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説教原稿

2009年6月28日
「まことの神を知ることによる祝福」
ローマの信徒への手紙1:18-32

「私は福音を恥としない。」「福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力。」「わたしはすべての人に果たすべき責任、返すべき負債がある、すなわちそれは、福音宣教。」「正しいものは信仰によって生きる。」

パウロの居ても立っても居られない、福音宣教の眼差しを見てまいりました。
正しい人はただ、福音によって、信仰によって生きる。福音こそ、救いを得させる神の力。
私たちは、福音宣教を、どのように捉えていたでしょうか。
神様に出会うことが出来れば幸い、出会うことが出来なかったとしても、その人たちの生活が充実し、満足していれば、それでよい。困っていなければ、福音に出会うチャンスがないから、仕方がない。こう思ってしまうのではないでしょうか。

今日パウロは、ローマの人たちの手紙の本論の部分を書き始めます。

その書き出しは、「神様は、その怒りを天から来らせる」です。
恵みと平和を祈ると、書き出した序文から一転し、何とそのトーンが変わったことでしょうか。
神様は、主権者です。この世界を統べ治める方です。神様は、御自分の正しい基準に従って、ひとりひとりを公正に、裁かれます。
「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。」1ペテロ4:5

神様の怒りは、何に対して注がれるのでしょうか。
18節「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して」です。
あらゆる不信心と不義に対して。これは言いかえれば、あらゆる「神信仰の不在」と「邪悪の、誤った行い」ということが出来ます。これが神様の真理を捻じ曲げ、妨害しています。
ここで対比されているのが、神様の真理と、人の不信仰と邪悪さです。
人の神を神としない不信仰は、邪悪、誤った行いへと人を導きます。神を神としないこと、これが神の真理を妨げ、天からの神の怒りを招きます。

神神といっても、神様は、目には見えないではないか。神様が分からないのに、「神を神としない」もへったくれもあるか。人間はこう答えるでしょう。

19節「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかです。神がそれを示されたのです。」とあります。
いえいえ、神様について知り得ることというのは、実は目の前にはっきりと見えるものとして、既に現わされているのですよと、聖書は語ります。
20節「目に見えない神の性質、すなわち永遠の神の力と神性は、被造物に現れており、はっきりと現わされており、これを通して神を知ることが出来る。」
なるほど、神の性質は、目に見えません。神様を私たちは見ることが出来ないからです。
しかしそれに、目に見えない神の永遠の力と神性は、被造物に現れていて、これを通して、神を知ることが出来るというのです。

弁解の余地がないまでに。神様の永遠の力と神性は、被造物に現れていて、神を知ることが出来るというのです。
現在私たちは、科学文明と、都市生活の中に、生きています。科学や都市生活が、神に対立するものだと言うつもりはありません。ただ、それらの中にあって、人によって作り出された世界の中で、私たちは、自然の営みというものから遠ざかる傾向にあります。
窓もなく、一日中明かりもない部屋にずっといれば、夜も昼も分からなくなります。
都会のビルの中にいれば、野を吹きわたる風に接することもなく、鳥の声を聞くことも、虫の声を聞くこともありません。
私は、先週、戸宇のホタル生息地へ行ってみました。車の明かりをすべて消し去ると、そこには、点滅する、百もいようかと思うほどの緑色の、またたく、そしてふんわりふんわりと、飛び回る、ホタルの光がありました。都会のクリスマスツリーもすごくきらびやかで、美しいですが、ホタルの飛び交う姿は、人が一切操作することのできない、自然のイルミネーションとあって、実に幻想的、神秘的でした。
米粒の何分の一という大きさの虫にも、手と足と羽根があり、チョロチョロ歩いたり、飛んだりすることが出来ます。顕微鏡でしか見れない生物もいます。
この自然界自体が生きているんだ、星が星の周りを行き巡り、空気があり、水があり、適度な温度が保たれ、さまざまな生物がこの地球の上に、バランス良く共存している。これらすべての奇跡を、偶然ということが出来るでしょうか。
精巧にできた人間の体。意識を用いて動かす筋肉と、心臓や内臓のように、常に規則的に動き続ける筋肉や組織。触覚、嗅覚、味覚。絶えず自動制御で一定の体温が保たれている。深い事柄を考え、言葉を使って意思の疎通をする。こんなに精巧なメカニズムは、人間自身が模倣して作りだすことはできません。ましてや偶然にできたという説明が、正しいのでしょうか。アメーバをフラスコに入れて、何十億年育てたら、それがサルになって、やがては人になるでしょうか。

神様がいらっしゃるということを前提にしなければ説明できないこと。それは、自然の中にあらわされています。哲学者の頭の中で神を証明しようと思っても出来ないことでも、この被造物の世界を見渡せば、弁解の余地がないほどに、神様の永遠の力と神性は、現わされていると、聖書は語っています。

