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説教原稿

2009年6月7日
「神は善に変え」
創世記50:15-26

長い間、読んできました、創世記も、今日で最後になりました。

アダムとエバ、カインとアベル、ノア、アブラハム、イサク、そしてイスラエルと呼ばれたヤコブ。そして12人の子供、とりわけヨセフの生涯が描かれていました。
ハランからカナン、そしてエジプトへ。
神様の御手の中に導かれる神の民イスラエルの姿を追ってまいりました。

いつの時代においても、神様は、御自分の民に向かって呼ばわり、語りかけられました。
この木から食べてはいけないとか、箱舟を作りなさいとか、ハランの地を出てわたしの示す地に出て行きなさいとか、わたしはあなたの子孫を天の星のように数えきれないものにするなど。言葉によるもの、そして言葉によらないもの。荒野の逃避行をするヤコブにあらわされた天からの梯子。ペヌエルでの格闘。ヨセフがエジプトに導かれ、総理大臣になったこと。

神様は御自分のみこころに応答する一握りの民を選び出し、「地上のすべての氏族はあなたによって祝福に入る」とおっしゃいました。

出エジプト記にこう書いてあります。
「今、もしわたしの声に聞き従い わたしの契約を守るならば あなたたちはすべての民の間にあって わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。
あなたたちは、わたしにとって 祭司の王国、聖なる国民となる。」19:5-6

私たち神の民は、神様によって宝の民です。神様が宝と呼んでくださる民です。世界の民と、神様との間に立つ、祭司として、聖なる国民として、神様に召されています。

49章。ヤコブは、族長として、長い歩みを歩いてきました。そして今、12人の息子を祝福し、先祖の列に加えられようとしています。

49章1節2節、「集まりなさい。わたしは後の日にお前たちに起こることを語っておきたい。ヤコブの息子たちよ、集まって耳を傾けよ。お前たちの父イスラエルに耳を傾けよ。」
最後の言葉です。
子供の性格をよく知る親であれば、今までの行動パターンから、これからするであろうこと、そしてその身にこれからどんなことが起ころうとしているのかが、分かるというものです。厳しい一辺倒を言われて、何のほめ言葉もなくそれだけという息子たちがいますが、これもまた、愛のムチというべきでしょう。

長子ルベン。本来であれば、彼が家督を継ぐべきでした。しかし、彼は、父の側女を奪ったので、その「水のような奔放」さのゆえに、退けられました。
二男・三男シメオンとレビもまた、妹ディナの復讐心に燃え、シケムの男たちを皆殺しにしました。ヤコブは「彼らは怒りのままに人を殺し」たと語りました。
四男ユダ。「あなたは兄弟たちにたたえられる」と、語られます。
ユダは弟ヨセフを売り飛ばそうと言い出した兄でした。しかしその後、ヨセフの前でベニヤミンが人質に取られそうになると、自分が代わりになるからといって自分を捨てて弟をかばいました。そのことが認められ、ユダは、家督を継ぐものとされました。

ゼブルン、イサカル、ダン、ガド、アシェル、ナフタリ、ほかの息子たちの祝福が続き、ヨセフの番になりました。
49章22節から、「ヨセフは実を結ぶ若木 泉のほとりの実を結ぶ若木。 弓を射る者たちは彼に敵意を抱き 矢を放ち、追いかけてくる。(兄弟たちのひどい仕打ちのことでしょうか)・・・しかし彼の弓はたるむことなく・・・イスラエルの石となり牧者となった。 どうかあなたの父の神があなたを助け 全能者によってあなたは祝福を受けるように。 あなたの父の祝福は 永遠の山の祝福にまさり 永久の丘の賜物にまさる。 これらの祝福がヨセフの頭の上にあり 兄弟たちから選ばれた者の頭にあるように。」
最大限の祝福です。
そしてベニヤミン。

そして28節。「これらはすべて、イスラエルの部族で、その数は12である。これは彼らの父が語り、祝福した言葉である。父は彼らを、おのおのにふさわしい祝福をもって祝福したのである。」
子供が12人もいれば、その性格はそれぞれだと思います。仮に出来が悪くても、失敗だらけでも、その都度立ち直り、最後には「忠実な良い僕だ。よくやった。」と、言っていただきたいものです。 黙示録にも、7つの教会にあてられた、それぞれの教会を評価する内容が記されていますが、私たちも、いろいろな例を他山の石として、神のしもべとして生きていきたいものです。

