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説教原稿

2009年5月24日
「牧者なる神」
創世記48:11-20

 いよいよ創世記も、48章まで進みました。天地創造、アダムとエバ、ノアの箱舟、アブラハム、イサク、ヤコブ。そしてその12人の子供たち。ヤコブの民、すなわちイスラエルの民、12部族が生まれ、そしてエジプトに入るところで創世記はその幕を閉じます。
私たちは、人の罪深さを学び、族長たちの信仰から学んでまいりました。

 47章の最後でヤコブは、ヨセフに誓いをたてさせました。「私をエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってほしい。」ヨセフは、分かりましたと誓いました。ヤコブは、寝台で横になりながら、感謝しました。

 今日は、48章から、信仰に生きたヤコブの最後の場面を見てまいりましょう。

 誓いをたてさせ、寝台から横になったまま、幕を閉じるかに思われたヤコブでしたが、彼は、ここ48章でヨセフと語り、続いて49章でも、長々と子どもたちへの祝福の言葉を語ります。

 自分の身は、安らかに故郷の先祖たちと共に葬られる。この異邦の土地には葬られない。これが彼をほっとさせました。そして彼は、新たに最後の力を振り絞り、自分の子供たちへの祝福を語り続けます。
私たちもまた、旅立つべき時には、確かに行くべきところを持っています。私たちは、今神様に導かれており、そして死が訪れようとも、それが神様との関係を覆すものではありません。

「行くべきところがある私たち」、「信仰の民、聖徒たちと同じところに帰ることができる私たち」であります。

私たちは、一点の恐れもなく、心配もなく、信仰者たちがたどり着く、先祖たちが待っている神様のみもとへと、たどり着くことができます。

ヤコブがヨセフを呼んで、故郷の先祖たちのところに葬るように、頼みました。
これらのことの話された後、再びヨセフに「お父上が病気です」と、知らせる声がありました。神の人ヨセフは、いつも父ヤコブを喜ばせる存在でした。
ヨセフが駆けつけます。

父イスラエルは、力を奮い起して寝台の上に座りました。先日は横になったままで感謝していたのに。まさに最後の力を振り絞って自分の子供たちを祝福する場面です。

ヨセフは言いました。
3節、「全能の神がカナン地方のルズでわたしに現れて、わたしを祝福してくださったとき、
こう言われた。『あなたの子孫を繁栄させ、数を増やし/あなたを諸国民の群れとしよう。この土地をあなたに続く子孫に/永遠の所有地として与えよう。』

ルズで私に現れて。ルズとは、ベテル、すなわちヤコブがここは神の家だと呼んだ場所です。
あの荒れ野で石の枕で寝ていた心細いところ、罪ゆえに、故郷にいられなくなって、母の故郷、ハランのラバンおじさんの所へ出ていく場面です。夜、真っ暗やみの中、行方も分からぬまま飛び出した、何の先の保証もないヤコブに、神様は、天から梯子を下らせて、み使いたちを上らせ、下らせてくださいました。

事細かなことかもしれませんが、み使いを下らせ、上らせたと書かれていません。神様は、最も低いところ、私たちと同じ視線の所から私たちの罪と汚れに満ちたどろどろの思い、そして不安、恐れ、嘆き、それらを静かに聞き上げ、そして上からの御業を行ってくださいます。まず聞いてくださる神様、私たちの身丈から御業を始めてくださる神様。そんな神様のお姿を私たちは見ました。
頭ごなしにではなく、気づけば、そこにもうすでに、気づかないうちにみ使いが遣わされている不思議。そして、私たちの思い悩み、問題のすべてを知り尽くして上へと携え上げてくださる、神様の御業であります。
イエスさまはまさにそのようなお方でした。

人が気付かないような、ひっそりとした現れ方。神が一人の赤ちゃんとして生まれた。ここに神様の最大限の謙遜さが現れています。そして、神様は、私たちとともに、私たちの身丈となられて、いてくださいます。そして私たちの思い悩みと問題を知り、十字架に上られ、罪を贖い、私たちを上へと、引き上げてくださいます。

イスラエルの民、教会の民、この子孫を繁栄させ、諸国民の群れとしよう。この土地を永遠にあなたに続く子孫に、所有地として与えよう。今やクリスチャンは、世界に増え広がっています。