このようにして神様を知っているのだから、神の怒りが注がれても、弁解の余地がないと、パウロは続けます。

21節「なぜなら、神を知りながら、神として崇めることも感謝することもせず、かえってむなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。」

「神を知りながら」。パウロは、この自然界に生き、神の息吹に触れながら神様を信じようとしない人たちを土俵際にまで追い込みます。
「神を知りながら」。
私たちは、このパウロの、一気に回しをつかんで土俵際にまで押し込んでいく論理立てに息をのみます。
この自然を見ても、神様、ありがとうございますとみんなが本当に分かっていらっしゃるだろうかと、思います。
私たちが信じる創造者なる神様への明確な信仰というとハテナですが、確かに、自然を見て、滝を見て、大木を見て、初日の出を見て、そこに「神々しさ(こうごうしさ)」を見出して、心からの感動を覚えて、日本人なら手を合わせるという心、「お天道様は見ているよ」という心、いわゆる自然宗教ですね、こういう心持は、世界の人たちの共通する心なのではないかと思います。

このように、「神を知りながら」、しかし神としてあがめること、感謝することをせず、かえってむなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなる。こういうことは、ままあるのではないでしょうか。
神様が創ったと、その神々しさに打たれて手を合わせるも、その神様を、はっきりと、実在する人格ある方とはとらえずに、そのような私たちの生きざまあり方を教え導く人格神ではなくて、私たちが手を合せて拝めば、何でも願うことをかなえてくださる、私たちの便宜を図る神として、人は神を自分に仕えさせているのではないでしょうか。しかし、神様とは、私たちがその神の永遠の力と神性、神様の御人格を知って、その御業を覚えて、心から感謝し、あがめるところの神でいらっしゃるわけですね。ここで随分な開きが出来てしまうわけです。

神を仕えさせるとき、人間は、自分自身が主人公であります。自分が自分の願いをぶつけ、神から願うものを引き出します。これはある人によれば、自動販売機に接するような信仰です。自動販売機には人格がありません。ボタンを押せば、商品が出て来ます。いわゆる御利益信仰です。しかし神様は人格をお持ちですから、いつも願った通りになるとは限りません。ちょうど親が、子どもの願いをいつも無条件に聞き入れるかどうかを見ればわかるとおりです。
人格のない神をたてまつる者は、自分が主人公です。
22節、「自分では知恵があると吹聴しながら愚か」です。人格者なる神を知らずに、何も教えられるところがなく、自分の願いばかりですから、裸の王様のようなものです。
23節「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」

創造者なる神様、天地創造の神様は、永遠不変、滅びることのない栄光をお持ちの方ですが、人が自然界を見て勝手に抱いた神の形は、いのちのないもの、滅び去る人間、鳥や獣、這うものなど神自身とはほど遠いものです。被造物は、それ自身は神によって作られたものとして尊いのですが、それが創った神に勝るものではないということは、明らかです。
人は、まことの神を知りながら、滅びることのない神の栄光を、滅びゆく被造物に似せた像と取り替えてしまったのです。人がそれぞれ自分にふさわしい神を作り出し、自分に御利益をもたらすようにと、祈っているのです。

24-25節「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。
25 神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。」

人の作る宗教は、人の欲望を肥大させます。何も教えられるところなく、人間の罪の性質のままに行かせます。神様は、そんな自分の心のままに進んでいく人間を、その思いのままに行くようにと、行くところまでいって気づくようにと、その思いのままにまかせられました。すると、人は、不道徳によって自分自身の体を辱めるところとなりました。神の形に作られた人間の体が、神の目的に合わない使い方をされることによって、その身体の栄光が、損なわれることとなりました。
ピカピカの銀のスプーンは、丁寧に食卓の上で扱われればいつまでも輝きますが、砂場でスコップの代わりになれば、たちまち傷だらけになってしまいます。丹精込めてスプーンを造った職人は、このありさまを見て、どんなにか悲しむことでしょうか。
25節、神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られたものを拝んで、めいめい自分の好きな偶像を造り上げて心のよりどころにする。どんなにか、まことの神様は、胸を痛めていらっしゃることでしょうか。
「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。」

26節、「それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられ…」行くところまで行くよりほかはないという神様の導きであります。人は、創造の秩序の中では考えられない男女の自然の関係を捨てて、同性愛が始まったと聖書に書いてあります。これは人が偶像を作り出し、まことの神を捨て、自分の好き勝手に行動していることの結果であると、聖書は語っています。
そして、事は同性愛だけにとどまるものではありません。

28節、「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」

人格者なる神、天地創造の神を知るということこそ、祝福をもたらす道です。まことの神を知ることを拒むなら、その心の思いは、無価値で意味のないものになってしまいます。
そうして、人は罪を犯し続けることになります。