いよいよ臨終のとき。ヤコブは、アブラハムが買った、カナンのマムレの前の、マクペラの畑の洞穴に先祖たちとともに葬ってほしいと告げました。
そこには、アブラハムも妻サラ、イサクと妻リベカ、そしてヤコブの妻レアもそこに葬ってあります。最愛の妻ラケルは、ベツレヘムへ行く道の途中に葬られたと紙面を割いて書かれていましたが、レアに関しては、ここに書かれているのみです。
先祖たちとともに葬るべし、こう命じてから、ヤコブは、息を引き取り、先祖の列に加えられました。

50章。
ヨセフは父の顔に伏して泣き、口づけをしました。父147歳。エジプトの地に共に住んだ最後のひとときは17年。欠落した20年以上の時を埋め合わすためにはまだまだ時が必要だったことでしょう。
先週、冤罪で釈放された菅家さんという方が何度もテレビに出ていました。17年半だったでしょうか。髪の毛を引っ張られたり、足を蹴とばされて自白を強要された、とのことでしたが、何という長い年月だったことでしょう。刑務所の中にいるときに、両親の死に目にも会えなかったことでしょう。自由になったとき、御両親はお墓の中。なんというやるせない気持ちだったことでしょう。

ヨセフも、暴力とともに、囚われの身になりました。長い間、愛する家族と隔離されました。そして、時は無情に過ぎ、「父を見るやいなや、父の首に抱きつき、その首にすがったまま、しばらく泣き続けた」、再会の喜びのあの抱き合って泣いた、あの二人もまた、今度は死によって引き裂かれるのです。喜びの涙を流して17年。今、ヨセフは、父の顔に伏して泣き、口づけしました。

ヨセフは、父の顔かたちが失われないようにと、自分の侍医たちに、父の体を防腐処置するようにと命じました。それは40日もかかる緻密な作業でした。
どれだけヨセフが父ヤコブを愛していたか。どれだけヤコブがヨセフを愛していたか。美しい、家族の姿を聖書は示しています。
イエスさまが、ラザロの墓の前で、悼み泣く人々ともに、涙を流された、あの美しい聖書の一節も、思い出されます。

この光景を見たファラオは、ヨセフを大切に思う思いから、70日の間エジプトを喪に服させました。王が死んでも、喪の期間は72日だったそうですから、どれだけヨセフがファラオに愛され、エジプトの人たちから愛されていたかが分かります。

次にヨセフは、父との最後の約束を果たすため、王ファラオに、国を一時出て、カナンの先祖代々の墓に父を葬るために出かけさせてくださいと頼みました。ファラオは二つ返事でそれをゆるし、ヨセフとともに、ファラオの宮廷の元老である重臣たちすべてと、エジプトの国の長老たちすべてをヨセフと、その家族に付き添わせました。
また、戦車も騎兵も伴わせましたので、その様子を見ていたカナンの人たちは、「あれはエジプト流の盛大な追悼の儀式だ」と言いました。そこで、その場所は、「エジプト流の追悼の儀式」という意味を持つ、アベル・ミツライムという名で呼ばれるようになったほどでした。

ヨセフは、父を葬った後、兄弟たち、父を葬るために一緒に上ったすべての人たちとともにエジプトに帰りました。
エジプトに帰ると、ヨセフの兄弟たちは心配を始めました。ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思い始めたのです。

16節、兄弟たちは人を介してヨセフに言いました。
「お父さんがこう言っていました。『お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに兄たちはヨセフに悪いことをしたが、どうか兄たちを赦してやってほしい』ですから、お願いです、あなたの父の神に仕えるしもべたちの罪を赦してください。」

自分の兄弟たちが、亡き父の言葉を引いてまで、自分たちをゆるしてほしいと、今になってまで懇願する言葉を聞いて、ヨセフは涙を流しました。どんな涙だったのでしょうか。過去の辛さが今一度思い出されたのでしょうか。お父さんが自分の死後、こう言いなさいと兄たちに残していた言葉を聞いて、お父さんの家族を思う気持ちを知って涙したのでしょうか。今になってなお、自分たちが本当にゆるされてはいないと思っている兄たちが不憫だと思って涙したのでしょうか。

やがて、ことづてが伝わった後を見計らって、兄たち自身もやってきて、ヨセフの前にひれ伏して、言いました。
「この通り、私どもはあなたのしもべです。」
すると、ヨセフは、兄たちに言いました。

