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説教原稿

2009年5月10日
「エジプトに下ることを恐れてはならない」
創世記46:1-7, 28-30

新しい週の朝を迎えました。
新たに神様を待ち望みます。
創世記も46章まで進みました。天地の創造がありました。人が、神にかたどって創造されました。
すぐに、人はそそのかされ、また自ら道を踏み外し、神様の言いつけに背きました。
祝福を逃し、楽園を追われる人間。
アダムとエバの子供は、一方が他方を殺してしまいます。
人の罪は増大し、神様を悲しめます。
神様はノアとその家族を選び、洪水を起こされました。神様の救いの箱舟は目の前にあったのに、その時代の人たちは、救いに見向きもしませんでした。
そしてまたもバベルの塔の建設。
そして人は、たがいに言葉が通じないようにされ、地の全地に散らされ、力を合わせて傲慢になることのないようにされました。
人の全知全能、とばかりの、かしましき叫び声、しかしその中に語りかける神様の声に応答する一握りの民。神様は、忍耐強く、腐りゆく、堕落していく人間の中から、いつも一握りをつかみだし、守り、養い、人の歩みの残り火を絶やさずに、守り続けて下さいました。
そして、アブラハム。神様は、彼を選び、彼に祝福のご契約を与えて下さいました。
「地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」 創世記12:3

神の民は、神様が共に歩むことを自覚する民、語りかけを聞き、導きを喜ぶ民、祭壇を築いて礼拝する民です。
私たちは、創世記の中に、幾度となく、神様が民を励まし、道を開かれるお姿を見ました。洪水に箱舟、アブラハムの生涯に、祝福の地への移動を命じられる方。
神様はその最善のみこころに従って、いつも新しいことをなさいます。そしてそのみこころを、神の民に伝えて下さいます。
それは今日も変わりません。
神様は、世の中の喧騒の中、いつも新しい救いの導きを用意しておられ、語りかけていて下さいます。私たちは、それを受信する民です。心のチャンネルは、しっかりと神様に合わさっているでしょうか。
神様のお声を聞く、そしてそのお言葉に人生をかけていくこと、それがアダムから始まって、現在の私たちに至るまで、唯一つの平安の道、祝福の道なのです。
不安と恐れ、叫びが、祭壇での感謝に導かれる。その姿を幾度となく、私たちは創世記の中に、見てきました。祝福の言葉を数多く、見てきました。
ただ一人の子を捧げて主を信じたアブラハムの信仰を見ました。
周辺の民族が攻めてきて、アブラハムが勇敢に甥のロトを守った姿を見ました。
イサクの嫁取り物語。神様が、長旅の一歩一歩を導いていて下さいました。
そしてイサクは周囲の民から井戸をつぶされる仕打ちを受けました。水争い。しかしイサクは、争いを好まず、また一つまた一つと、新しい井戸を掘りあてました。その背後に、神様がいて下さいました。ここにも神様の祝福の言葉と、励ましがありました。仕掛けた張本人、つわものの敵の指導者自らが、和解のため、手を伸ばしてきました。
「主があなたとともにおられることがよく分かりました。」ベエル・シェバ。誓いの井戸。
いくら不当な攻撃を受けても、攻撃をし返すのでなく、神様が養って下さるのを期待する。平和主義者、信仰者のイサクでした。

人の罪を見てきました。兄の祝福を盗み取るヤコブ、その背後にいる偏愛の母リベカ。
命からがら逃げ、荒野の人となったヤコブ。しかし神様は罪あるものをも導いて下さいました。神のはしご。ベテルの出来事。
だましたヤコブが今度はおじのラバンに騙されます。
ヤコブは知恵の限りを尽くして多くの家畜を得、ラバンのもとから逃げ出しました。
そして因縁の兄との再会。
ペヌエルでの、神様との格闘。彼の自我は砕かれ、彼もまた神の人と、作りかえられます。

絶対的に不可能、ここで万事休す、こう思われたエサウとの再会も、守られ乗り越えました。
昔も今も、尊いのは、状況を問わず、すべてをかけて神様に信頼するということです。
一粒種をも惜しまずに捧げ、やられ続けてもじっと神様を見続けて仕返しをしない。そんな神様バカのような信仰一途の人たちでした。 好対象のヤコブ。母リベカよろしく、頭の回転がすこぶる速かったのです。しかし策士、策におぼれます。

