説教原稿
2009年6月14日
「神の召しによって」
ローマの信徒への手紙1:1-7
ユダヤ・パレスチナの一宗教であったユダヤ教から生まれ出たキリスト教。私たちは先日、ペンテコステの聖書の記事から学びましたが、エルサレムには、天下のあらゆる国から帰って来たユダヤ人がいました。
ガリラヤの田舎の出身のキリストの弟子たちが、あらゆる言語で、神の偉大な業をたたえるその声に、あらゆるところから集まっていた人たちは、びっくり仰天いたしました。
異邦人伝道の皮切り、とも言える出来事でした。
「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」これがイエスさまのお約束でした。
このような中、使徒パウロが召されました。
パウロは、もともと熱心なユダヤ教徒で、キリスト教徒を異端者として、投獄するほどに働いていました。しかし、そのために向かっていたダマスコの途上、突然に天からの光に遭遇し、キリストの声を聞き、目が見えなくなるとともに、パウロは、主の弟子アナニアに出会い、彼に導かれ、洗礼を受けます。
それからパウロは、召されて異邦人伝道に生涯を費やしました。
紀元57年、第三回伝道旅行の折、パウロは、すでに始まっていたローマの教会に行き、クリスチャンの交わりをしたいと切に願いながら、ローマの信徒たちを励まし教えるために、この「ローマの信徒への手紙」をしたためました。
異邦人伝道に燃えたパウロがその集大成として向かい、伝道したいと願った地、ローマ。私たちもまた、この日本という、異邦人社会において、キリスト教をはっきりと理解して、力強く証ししていくために、パウロの伝道生涯の集大成から綴られたこのローマ書から学びたいと願います。
今日は、1節から7節までをお読みいただきました。
あいさつということですが、手紙の書き方の習慣の中で、差出人と受取人の名前を書くというのがこの最初の挨拶の目的です。
そうであれば、「パウロから、ローマの聖徒たちへ」と書けばそれで事が足りるはずですが、実に7節にわたって書かれております。
原文を見て驚きますのは、これら7節の文章は、カンマ、カンマでつながれて、7節でひとつながりの言葉となっているということです。
たかが挨拶の言葉、されど挨拶の言葉。今だローマの教会に足を運んだことのない著者パウロが、ローマの信徒たちに対して、どんな語りかけをもって話を始めるのか。
短い7節の言葉の中に、パウロの自己紹介があります。キリスト者としての自己紹介があります。そして、ローマの信徒たちへ、彼らが今、どういう存在とされているのかという教えがあります。
私たちがもし、世界中を飛び回り、言語も文化も習慣も違う他の国に生き、しかしクリスチャンという共通の土台をもった方々にお会いできるとしたら、どんなにか大きな喜びではないでしょうか。
言葉も、文化も、習慣も、年齢も立場も異なる、初めて会う人たち。いや、まだ会わない方々に手紙をしたためるとき。
私たちは、どのように手紙を書き始めるでしょうか。
書き出しには、力強く、私たちが共有しているもの。それは何か。私たち遠くにいる者たちをつなぎ合わせるもの、それは何か。こういうことを鮮烈に描きだすのではないでしょうか。
私たちは、そのようなことで、この7節を読めば、世界のクリスチャンを結ぶものは何かということを一瞬にして学ぶことができます。
それは、キリスト教とは何か、ということであります。
食べ物であれ、絵であれ、音楽であれ、実際によくよくそれを味わうことなしには、その良さをお伝えすることはできません。
目の見えないピアニストの方がアメリカの国際ピアノコンクールで日本人として初優勝されたというニュースを聞きました。辻井さんという方ですが、その帰国コンサートで、聴く方々は、涙を流していたとか。本当に澄んだ、人の心を動かす演奏とのことです。
私たちもまたクリスチャンであります。長年の信仰者です。しかしもう一度、私たちが本当に手にしているもの、味わっているもの、この信仰について、福音について、神の救いについて、神の愛について、このローマ書から、パウロから教えられたいと願っております。
1節、ギリシャ語の書き出しの言葉は、「パウロ」です。差出人ですから、うなずけます。そして、宛先はというと、最後の7節です。ではその間には、何が書かれているのでしょうか。
「パウロ」と書かれた後、自己紹介が続きます。キリスト者同士であいさつをするとき、手紙を書くとき、私たちは何を前提にするのでしょうか。もちろんイエス・キリストです。
ご自分がこのローマ書の著者になったつもりで想像してください。
ご自分の名前をまず書きます。たとえば私ならば、一森、となります。そして、イエスキリストにある一森、キリストに遭って救われ、愛され、教えられている私が、同様に、同じ主によって愛されている皆様へ…と書き始めれば十分と思われます。
しかし、パウロは、自分の名前の後に、「しもべ」という言葉を添えました。これは「奴隷」という意味を持つ言葉です。
パウロは奴隷だと、文の初めから書き出しているのです。これは、異常な書き出しです。
