説教原稿
2009年6月21日
「私は福音を恥としない」
ローマの信徒への手紙1:8-17
ローマ書を読み進めております。
先週は、使徒パウロの自己紹介を読みました。
キリストに捕らえられ、神の召しによって、恵みのうちに使徒、キリストのしもべにしてもらったパウロの喜びが語られていました。
熱意に燃え、ダマスコへ向かっていたあの頃の自分は、目が開いていても目が見えない者であったパウロでありました。
イエス・キリストと出会い、まさに目が開かれ、30年、どんな迫害の山をも谷をも、乗り越えてきたパウロ。
彼が最も誇らしげに語った自己紹介の言葉は、「キリスト・イエスのしもべパウロ」でありました。
私たちのためにしもべとなって、十字架にかかってくださったイエスさま。自分の迫害の罪を赦し、新たな使命を与えてくださったイエスさまに、パウロは全力で従って行きました。
今日も、パウロの伝道の原動力を学んでまいりましょう。彼がいかにイエス・キリストを味わい、福音を味わい、教会生活を味わっていたのか、そのエッセンスを学びとり、私たちの教会生活の糧としたいと願っております。
9節、今日の個所にも印象的な言葉が記されています。それはすなわち、「御子の福音」という言葉です。
「福音とは、御子に関することです」と先週の個所には記されていました。再び、今日の個所にも、「御子の福音」と書かれています。
パウロにとって、福音、良き知らせというのは、徹頭徹尾、イエス・キリストでありました。彼は、イエス・キリストに出会ってから、徹底的にイエス・キリストに結びあわされるものとなりました。
それまで信じていた、ユダヤ教には、「キリスト・メシア」の言葉はたくさん踊っていましたが、「イエスさまがキリスト」というふうに捕らえていた者は皆無でした。
皆、キリスト・メシア・救い主を待ち焦がれていました。ローマ帝国の属国となっていたイスラエルを救い出して下さる方を待ち望んでいました。強い王、政治的な王を待ち望んでいました。
しかし、イエスさまのイメージは、異なっていました。
貧しき者を訪ね、見捨てられた者を訪ね、病の人を訪ね、そうしてひとりひとりが苦しみから、罪から解放されることにより、御国の到来を告げ知らされました。
遊女の友となり、収税人の友となり、病人の友となられました。
これらの人たちはいずれも、ユダヤ教の指導者たちにとっては、罪人、何らかの咎により、病を得た者であり、指導者の眼中にはない、切り離された人々でした。
しかしイエスさまは違いました。
イエスさまは探し出し、回復してくださるお方でした。本当の心の飢え渇き、神様に対する叫びを聞きとって、神様が本当に出会ってくださる人は誰なのかをイエスさまは示して下さったのです。
罪人の友となり、見捨てられ、顧みられない人の所に出向いてくださるイエスさまです。白馬にまたがって、国の中心部で勝ち名乗りをあげる王ではなく、身を砕いて、心の貧しい者を訪ねて歩いてくださる方なのです。
これが御子の福音であります。
ご自身の身を十字架にささげて、私たちの罪科の身代わりとなってくださったイエスさま。強い王を求めていた人にとっては、大きな躓きでした。
しかし、これこそが、「御子の福音」でありました。
パウロもまた、馬にまたがって、襟を風になびかせて、エリートとしての働きをしていました。人が目を奪われ、うらやむような働き人でした。しかし彼は地味な、うだつの上がらない、敗北者と思っていた、異端者と思っていた、イエス・キリストご自身にひとたび出会ってから、彼の宗教は、180度転換されてしまったのです。
彼の父親のような強さには、優しい保護者のような、イエス・キリストの母性愛が加わりました。
「わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。」 1テサロニケ2:7-8,
「福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。」
1コリント4:15-16)
8節、ローマの教会の信徒たちに、投げかける言葉は、「神への感謝」でした。
「イエス・キリストを通して感謝します。」イエス・キリストこそが、父なる神に至る唯一の道です。イエス・キリストへの信仰、これこそが神様の求められる信仰です。
このイエス・キリストを信じる信仰が、「私たちの信仰」が、「あなた方の信仰」として、ローマの人たちによって、同じ信仰として、今や全世界に発信されている。言い伝えられ続けている。これがパウロの喜びでした。
悲しいかな、ユダヤ教徒の信仰は、キリストを捕らえられずに、「御子を信じる信仰」から離れてしまいました。
そして時として、パウロは、生まれたばかりの教会の中に、数々の別の福音を見出しました。何かを差し引いたり、何かを加えたりする信仰であります。
9節、「私は、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。」
御子の福音。それは、神様が、私たちのために、いのちを注ぎだし、私たちの汚い足の裏を洗い、尻拭いし、十字架にかかってくださったその愛です。