ヤコブも苦労の連続でした。騙し騙され、家族から離れて冷や飯を食らわされ、兄との命がけの再会を果たし、そして定住と思えば最愛の息子ヨセフの変死事件。乱暴者の息子たちに翻弄されます。
しかしそれもまた神様は祝福の舞台として用いて下さいます。その家族バラバラの最悪の人生の結末が、この一家全体を飢え死にから免れさせる神様の舞台設定だったとは。
神様のなさることはくすしきかな、です。

ヨセフも初めはただ泣き叫ぶだけだったでしょう。しかし、彼もまた、神様に愛され、神様がいつも共にいて下さり、恵みを施され、一度は冤罪で牢に落とされながらも、それは意味のあることで、そこでしか出会えない出会いを得るため、彼は一番低いところから一番高い、王の次の座にまで一気に駆け上がりました。

神様が共にいて下さるということ、このことがすべてであるということを、私たちも教えられました。どんな状況を通らされたとしても、私たちはあわてることはありません。そこからしかつながらない、神様の恵みの列車の旅の中に入れられているのです。

心静まって、神様を見上げましょう。気に掛かることがあるでしょうか。神様の助けが遅いと思っていることがあるでしょうか。
確かに、神様は、私たちと共にいて下さいます。祝福と、恵みの計画を用意していて下さいます。ヨセフのように舞台が暗転、真っ暗になったとしても、神様は共にいて下さいます。ヤコブのようにずるがしこく欺いても。神様は教え、和解させて下さいます。責められても奪われても、黙々と自分のできる分を果たしたイサクのように歩みましょう。ただ神様を見上げて。この一点は、手を離せません。あなたには、お委ね出来ません。そう思わずに、ひとり子イサクを祭壇に捧げたアブラハムのように。

神様も、愛する独り子イエス様を惜しまずに十字架に捧げて下さいました。

ヤコブもまた、死んだと思っていたヨセフに再会する時が来ました。

何と、神様は、私たちによく報いて下さることでしょうか。

「よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは。私は行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい。」この時130歳。ヤコブは、エジプトに旅立ちました。

ベエル・シェバ。南端の地。いよいよエジプトへという所です。
イサクが敵と和解した井戸。そして、祖父アブラハムもまた、敵と和解した、その所でした。アブラハムが柳の木を植え、主の御名を呼んだ場所(創世記21:33)、イサクが祭壇を築いて主の御名を呼んで礼拝した場所でした(創世記26:25)。

ヤコブは、この地に立って、父イサクの神にいけにえを捧げました。
かつては祖父が信じた神様を父が信じ、そして今自分が同じように神様の前に礼拝している。まさに、アブラハム、イサク、ヤコブの神です。そして、アブラハムから約4000年。どれだけの人たちが信じ、礼拝を捧げてきたことでしょうか。そして今日、今を生きる私たちが、今、ここに、同じ神様を礼拝しています。私たちもまた、ベエルシェバ、神様が敵と和解させて下さった出来事を思い出し、父祖の神の御名をあがめます。

その夜、幻の中で神様がヤコブ、イスラエルに、呼びかけました。
「ヤコブ、ヤコブ」
「はい」と答えると、神様は、おっしゃいました。
「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。
わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」

神様は、ヤコブの不安を知っていて下さいました。
父祖の地を離れ、エジプトに下っても良いのだろうか。そしてそのまま異邦の土地に死に、そこで葬られるのだろうか。

しかし神様は、「ヤコブ、ヤコブ」と名前を呼んで、呼びかけて下さいます。
一人一人の名前を呼んで、呼びかけて下さる神様。
悩みを知っていて下さる神様。

ヤコブの神様は、今日も変わりない、同じ神様です。私たち一人一人をよく知っておられ、名前を知り、心の思いを知り、名前を呼んで下さる神様です。

「私は神」
そう、それが私たちの神様です。神様は、人によって掘りだされ、安置され、あがめられる偶像の神ではなく、人の哲学や思想でもなく、生ける神様です。

「あなたの父の神である。」
神様は、私たち人間の歩みの最初からおられ、そして、アダム、アブラハム、イサク、ヤコブの神様は、私たちにも同じように恵み、愛して下さり、私たちの後の世代の人間たちにも、同じように愛と贖いとをもって、導いて下さいます。人類の神です。