そしてパウロは、この「奴隷」という言葉こそ、キリスト教の味わいの中の味わい、共有の中の共有だと思って、こう書き出しているのです。
ふつう人は、「奴隷」であることに喜びを見出すわけはありません。そして、手紙を受け取る方も、「奴隷」という言葉を見ても、そこに感銘を受けるはずもありません。
むしろ、不名誉を感じます。
しかし、原語で、パウロ、しもべ、「パウロス デューロス」と言い切っているパウロ。ここに、彼の信仰観があります。彼が水増しを一切せずに伝えたい、信仰のエッセンスが、ここに凝縮されています。
ローマ人の市民権を得るということ、そのことは、当時のローマ帝国において、絶大なことでありました。どこにおいても格段の庇護を受けるということでした。
使徒行伝22章、エルサレムで鞭を打たれかけたとき、パウロはローマの百人隊長に言いました。「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭打ってもいいのか」百人隊長は千人隊長にこのことを告げると、彼は、「私は多額の金を出して市民権を得たのだ」といいました。しかしパウロは「生まれながらのローマ帝国の市民です」と語ります。ローマの千人隊長は、ローマ市民であるパウロを鎖につないでしまったので恐ろしくなったと、聖書に書いてあります。
そうです、ローマ人は自由なのです。帝国ローマの市民は、自由という他に変えがたい力を持っているのです。
しかしパウロは、それにはるかに勝って、しもべ、奴隷であることを誇ります。
だれが好きこのんで奴隷になりたがるでしょうか。自由を失おうとするでしょうか。彼はもともと、絶大なる自由の力を持っていたのです。
キリスト・イエスのしもべ。 彼はイエス・キリストに捕らえられるまでは、自由でした。エリートで偉大なガマリエルの弟子、力があり、実行力に富んでいました。しかしキリストに出会ってから。彼は変わりました。自分の持っている「自由」を用いて、主の弟子となり、主のしもべとなる道を選びました。
「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」 2コリント11:24-27
これがしもべパウロの生きざまでした。何度も投獄されました。
キリスト教を言い表すこと、それは、キリスト・イエスの奴隷となるということでしょう。十字架につけられたキリストとともに苦しみ、死に引き渡され、そして復活をも共にするということです。
「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」フィリピ3:10-11
奴隷、それは嫌な言葉です。私たちが受けたくない名前です。しかし、そこに命があります。そこに喜びがあります。
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 ヨハネ8:31-32
私たちは、「キリスト・イエスのしもべ」であることをわが身の最大の誇りと、することができます。
「パウロ、キリスト・イエスのしもべ。」 この自己紹介。これはパウロがいやいやながらに、あきらめながらに、自分を紹介した言葉ではありません。ここにキリストの福音がある。ここによい知らせがある。ここに奥義がある。ここに共有したい宝がある。こう、私たちは、知ることができます。
この「しもべ」としてのパウロとの自己紹介のほかに、「使徒として召され」「神の福音のために選び出され」たパウロとの、自己紹介が、なされています。
「召された。」これは、自分からなりたいと思って使徒となったわけではないということ、ただ神様の御心のうちに、呼ばれたという意味です。
神様が直々に自分を指名してくださり、使徒として、メッセンジャーとして、召して下さったのです。それはまた、神の福音のために選び出されたことなのだと、言いかえられています。
キリスト・イエスのしもべとなる、召されて使徒となり、選び別たれたことというのは、ひとえに神の福音のため、でした。
神の福音とは、神のもたらした「良き知らせ」のことです。
パウロは、この良き知らせのために、キリスト・イエスのしもべとして自ら進んで奴隷となったと、自己紹介しています。それほどに、良き知らせが素晴らしいものであると、彼は言っているのです。
それではその福音とは、いかなるものかと、話は進んでいきます。
2節、この福音は、神がすでに聖書の中で預言者を通して約束されたものと言います。この「福音」は、新奇で突飛なものではなく、旧約聖書の初めから、連綿と語り告げられ、約束されていたものだとパウロは言います。
3節、そしてさらに福音とは何かと言葉を続けるパウロは、福音とは、すなわち、御子に関するものであるといいます。御子とは何かといえば、肉においてはダビデの子孫、正当なるイスラエルの王の子孫と語ります。
聖なる霊によれば、その霊の力によって死者の中からよみがえった神の子と定められる方、すなわち、完全に人であり、ダビデの子であり、完全に神であり、神の霊の力によりよみがえられた方であると、紹介されています。
すなわち、この御子こそ、私たちの主イエス・キリストです。