パウロもまた、そのキリストの足跡に従って、しもべとして、心をこめて、この「御子の福音」を宣べ伝えてきたのです。
今日は父の日ですから、大変恐縮でありますが、パウロの母性愛とは、キリスト・イエスから出てきたものであります。
パウロは、祈るたびごとに、いつもいつも、幼いローマの教会のことを、わが子のように思い、恋い焦がれ、いまだ見ぬ、自分の子に会いたいという思いのごとく、どうにかして、いつかその教会に行きたいと、御心のうちに行きたいと、祈り続けていました。
それは、パウロが持てるものをわが子と分け合うため、それは、霊的な賜物、神様からのギフト、贈り物を分かち合い、ローマの教会を力づけるためでした。
パウロが持っていて、年わずかなローマの教会が持っていないものとは何でしょうか。
賜物、神様からの贈り物、霊の賜物とは、何でしょうか。
それは、パウロが長い伝道者生活の中で、神様から頂いた霊の賜物であります。彼が窮したとき、どうすることもできなかったとき、神様が道を開いてくださったという体験であります。そして強められた彼の信仰であります。信仰に固く立ちなさい。恐れてはならない。力づけられなさい。これがパウロの与える霊の賜物です。
教会の中にも、若いクリスチャンがいます。また、長い信仰生活を歩んでこられた方がいます。この交わりが素晴らしいのです。
霊の賜物は、分かち合うことが出来るということを、ここから学ぶことが出来ます。
長い信仰生活から与えられる、神様から頂いたお励まし、これは私たちの信仰を力づける霊の賜物です。その証しは、神様とともに歩んだものにしか分からない、信仰の賜物であり、それは教会の宝であります。証しをし、励まし、この霊の賜物を分かち合う、そうして、年若い者も、信仰の素晴らしさに招かれる。ここに教会の素晴らしさがあります、。
11節では、多くの困難を通り、伝道者として生きてきたパウロの、先輩としての励ましがありましたが、12節では、同じ信仰者としての、交わりが描かれています。
共に励まされたい、互いに同じ持っている信仰により、ともに励まし合いましょうと、語っています。
長い信仰生活からの蓄積、過去からの励ましという側面もあれば、共に今を生きる信仰者が、今信仰を共有し、共に励まされるということもあります。
パウロが年若いクリスチャンに出会い、キリストを告白する姿に感動を覚え、年若いクリスチャンもまた、老練のクリスチャンから、そのどんなときにも主を自分の前において進んだ姿に、励まされる。
信仰は一つ、上も下もなく、同じ信仰者として今、互いに励まし合う存在であるということ。年齢や、社会での肩書、性別や国籍に関係なく、皆が一つ、同じ信仰をもち、若きも年長者も、互いに励まし合えるということ。これが教会の魅力です。
パウロは謙遜からこう言ったのではありません。百戦錬磨の大伝道者が、いまさら何を教えられ、励まされる必要があるというのでしょうか。
「あなた方と私が互いに持っている信仰」
この信仰、互いに持っている、同じ信仰。イエス・キリストを信じる信仰。これが素晴らしいのです。汲んでも汲んでも尽きない、いのちの井戸なのです。この信仰は、励ましである。この信仰こそ、慰めである。パウロは。共々に与えられている、御子の福音を信じる信仰を、ほめたたえています。
13節、兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。いつもいつも、あなたの所へ行こうと計画するが、いつも妨げられる。あなた方の間に、信仰による実りを得たいと思っているのに。他の異邦人の所で得ているように、あなた方の間でも、信仰の実りを得たいと思っているのに、妨げられていると、パウロは語ります。
伝道者にとって、信仰者が信仰の実を結ばせるのを見ることほど、嬉しいことはありません。
私たちの、御子を信じる信仰により、どれだけ私たちの実生活が、豊かなものとされてきたことでしょうか。
人間関係においても、世界観がガラッと変わったではありませんか。人に仕えることよりも、仕えさせることに熱心でした。愛することよりも愛されることに熱心でした。与えるよりも得ることに、熱心でした。しかし、イエスさまに出会ってから、御子の福音に触れてから、私たちの心の方向は180度転換されたのではないでしょうか。
権利を主張する代わりに人を赦す者となりました。平和を作り出す者となりました。与えるものとなりました。仕えるものとなりました。人の幸せを祈り、幸せを喜べるものとなりました。そして、多くの友を得ました。愛されるようになりました。人と通い合うことが出来るようになりました。すべて、イエスさまが、教えてくださったことです。
パウロは、キリスト・イエスと出会って後、ギリシャ人にも、未開の人にも、知恵のある人にも、ない人にも、あらゆる人たちの前に、果たすべき責任のもとにおかれていると、語ります。もしくは、あらゆる人々に返すべき負債があると、語ります。