「エジプトに下ることを恐れてはならない。」
神様は、私たちの人生を導いていて下さいます。私たちは、この人類の神様を信頼し、その導きに、身をゆだねればいいのです。状況はどんどん悪く、私たちにとって不利な方へ不利な方へと移っていくように感じられる時があるかもしれません。しかし私たちは、アブラハム、イサク、ヤコブの神を信じる民です。どうして、神様は私たちを、私たちの信仰の父祖たちのように素晴らしく導いて下さらないことがありましょうか。私たちは、恐れることがないのです。

「私はあなたをそこで大いなる国民にする。」
異国のような心細いところ。故郷の自分の家とは程遠い、そんな肩身の狭いところで、異教の地で。敵の地で。あなたを、そこで。 大いなる国民にする。これが神様の約束です。いつもいつも繰り返し語られる神様の約束です。大いなる国民にする。偉大な国民、数多い国民。重要な国民。祝福の基となる国民です。 私たちも異教の地で輝くのです。

「私があなたと共にエジプトに下り、私があなたを必ず連れ戻す。」
どんな異郷の地であろうと、遠い土地であろうと、敵地であろうと、「私があなたと共に」と言って下さる方がいるのです。

ヤコブは勇んで、礼拝後、ベエル・シェバを出発しました。
ちょうど毎週の日曜日の礼拝を終えてこの世界にまた派遣される私たちにも似ています。

総勢66人、そしてヨセフの家族を入れて70人。これがエジプトの中のイスラエル人でした。
エジプトのゴシェンまで出迎えたヨセフとの再会。
ヨセフは父を見るやいなや、父の首に抱きつき、その首にすがったまま、しばらく泣き続けました。

死によって切り離された家族の悲惨さ。その別離の悲しみ、叫びは、日々世界中で聞こえてきます。
しかし、死の壁を乗り越えて、また再会ができるとしたら、それは何という喜びでしょうか。
人が失ったものを取り返せるとしたら、失った家族とまた再会できるとしたら、それは何という喜びでしょうか。

「私はもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。」

夢の中に、「いってきます」と笑顔で出て行った時のヨセフのあの笑顔を、何度心の中で繰り返し、思い出したことでしょう。その声を、何度思い返し、聞いたことでしょう。そしてそれはヨセフにとっても同じことでした。

一目でいいからもう一度会いたい。家族を失った誰もがそう思うことでしょう。幻でもいいから、夢の中でもいいから会いたい。そして話をしたい。もう一度、聞きたかったことが山ほどある。あの時聞けなかったことをもう一度、聞いてみたい。誰もが、思うことでしょう。
この感動的な、ヤコブとヨセフの再会の出来事は、私たちにとって、実に美しいひな型です。
2000年の後、弟子たちによみがえって現れて下さったイエス様。その喜びはどれ位だったでしょう。
そして今、この再会は、私たちにとってさほど不思議なものではなくなりました。イエス様がよみがえられたからです。イエス様は十字架で、私たちを死に定める罪を、贖って下さいました。ですから私たちは、永遠に生きるのです。 イエス様が用意して下さった、住まいで、すべての悲しみの涙がぬぐい取られ、私たちは、愛して下さる神様と共に、すべて贖われたものは再会し、とこしえに共に生きるのです。

ハレルヤ、主の御名をたたえます。
いつもともにいて下さる神様を今週も見上げて、歩きましょう。
神様は必ず良いお導きを下さり、いのちの祝福にあずからせて下さるのですから。
この祝福を今週も取り次がせていただきたいと、心から願います。

「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。
わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」
「ヨセフは父を見るやいなや、父の首に抱きつき、その首にすがったまま、しばらく泣き続けた。 イスラエルはヨセフに言った。「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。」

 

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