ヤコブは、ヨセフがエジプトでもうけた子供たちが、自分の子孫として、神様の契約の中に生き続けるように、ヨセフの子供を自分の子供にしたいと申し出ます。ヤコブは、ヨセフがエジプトに遣わされ、死んだ者、切り離されたもののように思われていましたが、今神様の契約の子孫として、エジプト人の妻との間にできたヨセフの子供たちをその契約の流れへと組み合わせようとしています。ここにも、世界に広がる神の民の大きさ、選民イスラエルでありながら、救いのフォーカスは、すでに世界にまで見渡されているようにも感じることができます。
兄の家督を横取りして、家庭内を真っ二つに切り裂いたヤコブ。偏愛により、他の兄弟のやっかみを買わせ、ヨセフを失ってしまったヤコブ。しかし晩年は、ばらばらになりかけたものを一つ家族にするために最後の力を振り絞るヤコブでした。

ここで急に、妻のラケルのことが思い出されます。最愛の妻ラケル。そのラケルの姿をよく映したヨセフの姿。それゆえ昔から愛しぬいてきたヨセフでした。ヨセフを見ていると、ラケルに先立たれた悲しみが襲ってきます。老境に入りますと、人生の総決算と言いますか、人生のハイライトが走馬灯のように思い廻ってくるようです。
しかし、ヤコブの話は、過去形で終わったものではありません。その出来事を思い返すうちに、ひとつひとつの出来事が、生ける神様を思い出させ、そしてその神様は、過去に出会って、今はどこにいるかわからない人間のようにではなく、今も同じ恵みといつくしみとをもって自分に臨んでいてくださると、信じることができる。それが神様です。

ラケルが死んだ時。それは、パダンから帰る途中だったとヤコブは思い出します。それはすなわち、ハランのラバンおじさんの所から逃げ出したその道すがらでした。おじのもとを去り、ペヌエルで恐れと戦い、神様が胸を突き合わせて彼と戦い、祝福を勝ち取らせました。私たちもまた、祈ることのできないほどの恐れと不安に立ち尽くすとき、神様が胸を貸してくださり、私たちの泣き叫びを受け止めてくださいます。私にぶつかって来い、そう神様はおっしゃいます。打算ずくだったヤコブ。しかし神様は、彼とがっぷりと取り組んで、さあ俺に向かって来いと、ヤコブに1対1で対面してくださいました。ペヌエル。神の顔を見た。私たちがいつも相対するべきは、刻々と変わる、とらえどころのない問題そのものではなくて、その背後にいらっしゃる生ける神様です。
足のつがいを打って、まさに自分の力によって立つのではなく、神様に立たせていただくという、謙遜を学ばせられた時だったのではないでしょうか。エサウと再会し、赦しを得たヤコブ。意気揚々と思われましたが、エフラト、すなわちベツレヘムに向かう途中で最愛の妻が産気づいてベニヤミンを産むと同時に死んでしまった。

先を目指して歩く旅、まだ目的地までかなりの道のりがある途中でのことだったと語るヤコブ。
ラケルをベツレヘムへの道の途中で葬った彼の悲しみはいかばかりだったことでしょう。
自分の最愛の妻を守り切れなかったヤコブ。人生の長い長い旅路を、回り道しながら歩いたように思うヤコブ。

彼は、ただお慰みで昔の苦労話を語っているようには思えません。彼の罪の告白ともに、神様の恵みの御業によって、悲しみの傷が上から覆われる、そういう話、神様をほめたたえる話を語っているように思います。ラケルを失った後、最愛の子ヨセフまで失ったヤコブ。自分を責め抜いたことでしょう。罪のもたらす結末がいかに残酷なものか、痛いほどその代償を嘗めつくしたヤコブでした。
しかしヨセフは、しっかりと神様がその御腕に抱いてくださっていた。

過ちがもたらす痛みと、しかし優しく包んでくださる神様の御業。ヤコブは、しみじみと、ヨセフを前に、神様の恵みを、かみしめていました。
イスラエルは、イスラエルは、こうヤコブのことが言い表されています。
砕かれて、神の恵みをただ讃美するヤコブ。これがイスラエル、神の民の特権であります。私たちの特権です。

「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし 我々を打たれたが、傷を包んでくださる。」 ホセア6:1

ヨセフの二人の子供たちに気付くヤコブ。
「ここに連れて来なさい。彼らを祝福しよう」老齢のため、目がかすんでよく見えないヤコブ。ヨセフが子供たちを近づけると、イスラエルは彼らを口づけして抱き締めました。

