説教原稿
2009年5月17日
「私どもの命の恩人です」
創世記47:12-26
先週、私たちは、ヤコブとヨセフの感動の再会の記事を読みました。また神様が、エジプトに下りなさい、恐れるなと、語ってくださったことを学びました。
神様は、ご自分の民を、祝福のうちに、導いていてくださいます。
今週も、生ける神様に、すべてをお委ねして、歩んでまいりましょう。
ヨセフは父ヤコブと再会し、その後自分の兄弟5人を連れて、エジプトの王ファラオに挨拶をしました。王ファラオは、最も良い土地に家族を住まわせなさい、そして優秀な家族がいたら私の家畜の監督をさせなさいと、まことに寛大な配慮を示しました。
これに安堵したヨセフは、続いて父ヤコブをファラオに引き合わせます。
ヤコブはファラオに祝福の言葉を述べました。
「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」
アブラハムに語られた祝福の契約は、生き続けています。
もともと住んでいた土地、カナンに食べるものがなくなって、ひもじさからエジプトにやってきたのに、それでもなおイスラエルは、祝福の民なのでしょうか。
思い出してください。エジプトにあって、王の夢を解き明かしたのは誰だったでしょうか。
エジプトの国中の魔術師や賢者すべてを呼び集め、ファラオは自分の夢を語りましたが、だれも解き明かせるものはいませんでした。
イスラエルの子、ヨセフが解き明かしたのです。
そして、大国エジプトは、未曾有の飢饉から救われ、周囲の国をも助ける国となりました。しかしその背後には、生ける神様のお働きがありました。
神様は、今もこの世界すべてをご支配しておられます。そしてご自分の民を用いて、みこころを実現し、ご自分の民を通して、地上の氏族すべてに、祝福をおあたえになります。ご自分の民とは、私たち教会の民です。私たちが、神様の祝福を取り次ぎ、神様の救いを、世界に取り次ぎ、お知らせするのです。
ヤコブはこのとき130歳。ファラオも、その高齢で健やかなる姿を見て、年齢を尋ねました。元気で長生きということに、敬意を払っての問いかけでしょう。
ヤコブは答えました。
「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」
イサクは自分の祖父アブラハム、父イサクと比較して、こう言いました。アブラハムの生涯は175年、イサクの生涯は180年。
「私の生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」
しみじみと自分の生涯を思いめぐらし、語るヤコブでした。「苦しみ多く」とは、若き日の、数々のギラギラとした、だまし、だまされた思い出がよみがえったのでしょう。
それでも神様は、彼の生涯を立派なものとしてくださいました。彼をイスラエルとし、その子どもから、イスラエルの12部族をお作りになられました。
「苦しみ多く、年月短い、ああわが生涯。先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」
こう語るヤコブ。しかし神様は、ヤコブを豊かに用いてくださいました。
彼をなくてはならないものとして、用いてくださいました。
罪ある者を主は生かし、用いてくださいます。
「わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し あなたの身代わりとして人を与え 国々をあなたの魂の代わりとする。」イザヤ43:4
神様は、そのように、語っておられます。
ファラオは、首都近くの、ラメセス地方の、最も良い地を与え、家族すべてを養い、食料を与えました。
不思議、不思議と世の方々から好意を得て、良きに計らわれる民。私たちは、いつもその姿を、創世記から見てまいりました。
神の民が、いつも地上の氏族すべてに祝福をもたらす民であれば、受ける好意も、うなづけます。
さて13節、飢饉は極めて厳しかったと、記してあります。
世界中に食料がなくなったとあります。
エジプトでも、カナン地方でも、人々は飢饉のために苦しみあえいだと、あります。
神様がヨセフをエジプトに送られたわけが、よくよくわかります。
世界を救うため、です。
神様は、巨大な穀物の倉庫となりうる大国エジプトを用いて、世界を救おうと計画なさったのです。
しかしエジプト人そのものは、神様から離れた生活をしており、生ける神様のみこころを知ることができません。そこでヨセフが遣わされたのです。そして不思議不思議とヨセフは取り立てられ、王の次に立つものとされ、神様の穀物計画は、実行に移されました。
神様は、今、この世の中にも、生きていらっしゃいます。
そして、世界を救うため、ご計画のうち、歩んでいてくださいます。
今世界も、金融危機、新型インフルエンザの猛威と、いろいろなことで人類は難しさを抱えています。
ここで用いられるのは、だれでしょう。
神の民です。私たちです。神様は、私たちを派遣して、この世界を救う計画を持っていらっしゃいます。
神様に立てられたヨセフの政治ぶりを、見てまいりましょう。
14節、ヨセフは、エジプトやカナンの人たちが食料を買いに来た代金の銀を、ファラオの宮廷に納めました。
第一段階は、銀です。今でいえば、貨幣と言えるでしょうか。
幾らお金があっても、おなかがペコペコになってはしょうがないことです。有り金をはたいても食べ物を買わなければなりません。
しかし、それでも、飢饉が続いても、売り続けることができ、与え、食べさせ続けることができたということは、神様がヨセフを通して、救いの計画を用意していてくださったおかげです。