「恐れることはありません。私が神に代わることができましょうか。」

裁くことができるのは、人が赦しのためにひざまずくべきは、神に対してのみである。そうヨセフは思っていました。ヨセフは、エジプトの中で、王に次ぐ地位にいながら、人を裁き、生きるも死ぬも指図することができる立場にいながら、「私は神に代わることはできない」とその信仰を言い表しました。神様は自分をはるかに上回るお方。私の命、私の主と、彼は告白していました。

「あなた方は私に悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」

あなた方は私に悪をたくらんだ。悪を計画し、自分はおとしめられた。これは明らかなる兄たちの罪です。明らかな、神の前にある罪です。 しかし神はそのどす黒い罪による殺人行為、悪の行為を、善に変えてくださったと、ヨセフは言いました。
その計画ずくめの、人のどす黒い画策、悪の行為が、神のよって善に変えられる。これは何と、驚くべきことではないでしょうか。「神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださった。」

自分が痛みを背負わされたというのに、何とすがすがしい、神様に目を向けた、恨みのない発言でしょうか。それさえも神様は用いて、善に変え、多くの民の命を救ってくださった。
確かに、その通りです。確かに、ヨセフがエジプトに送られなかったなら、あのときカナンに居候のようにしていたヤコブ一家は、立ち行かなくなっていたことでしょう。
その悪しき行為も、神は善に変えてくださる。
もちろん悪しき企てが正当化されるわけではありません。悪しき行いは、常に悪しき結果をもたらします。しかし人のそんな悪しき行いの繰り返し、そんな出来事のただ中に、神様は介入してくださり、もつれた糸をほぐし、さらに人の歩みを善と変えてくださるのであります。

二千年前に、人の世に送られた、人となられた神の子、イエス・キリストを思い出します。
人は策を凝らし、残虐と悪の企てとによって、神の子に手をかけて十字架に殺しました。

しかし、神様はそれを善に変えてくださいました。
謝っても赦されることの決してないような、永遠の罪を人は、神に対して犯しました。人が神の独り子を十字架にかけたのです。
しかし神様はそれを善に変えてくださいました。
その独り子の命を与え、人の罪を明らかにし、御子の命を贖いとして差し出し、悔い改めによって永遠の命を与えてくださったのです。
「多くの民の命を救うため」、神様は、御子イエスさまを差し出して下さり、人の罪深い行いを、キリストによって、救いへと変えてくださったのです。

21節、「どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。 ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。」

罪深い人の行いを善の御心のうちに、善に変えてくださる神様。そして、「恐れなくてよい」そう語り、「慰め」「優しく語りかけ」てくださるのもまた、神様ご自身であります。

ヨセフは、祝福のうちに生き、子供、孫、ひ孫まで見ることができました。そして兄弟たちに言いました。
「私は間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。」
やがて後、自分たちの子孫がエジプトで邪魔者扱いされ、奴隷にされ、鞭打たれ、しかし神様は確かに導き出す者を備え、約束の地に連れ戻して下さる、ヨセフはもう、出エジプトのことを予言しています。
ヨセフはイスラエルの息子たちに言いました。
「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。その時には、わたしの骨をここから携え上ってください。」
こうしてヨセフもまた、110歳で死にました。人々は、父ヤコブにしたように、ヨセフを惜しみ悼みながら、彼の体を防腐処理しました。

こうして創世記50章は幕を閉じました。

ヨセフの最後の言葉を胸に刻みましょう。
「神は必ずあなたたちを顧みてくださる。」
そして、誓われた地に導き上ってくださる。

モーセによって、成就しました。そして、イエスキリストによって、私たちは、天の、約束の都へと、確かに導き上らせていただけるのです。

人の罪深さを赦し、最後にすばらしい結末を迎えさせてくださる神様。罪を赦し、励まし、優しく語りかけたヨセフの神である主が、必ず私たちを顧みてくださる。これが創世記の締めくくりの言葉です。
エジプトの地で、故郷から離れた地で、悪戦苦闘し、叫び声をあげるような日々かもしれません。しかし必ず神様は私たちを顧みてくださいます。すべてを、善に変えてくださいます。私たちは、この生ける神様に心から期待して、ほんのひと時の荒波を、ひととき耐え、そして、永遠の安息の地に、導いていただけるのです。
感謝いたしましょう。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」ヨハネ14:1-3,6

「死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。
『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」」 マタイ22:31-32

 

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