ここでパウロは、福音とは、御子、イエスキリストのことであると語っています。
そしてキリスト・イエスにより、恵みと使徒職とを与えられ、すべての国々の人たちに、主の御名のために、信仰から来る従順へと導くために召されていると、パウロは語ります。
パウロは、恵みによって使徒とされ、異邦人伝道に召され、主の栄光のため、本物の信仰、従順を伴った信仰に至らせる働きに召されていると、ここで語っています。
キリストのしもべという言葉で語り始めたパウロが、ここで「信仰による従順へと導くため」と語っていることに目を止めましょう。
「信仰による従順」。 神の御子、主キリストを信じる信仰は、信仰による従順に至らせるということが分かります。
「信仰による従順」ということを、もう少し掘り下げてみましょう。「信仰による従順」とは、一体どういうことなのでしょうか。
6節、「この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなた方もいるのです。」
1節に「召されて」使徒になったとありましたが、ここに2番目の「召されて」という言葉があります。
「召されてキリストのものとなったあなたがた」
救われて自由になるということは、救われてキリストのものとなるということであります。
私たち罪ある者が自由を働かせるとき、私たちは罪の行いをしてしまいます。しかし私たちが本当にキリストのものとされるとき、召されて、キリストにしっかりと接ぎ木されるときに、私たちは本当に自由になります。
このことが、「信仰による従順」であります。私たちはキリストと混然一体とされ、結婚した夫婦のごとく、ここからはわたしの領域、ここからはあなたの領域とは言わず、「我は召されてキリストのものとなった。キリストは我がものとなった」と言い得るようになったのです。
もはやユダヤ人も、ローマ人も、日本人もありません。召されている私たちは皆、イエス・キリストのもの、イエス・キリストの一部分とされているのです。これが、私は「キリストのしもべ」という意味です。なぜならば、キリストご自身が、私たちのためにしもべと、奴隷となってくださったからです。私たちのために、自らを低くし、仕えるものとなって、富んでおられたのに、私たちの負債のために、呪いの木にまでついてくださったからです。傷一つない完全な方だったのに、私たちのために打ち傷を受けてくださったのです。
7節、「神に愛され、召されて聖なるものとなったローマの人たち」、ここで初めて手紙の受取人が出て来ました。
パウロは、この手紙とともに、福音そのもの、イエス・キリストそのものを差し出そうとしています。その気持ちの表れが、この長い長いあいさつ文に表れています。
三つ目の「召されて」という言葉です。
「召されて聖なるものとなったローマの人たち。」
聖なるものとしていただいたということ。キリストの血潮にて聖なるものとしていただいたこと、それは神様の必死の呼びかけ、召しによる以外ないのですよ。自分で打ちたてたものでも、自分で求め得たものでもない。神様が呼びかけをもって、召しをもって、ただ呼んでくださったのですよ。
それは私が召されて使徒となったことと同じ、そして私たちがキリストのものとされたことと同じこと、そうして私たちは皆、聖徒、聖なるものとされているのですよ、それが神様に愛されているということなのですよ、福音の伝道者となり、キリストのものとされ、贖われて聖とされているこの身の上を、召されてそうされている身の上を喜んでくださいと、パウロは語っています。
これでこそ、パウロは祝福を固く信じて祝福を語り得るのです。
「私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなた方にあるように。」
おさらいいたしましょう。
パウロは三重の言葉をもって、自己紹介をしました。すなわち、キリストのしもべパウロ、召されて使徒となったパウロ、福音のために選び出されたパウロ。 このことにより、パウロは、神様の召しにより、選ばれ福音のためにキリストのしもべとなったことが分かります。
この福音とは、キリスト・イエスのことであり、キリスト・イエスは、神の御子であり、肉においてはダビデの子、霊においては、その神の力により死者からよみがえられた方、まったき人であり、まったき神であることが語られています。
パウロは恵みと使徒職を与えられ、信仰による従順へと、すなわち、召されてイエス・キリストのものとされるように、その信仰による従順に至らせる真の信仰に導くために立てられました。
そのように召されたものは、聖なるものとなります。神のものとなります。
しもべとなってくださったイエス・キリストを、従順によって信じ、召しから召しへと運ばれ、キリスト・イエスの伝道者として召されて歩む人は誰でも、神からの恵みと平和を受け取ることができます。
私たちも、しもべとなってくださったイエス・キリストを一心に見つめ、私たちへの神様からの召しを全うし、祝福された生涯を送る者となりたいと、願うものであります。
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