第二段階。今度は払うべき銀がつき果てました。よっぽどひどい飢饉だったのですね。家畜があっても、ひどい飢饉で、耕しても耕しても、一向に実りがありません。さあこの家畜をいっそ食べてしまおうか。お金もなく、人々は、切羽詰まってしまいました。しかし、民は、ヨセフに相談しました。ヨセフは、馬や、ヒツジや牛、ロバなどの家畜と引き換えに、食料を与えました。この時もまだ、国の倉庫には、食べ物が入っていました。神様の救いのご計画のおかげです。
第三段階。次の年になりました。また食べ物を食べつくしてしまった民はまたヨセフのところに来て、言いました。
「御主君には、何もかも隠さずに申し上げます。銀はすっかりなくなり、家畜の群れも御主君のものとなって、御覧のように残っているのは、わたしどもの体と農地だけです。」
あとは自分の体と農地だけ。しかし農地は何も生み出さず、家畜もいなくなり、食べ物はすっからかんになってしまった。いよいよ私たちは命が消えていくだけ、何もかも隠さずに申します、私たちは生産すべき民なのですが、すっからかんになってしまいました。
こういう民たちでした。しかし、ヨセフにはまだ手立てがありました。民の命をギリギリのところで守る食べ物が、まだ蔵には残っていたのです。神様が、偉大な救いを知らせ、用意することができたからです。
「食料と引き換えに、私どもと土地を買い上げてください、種を与えてください。そうすれば、私どもは死なずに生きることができ、農地も荒れ果てないでしょう。」
蒔く種も、もはやなく、食べるものもない人たちは、もはや小作として、種を用意してもらい、蒔いて、実りの一部分を地主に納めるよりほかに、生きる道がありませんでした。
こうして、銀も、家畜も、人も、農地も、エジプト領の端から端まで、すべてがファラオのものになりました。
この飢饉に乗じて、ヨセフは民の身ぐるみを剥ぐようなことをしてしまったのでしょうか。
いえいえ、そうではありません。
23節からを読んでみましょう。
ヨセフは言いました。
「よいか、お前たちは今日、農地とともにファラオに買い取られたのだ。さあ、ここに種があるから、畑に蒔きなさい。
収穫の時には、五分の一をファラオに納め、五分の四はお前たちのものとするがよい。それを畑に蒔く種にしたり、お前たちや家族の者の食糧とし、子供たちの食糧としなさい。」
「ここに種がある。」ヨセフは、ひもじくなって飢え死にしそうな民を助けました。神様がヨセフを通してエジプトに臨んでくださらなかったら、あの穀物の備蓄がなく、民が豊作に任せて浪費三昧をしていたら、間違いなく、みな飢え死にしていたでしょう。しかし、その命は守られました。
ひどい飢饉ですべて失ってしまったけれど、民にはまだいのちが残されていたのです。そして、民には再びチャレンジするチャンスが与えられました。
種が与えられました。そして、きっと買い取られたあの家畜たちも、貸してもらえたことでしょう。ひもじくて食べてしまえばそれまででした。しかし、ヨセフがその知恵のうちに、預かっていてくれたのです。民の喜びはどれほどだったことでしょう。
さて小作であるからには、民は小作料を払わなければなりません。ヨセフは5分の1と言いました。民は驚きました。当時の小作料というものは、収穫の半分か、それ以上だったのです。
いのちが守られ、種も与えられ、家畜も貸してもらい、支払いはびっくりするほど安い。
彼らの喜びの言葉を読みましょう。
25節、「彼らは言った。「あなたさまはわたしどもの命の恩人です。御主君の御好意によって、わたしどもはファラオの奴隷にさせていただきます。」」
王ファラオは、ヨセフが上手にやって、民が喜んでファラオに使える姿を見て、目を細めて喜んだことでしょう。ヨセフのなした素晴らしい政策は、今日まで続いていると、創世記を書いたモーセは、語っています。
これらのことすべてに、神様の救いのみ業がありました。
神様の憐れみ深いご計画は、ヨセフの手によって、エジプトの民へと施されました。
「あなた様は私どもの命の恩人です。」この言葉は、ヨセフの背後にいらっしゃる神様への讃美の声であります。
神様のみ業はいつくしみに満ち、いのちを守り、私たちのなりわいを守り、私たちを喜びに満たします。
思えば神様がエジプトに対して、世界に対して、ヨセフを送ることによってはじめられたこと。ヨセフは苦しみぬきましたが、後になって、救いの計画が余すところなく表され、家族が救われ、民が感謝の声を上げると、本当に神様は救い主です、私のこの身を、用いてくださりありがとうございますと、讃美の声を上げたことでしょう。
同じように、神様は、私たちの主イエス・キリストをこの世界にお送りくださいました。そしてその命を贖いのために与えてくださいました。このことによって世界が救われたのです。憐れみ深い神様のみ心は、余すところなく、イエス・キリストによって現わされたのです。
エジプトの民の喜びの声を思い出してください。食べる糧と、働き場、いのちが守られ、喜んで、「あなたさまはわたしどもの命の恩人です。御主君の御好意によって、わたしどもは奴隷にさせていただきます。」
こういった声を思い出してください。
しかし、ここにはヨセフに勝る救いが語られているではありませんか。
主イエス・キリストという尊い神の子のいのちが与えられ、人はことごとく罪と死から解放されたのではありませんか。
私たちは今、エジプトの民に勝ってこう言うべきです。
「あなたさまはわたしどもの命の恩人です。御主君の御好意によって、わたしどもはしもべにさせていただきます。」
いつくしみ深い主の救いのみ業への讃美が、エジプトの救いの讃美に勝って、今、この世界で、叫ばれますように、願ってやみません。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」マタイ16:26
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 ヨハネ3:16
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