「お前の顔さえ見ることができようとは思わなかったのに、なんと、神はお前の子供たちをも見させてくださった。」

時間が経てば経つほどに、神様の恵みのご計画があらわされ、驚き感謝する人生。何という、幸いなことでしょうか。クリスチャンの人生こそ、末広がりの人生です。

「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」コヘレト3:11
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」 新改訳聖書

さてここからがイスラエルの真骨頂です。
兄マナセと、弟エフライム。ヨセフは、兄マナセに父イスラエルの右の手からの祝福、そして弟エフライムに、左手の祝福を授けてもらうように自分の子どもたちを並べたのですが、父イスラエルは、わざわざ手を交差させて、弟に兄の祝福を与えるように、その手を置きました。

いぶかるヨセフをよそに、まずイスラエルは、ヨセフを祝福して、言いました。
「わたしの先祖アブラハムとイサクが その御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。」

神様は、昨日も今日も、そしてとこしえに変わらない、永遠の方です。人となぞらえることなく、永遠なる神。今はなき、父祖アブラハム、イサクの神。そしてその神様は、私の神。私の生涯を、今日まで導かれた牧者なる神。

味わい深い言葉です。羊飼いとして、人類を導き続ける神。牧者とは、言うまでもなく、群れを食べさせ、敵や危険から守り、いのちを守り、群れを憩わせ、平安で満たす存在です。
人もまた、羊にたとえられています。羊は憶病な動物です。主体性があるというよりもむしろ、自分の前にいる羊のお尻を見ながら無批判に歩きます。突然敵が現れると、容易にパニックになり、前の羊を見ているだけですから、一斉に崖から落ちてしまうようなこともあるようです。色々と事細かなお世話を得て、満足できなければ、身を横たえることができない動物です。無知蒙昧な羊を忍耐強く牧する牧者のように、主は私を導いてくださった。主は牧者なる神。彼はそう、告白します。

「わたしをあらゆる苦しみから 贖われた御使いよ。」 こう体験した人の、証しは重い価値を持ちます。ヨセフにとっても、苦しみから救ってくださる神様を身近に体験したことでしょう。 祖父にも、父にも、そして私にも、そして子供にも。等しく神様は、導いてくださいます。

「どうか、この子供たちの上に 祝福をお与えください。どうか、わたしの名と わたしの先祖アブラハム、イサクの名が 彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に 数多く増え続けますように。」

私たちを導いてくださったように、この子供たちも祝福してください、アブラハム、イサク、そしてわたしが覚えられ、私たちに表れてくださった神様が、覚えられますように、ヨセフの子供たちに手を置いた祈りによって、聖書はヨセフを祝福した祈りと記されており、その祈りの内容は、ヨセフと、ヨセフの子供に対する祈りであります。

さて、手を交差させた祝福の祈りです。老齢のため、目がかすんでいたイスラエル。勘違いしていると思ったヨセフは、正しく手を置いてくださいと頼みます。

イスラエルは、「いや、分かっている。私の子よ、分かっている」と答えました。そして今度こそ、ヨセフの子供たちへの祝福が始まりました。エフライムとマナセ、弟、兄の順番で、祝福を授けたヤコブ。

「間もなく、わたしは死ぬ。だが、神がお前たちと共にいてくださり、きっとお前たちを先祖の国に導き帰らせてくださる。」
老齢で目がかすんでいても、過去の自らの過ちに目を開き、ただただ苦しみから贖ってくださった牧者なる神をあがめ続けるイスラエル。
自分の業績を誇らず、威張らず、ただ神様を一心に見つめて、過ちを恵みに変えてくださる神様に頼って生きてきたイスラエル。

彼はヨセフの子がこの先どのように歩んでいくかを見抜いていました。心の目、霊の目は、鋭く光っていました。

私たちが思う以上に神様のみ心は広く、深いものです。
後の者が先になり、先の者が後になる。
死んでいたと思っていたものがよみがえり、自分たちを助ける。

アブラハムに語られた祝福の契約は、変わることなく子孫に受け継がれています。
生涯の終りまで導く牧者、あらゆる苦しみから贖われる神、アブラハム、イサク、ヤコブの神様は、今日も同様に私たちの神様です。

イスラエルの言葉です。「神がお前たちと共にいてくださり、きっとお前たちを先祖の国に導き帰らせてくださる。」
「神が共にいてくださる。」

今週も、いつも離れずにともにいてくださる牧者を見つめて、歩んでまいりましょう。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」ヘブライ12:2

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