語っていたのです。それは、伝道の前に、教会を考えるということです。
教会が、魅力的であれば、自然に人が集まります。しかしそうでなければ、教会に来ようと思われる人たちも、それを止めてしまいます。

教会は、決まりづくめの場所ではありません。俺はこれだけできているから優等生だとか、こんな高みにまで自分は理解しているとか、そういう場所ではないのです。
ファリサイ派の人たち。彼らは、他から自分をきよく分け、隔てる人たちです。しかし教会は、神の憐れみ、豊かな慈愛と忍耐と寛容とによって導く神様を信じ、世界が、この神様によって丸ごと受け入れられるということを信じる民です。

神様はもとより、きよい方、偽なる方ですから、6節、おのおのの行いによってお報いになります。7節、忍耐強く善をおこない、栄光と誉と不滅のもの、すなわち、神ご自身を求めるものには永遠の命を与え、真理でなく不義を行うものには、8節怒りと憤りをお示しになります。
9節、すべて悪を行う者は、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、すなわち神を信じるものであってもなくても、苦しみと悩みが下る。しかし、10節、善を行う者は、ユダヤ人でもギリシャ人でも、栄光と誉れと平和が与えられます。「ユダヤ人でもギリシャ人でも」とは決まり文句ですね。何回も出て来ます。これは、日本の中でいえば、「クリスチャンでも仏教徒でも」というような表現ではないでしょうか。

「クリスチャンでも仏教徒でも」悪を行う者には、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者は、「クリスチャンでも仏教徒でも」栄光と誉れと平和が与えられます。
11節、「神は人を分け隔てなさいません。」

律法がありとも、なしとも、それぞれの心の中の聖書の言葉あるいは良心において、思うべき正しいことをすれば幸いが来て、悪を行えば裁きが来る。そういうものなのだと、パウロは語ります。

ユダヤ教の律法をもっているから大丈夫。律法を知らない人は無条件にアウト。言い換えれば、教会にいればそれでOK、教会の外にいれば即アウト。そういうものではないというのです。ユダヤ教でも、また、一時のカトリック教会でも、「教えの外に救いなし」という厳しいものがありました。ですから「破門」はすなわち滅びを意味したわけです。
しかしここでパウロは、教会の中にも苦しみと悩みを刈り取る人はいるし、教会の外にも、彼らが思うところの善を行い、幸いを刈り取る人もいると語っています。

さてパウロは何を言おうとしているのでしょうか。パウロにとって十字架の救いは、どこへ行ってしまったのでしょうか。行いによって義認されるとでも言いたいのでしょうか。
もちろん彼はそういうことを言っているのではありません。

17-20節をお読みします。
「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、
その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。 また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。」

「ユダヤ人と名乗り」。クリスチャンとされているはずなのに。ユダヤ教から出て、キリストにつながれているはずなのに。どうしてかつての古い教えを振りかざすのでしょうか。ユダヤ教は律法主義、しかしキリスト教は、神の憐れみ、慈愛と寛容と、忍耐です。この二つの成分が、当時の教会を形作っていたのです。
「ユダヤ人と名乗り、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負」していた彼ら。

しかしパウロは厳しく問います。
21節、「あなたは他人に教えながら自分には教えないのですか。」「盗むな」と説きながら、盗むのですか。22 「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。23 あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。

これが律法主義の限界でした。一生懸命守っていると公言していた人たちが、実は失格者であったのです。
律法によって義とされるのなら、キリストの十字架は、無意味です。

24節、「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」
ここまでパウロは語ります。

偽善の元ユダヤ教徒クリスチャンたち。いえ、もとではなく、バリバリのユダヤ教徒キリスト教徒です。

しかしパウロは、彼らユダヤ教徒キリスト教徒の誇りを粉々に打ち壊そうとしています。
25節、「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。」
彼らの誇りの源である「割礼」。しかしパウロは、律法を守れていないあなたたちの割礼なんて、意味のないものだと、切り捨てます。

ユダヤ教を完璧に守るクリスチャンこそ最高のクリスチャン。こう思っていた人たちは、完全にやり込められてしまいました。
そしてとどめの言葉です。
26節「だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。」

割礼を受けていない人たち、すなわちギリシャ人たち。選民でない人たち。外国人たち。彼らが律法の要求を実行すれば、彼らこそ割礼の民とみなされる。パウロは、古いものを大切に持ちつづけ、変わることをせず、キリストに心を開かないユダヤ教徒クリスチャンに対して、心からそれは誤りだとぶつけているのです。

27-29節。
「そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。
内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」

29節、「その誉れは人からでなく、神から来る。」この言葉で、ユダヤ教徒クリスチャンの目的が明らかになりました。彼らは、人から立派なクリスチャンと認められたいがために律法主義を貫く人たちだったのです。
しかし、そんな外面上のユダヤ人がユダヤ人ではない。今日の私たちに適用すれば、外面的に立派なクリスチャンが立派なクリスチャンではない。外面的な立派さではない。教会の格でも、役職でもない。
内面がユダヤ人である者こそユダヤ人。
文字でなく「霊」によって心に施された割礼こそ割礼。

これがパウロの結論です。
パウロの目の前には、「正統的なクリスチャン」も、「後付けのクリスチャン」もありません。「ユダヤ教的キリスト教」があれば、「異邦人的クリスチャン」があるわけではありません。
「クリスチャン」と「クリスチャンでない人たち」の間にあっても、人の分け隔てはありません。

今日のポイントをまとめてみましょう。

律法において、つまり、人間、自分の努力で合格点に達しようという考え方を捨てなさいとパウロは語りました。

自分が成し遂げて、立派の域に入っていると思う人たちは、必ず誰かを見下し、裁きます。

しかし、その人は、自分が完全な者であると錯覚しているのです。そしてそのような人は、自分の欠点には全く気付いてはいません。
パウロはこのような人たちを宗教がもたらすところの欠陥者とみなし、このような人たちがかたくなにキリストを拒んだから自分は異邦人への救いへと召されたのだと、別の手紙で語っています。

宗教を知り、自分が正しいと言いながら間違いを繰り返す律法主義的クリスチャンのお陰で、神を知らない人たちの間で神の名が汚されていると、パウロは語りました。

自分自身の、律法主義的な信仰が、自分自身を失格者にするのみならず、伝道の大きな妨げとなるということをパウロは指摘しました。

ついには、形勢が逆転し、体に割礼を受けていないものが、律法の要求を実行し、キリスト・イエスを受け入れるときに、ユダヤ教的クリスチャンを裁く時が来るとパウロは語りました。

「福音を恥としない」このことは、今日私たちに別の迫りをもって届きます。
ただキリストを信じるということ。どんなに神様から遠く隔たっていた人でも、キリストを信じるだけで救われるということ。
私たちの人づくりの、勝手な解釈によって、私たちは、自分が正しく、教会の内外の人を裁き捨てることがあるが、そのようなおごった私たちは、自分自身の罪に無知なだけでなく、そんな私たち自身が、伝道の障害となっていて、神の御名を汚しているということがあるのだということ。

毎週私たちは砕かれ、ただ主のみによりてと、心からひざまずいて主を仰ぐものとされたいと思います。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」 ガラテヤ2:20

ただこれだけを心のよりどころとして、今週も、歩んでまいりましょう。
律法でなく、霊によっての割礼を誇りとしながら。
ニコデモに主が語られたように。
「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」 ヨハネ3:5

神様は、「内面的な、霊によって心に施された割礼」をお喜びになります。

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