このすばらしい御子の福音を信じて、ほかに語らないならば、先に手にして、ほかに語らないならば、当然の役割を放棄したものと同じだ、この福音を得たものは、必ず隣の人にそれを手渡さなければ、それは当然隣の人のものとなるべきものを、自分の手の中に不当にとどめておくことだ。そのことをパウロはさらに激しく、自分が福音を先に得たということは、今福音を得ていない人たちすべてに対して自分が責任を負っていることなのだ。つまり、自分は福音を得たということにより、すべての福音を知らない人たちの前に、返すべき借りを負っているのだと語るのです。
何という熾烈な、福音理解なのでしょう。福音というものは、人類すべての共有財産であるという、彼の姿勢が表れています。
それは、都会の人にも、未開の人にも、知識人にも、そうでない人にも、あらゆる人に与えられるべき人類の共有財産である。すべての人が、当たり前に持つべき共有財産である。
私が今持っていて、あの人が持っていない。そういうことは、考えられない。どうして私が持っているのに、私がその素晴らしさを理解しているのに、いいと分かっているのに、それを知らない人に福音に対して黙っていることが出来ようか。福音に対して黙っているようなら、私は、人に返すべき負債を支払わないでその責任を放棄している人と同じだ。彼は熾烈にも、そう語っているのです。
何と激しい、福音理解でしょうか。
福音を伝えることは、人に対して借金を返済するのと同じように当然のことなのだといいます。つまり、人々は皆、自分の財産を欠いているのです。この福音によって埋め合わされねばならない、財産の欠けを、すべての人が持っているのです。私たちは、その財産の欠けを、自分の当然果たさなければならない務めとして、埋め合わさなければならないのです。
ここまで私たちは、福音伝道というものを、至上命題として、感じていたでしょうか。すべての人に、すべての国の人に、すべての国の中の、すべての人に、どんな人に対しても、払うべき負債として、当然果たすべき務めとして、福音宣教を捉えているのでしょうか。
先進国には、価値観が多様化しているから伝えられないとか、お金をたくさん持っている人はもうそれで満足しているから伝えてもそのかいがないとか、日本人は、もうすでに仏教と神社を信じているからそれはタブーだとか、自分で勝手に言い訳をつけてはいないでしょうか。
「私は福音を恥としない」パウロの決意が、書かれています。
大使徒パウロでさえ、命がけで進んだ「御子の福音」を時に恥とすることがあった。人の前に持ち出せない心の弱さがあったのだということを教えられます。「福音を恥としない」、これは彼の決意でありました。
福音は、この人に語って、この人には語れなかったで済むことではなくて、すべての人に語るべきものである。すべての人に語るべき義務を負わせられている。こうパウロは自覚していました。それが福音であります。あったら便利だけれども、なかったらなかったで仕方がない。他のもので代用できる。そんなものではないのです。
福音は、信じる者すべてに救いを得させる神の力です。
人は皆、救いを得るという意味で、欠けを持っています。不足を抱えています。福音を持っていない人はすべて、救いを欠いています。私たちは、その欠けを埋め合わさなければなりません。
福音は、だれでも信じるものに救いを得させる神の力です。
神の力です。
力無いものではありません。まやかしではありません。机上の空論ではありません。あってもなくてもいいものではありません。状況が許せばぜひ、と、控え目に勧められるべきものではありません。
福音は、神の力です。救いを得させる神の力です。
神の力添えを、神の救いを、必要としない人は、だれ一人としているものではありません。
「正しいものは信仰によって生きる」。神の義、神の正しさを得る方法は、御子の福音を信じるほかはないのです。
今日私たちは、キリストの福音に生きた、パウロの姿を学んでまいりました。
パウロが祈るごとに感謝した、ローマ人たちの、生き生きとした信仰を思いましょう。
それは、全世界に言い伝えられている信仰です。キリストを知ったがゆえに、全世界に伝えられずにはいられない、ローマ人たちの信仰です。
パウロは、そんなローマ人たちを励まし、共に同じ信仰によって励まされたいと、交わりを望みました。
会うことはできなくても、一つ信仰に生きていれば、パウロは満足でした。そのパウロの勧める、唯一、究極の信仰とは、先に福音を知ったものは、知らないすべての人に負債を負っているという福音理解であり、「福音を恥としない」という心の姿勢、態度でありました。
そのように福音を唯一無二の、世界に欠くべからざるものだという、熾烈な信仰を持っているのならば、どんな試練がやってきても大丈夫だ、義人は信仰によって生きるのだからと、パウロは励ましの言葉を語ったのです。
私たちも今、この場所にあって、時と場所を超えて、パウロと同じ福音を味わい、福音に生かされたいと願うものです。
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