29節から31節は、このように、神を神とせず、偶像の神をまつって自分の欲望のままに生きる人間の、罪のリストが掲げてあります。

「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、 人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、 無知、不誠実、無情、無慈悲です。」

「あらゆる」不義(誤った行い)、悪。 人は、まことの生ける神様に従わなければ、罪の性質に従って歩むのみです。あらゆる誤った行い、悪の行いを積み重ねる存在です。こうして個人の生活の歴史においても、世界の歴史においても、過ちが繰り返され、悲惨が繰り返されています。
「あらゆる」「むさぼり」これは人のものを奪ってでも自分のものにしようとする、奪い取る心です。こう言う心があるので、人と人との間には、争いが絶えません。
「あらゆる」「悪意」とは、善意の反対ですね。隣人のことを善意にとらえれば、許しがおこり、平和が訪れます。しかし、悪意があれば、平和に生きている人の足をも引っ張ります。正しい人の血をも流し、正義の人を失脚させ、罪に定めます。

「ねたみ」「に満ち」、人の成功を喜ばず、失敗を喜び、成功をねたむ。うまくいっていることがひどく癪に障り、そして人の不幸を喜ぶということは、表裏一体です。これは実にサタン、悪魔の性質そのものではないでしょうか。
「殺意」「に満ち」、ねたみが昂ずれば、「もう消えてしまえ」ということになります。目の上のたんこぶは消えてしまえ。自分より幸せなものはいなくなってしまえ。これもサタンの性質です。
「不和」「に満ち」、これは、直訳すれば、「わがままなるライバル心」です。これも自己愛が故、自分可愛さに余って、周りをすべてなぎ倒して、自分がいちばんでありたいという気持ちの表れです。こういう人が一人でもいて、こういう気持ちで心が満ち満ちていれば、決まるものも決まらず、しなくてもよい喧嘩をせざるをえません。
「欺き」「に満ち」、人を裏切り、嘘をつきます。
「邪念にあふれ」、悪の目的のために、悪しき行いを続けます。
「陰口を言い」とは、人に対して隠れて、噂話をしてその人の人格を傷つけること、
「人をそしり」とは、今度は表立って誹謗中傷を言うこと、
「神を憎み、人を侮り」とは、同じ根から出ること。要するに自分が神よりも勝り、人よりも勝るという独善です。
「高慢」とは、鼻持ちならぬこと、人を見下すこと、
「大言を吐き」は、ほらを吹いて自分を分以上に見せたがることです。

「悪事をたくらみ」「親に逆らい」
「無知」「不誠実」「無情」「無慈悲」・・・
悪いことに目がなく、坂から転げる石のよう、
自分を養い育てる親に耳を貸さない強情者、
無知で視野が狭く、誠実でなく、信用できず、情けしらず、無慈悲、冷血。

夏でも身が凍るような人間の現実、罪のリストでありました。

32節「彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」

これら罪の行いをするものは死に値する。
これが神様の怒りです。
これでは生きている資格がないのです。
こんなことをするために人は造られたのではありません。

「赤信号、みんなで渡れば、怖くない。」自分だけが悪者ではばつが悪い。みんな一緒にとばかりです。自分で悪い行いを犯し、他人の同じ行為も是認して、この世はやりたい放題とばかりに突き進む人たち。これでは手の施しようがありません。
この地上は、再びノアの洪水のときのように、罪に満ちた世界となってしまいました。
この世界の罪のため、イエス・キリストが十字架にかかってくださったのです。このおぞましい、罪のため、私たちの内に巣食うひとつひとつの罪のため、それを取り除くため、イエスさまは贖いの死を遂げてくださいました。

私たちがあらゆる義に、善に生きるように。
人のものを奪っていた者が人に与えるようになるために。
悪意に満ちていた者が善意に満ちるように、
ねたんでいた者が人の過ちをゆるし、欠けを担って人の徳を高めるものとなるように、
殺意を持っていた者が人を活かす者となり、
人をなぎ倒すわがままなライバル心を、人助けの心に変え、
陰口そしりの口を、人をほめ、喜ばせる口に変え、
神を愛し、人を尊敬し、
謙遜になり、つつましやかに生き、
善を企て、
親孝行し、
全てをわきまえ、
誠実に、情に厚く、慈悲深く。
これらは皆、キリストの、神様のご性質です。
さあ、どっちの生きざまがいいでしょうか。

私たちが努力によって成し遂げるものではありません。ただひとえに、私たちが真の生ける神様を知り、この方を信じるときに、成し遂げられるのです。
私たちの罪のために死んでくださった方を心から信じ、この方とともに死に、新しくよみがえらされ、聖霊の力によって、生かしていただくときに、成し遂げられるのです。私たちは今週も、きよい神様に信頼し、心をささげてきよい霊を頂き、素晴らしい光のただ中を歩ませていただきたいと、願います。

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